16話【夢の終わり】
放課後。
終礼のチャイムが鳴ると、教室の空気が一気にほどけた。
帰り支度を始める者。
部活へ向かう者。
友達同士で寄り道の話をする者。
椅子を引く音と笑い声が、教室中へ広がっていく。
けれど、紅葉と桜子は鞄を掴んだまま動かなかった。
窓の外では、夕方へ近づいた陽が校庭を橙色に染めている。
結禍は、そんな二人を見て小さく首を傾げた。
「……帰らないの?」
「え? あ……うん。ちょっと用事が」
紅葉は曖昧に笑ってから、ふと思い返すように聞き返した。
「結禍こそ帰らないの?」
結禍は短く答える。
「私は部活あるから」
「え?」
思わず、紅葉の声が漏れた。
けれど結禍は気にした様子もなく、鞄を持って立ち上がる。
「じゃあ、先行くね」
黒髪が揺れる。
そのまま結禍は教室を出て行った。
ぱたん、と扉が閉まる。
数秒の沈黙。
(……あれ? 結禍って、部活入ってたっけ?)
結禍は昔から、授業が終わればそのまま帰るタイプだ。
今までも部活の話なんて聞いた事ない。
紅葉は、閉まった扉を見る。
妙な違和感だけが、胸に残った。
◇
窓の外では、夕日が校庭を茜色に染めている。
「未充ちゃんのバレー部と惑華ちゃんの図書委員の当番、
もうすぐ終わりの時間だね……そろそろ行く?」
桜子が小さく声をかける。
紅葉は数秒黙ってから、ゆっくり頷いた。
「うん」
昼休みの、あの笑顔が頭から離れなかった。
苦しそうだった未充。
泣いていた惑華。
それが全部、最初から無かったみたいになっていた。
「……あんなのおかしいよ」
紅葉の声は、泣きそうな掠れた声だった。
◇
昇降口を出る頃には、校舎はすでに夕闇に落ちはじめていた。
運動部がグラウンドを走る足音も、吹奏楽部の音合わせも聞こえない。
放課後の学校が眠りにつこうとしていた。
紅葉と桜子は、人目を避けるように校門脇の植え込みの陰で待つ。
やがて。
「あ、来た。惑華ちゃんだ」
先に出てきたのは惑華だった。
本を抱えたまま、静かな足取りで歩いてくる。
その少し後ろから、未充も体育館の方角から駆けてきた。
「おまたせー!」
額に薄く汗を浮かべ、スポーツバッグを肩へ引っかけている。
未充は自然な動きで惑華の隣へ並んだ。
二人は何か話しながら、並んで帰り道へ向かう。
その笑顔は、やっぱり普通だった。
紅葉は唇を噛む。
「……行こう」
桜子が頷く。
二人は、双子のあとを追った。
◇
住宅街へ入る手前。
紅葉は制服のポケットへ手を入れた。
指先が絵札に触れる。
描かれているのは。
【朝日と鶏】。
瞬間。
紅葉の影が、夕暮れの地面に濃く揺れた。
紅葉は影へ手を伸ばす。
――その手が、影へと触れる
――その手が、影の向こうの何かを掴む。
それは刃。大太刀。
それは断絶の具現。
悲憤と恩讐により生まれた刃。
“我が子を残し歩み去った貴婦人”と“残された青年”
その心より溢れ落ちた、情念の一欠片。
優しい理想の終わりを告げた、再会の果て。
黒い影を裡から引き裂くようにして、顕れるのは……。
――紫天の大太刀!
“断絶を抱く影”の御霊の依代。
彼女の唇は紡ぐ。
朝日と鶏の姿で描かれるその名は――
明告鳥が――大太刀が抜き放たれた瞬間、澄んだ音が夕暮れへ響いた。
「明告鳥!お願い力を貸して!」
紅葉の願いに男とも女ともつかない声が帰ってくる。
「――心得た。
我が依代、我が担い手、我が伴侶よ。
ならば、吾が持たざる輝くその“命”。
求めてやまなかったその“心”。
どれほど望んでも得られなかったその“行為”を――我に……」
男とも女ともつかない声が続ける。
「我が“断絶”の夢をその手に……」
人通りの少ない道で、紅葉は声を張る。
「未充ちゃん! 惑華ちゃん! ごめん!」
二人が同時に振り返った。
紅葉はそのまま刀を握りしめ振り下ろす。
「戻ってきて!」
狙うは、背後にある白煙の火を灯す蝋燭の幻影。
紅葉は、刀を振り抜いた。
刃は煙を裂き、
炎を断ち、
双子を包む“夢”を切り解いた。
切り裂かれた幻影は、絵札の姿へ戻り、宙へ落ちる。
【蝋燭と千切れそうな縄】。
【煙の見せる笑いあう二人】。
未充と惑華は、ほとんど無意識に、その札へ手を伸ばした。
――その瞬間。
ぱしっ、と乾いた音が響く。
紅葉が、未充の頬を両手で挟むように打ったのだ。
「それじゃ、駄目だよ!」
涙混じりの声だった。
「苦しかったんでしょ!?」
未充の肩が震える。
「お父さんのことも!
弟くんのことも!」
空気が、少しだけ止まった。
未充の瞳が、わずかに揺れる。
「それなのに、全部なかったことみたいにするの……おかしいよ」
責めたいわけじゃない。
間違ってるって言いたいわけでもない。
ただ。
苦しかったことまで、消してほしくなかった。
紅葉は涙を流しながら叫ぶ。
「それじゃ、弟くんのことも見てないよ!」
「――ぁ……」
未充の瞳が、大きく揺れる。
白い煙が、夕暮れへ溶けていく。
その奥で。
“優しい家族の景色”が、硝子みたいにひび割れた。
笑っていた父親の姿。
穏やかだった食卓。
“最初から何も失っていない世界”。
その全部が、崩れていく。
「や……」
惑華が息を呑む。
次の瞬間。
押し込められていた記憶が、一気に溢れた。
墓参りへ行けなかった日。
弟を見てしまった、一瞬の黒い感情。
それを責め続けた夜。
煙へ縋った願い。
「っ、ぁ……!」
未充が頭を押さえる。
惑華もその場へ膝をついた。
苦しそうな呼吸。
けれど、その目から零れ落ちる涙は、
もう“夢の中”のものじゃない、現実の涙だった。
◇
未充の嗚咽だけが、夕暮れの道へ小さく響いている。
惑華も膝をついたまま、肩を震わせていた。
白い煙は、もう残っていない。
夕焼けの赤だけが、四人の影を長く引き伸ばしている。
紅葉は、大きく息を吐く。
その瞬間。
「……あれ」
視界が、揺れた。
片目だけ。
世界の輪郭が、水へ滲んだみたいにぼやける。
紅葉は思わず左目を押さえた。
「紅葉ちゃん?」
桜子がすぐに気づく。
「どうしたの?」
「……なんか」
瞬きをする。
けれど、左目の霞みは消えない。
未充たちの姿が、片側だけうまく定まらない。
まるで、硝子越しに見ているみたいだった。
「見えにくい……」
桜子の顔色が変わる。
「え」
紅葉はもう一度目を擦る。
けれど。
夕焼けが滲む。
街灯の輪郭が崩れる。
世界の左側だけが、ゆっくり壊れていく。
胸の奥が、嫌なふうに冷えた。
『――それは、本当にどうしようもなくなった時まで取っておくんだよ』
不意に、誰かの声が脳裏をよぎった。
優しくて。
少しだけ、寂しそうな声。
『それは、紅葉から、“全て”を奪うからね』
誰の声だったのか、思い出せない。
けれど。
その言葉だけは、妙にはっきり胸へ残った。
――そのとき。
「駄目!」
遠くから、誰かが駆けてくる。
星も見えない夜空を思わせる黒髪を揺らしながら、結禍がこちらへ走ってきていた。
「結禍……?」
その手には、円盤のような鏡。
息を切らし、
今にも泣きそうな顔で、
結禍は紅葉の前へ飛び込む。
「鏡月! お願い!」
叫ぶ。
「紅葉が払う代償を、私に移して!」
空気が、軋む。
次の瞬間。
声が響いた。
高く、
幼く、
けれど、どこか獣じみた声。
まるで、“勝てないと分かっているのに必死に威嚇する小動物”みたいな声音。
「――それが貴女の願いなら」
鏡は言葉を続けた。
「ならば、吾が持たざる輝く――」
「左目!」
言葉を遮り、結禍が叫ぶ。
その瞬間。
ぶつり、と。
何かが切れる音がした。
「――っ」
結禍の左目から、血が流れる。
赤い筋が頬を伝い、制服へ落ちた。
同時に。
紅葉の視界が、戻る。
滲んでいた夕焼けが、はっきり見えた。
桜子の顔も。
泣きそうな未充たちの姿も。
そして。
片目を押さえたまま立つ結禍の姿も。
「……なん、で」
紅葉の喉が震える。
結禍は答えない。
ただ、痛みに耐えるように息を乱していた。
視界が、暗く反転する。
立っていられない。
桜子の声が遠くなる。
最後に見えたのは。
血に濡れた左目を押さえながら、
それでも紅葉を見つめている、
結禍の姿だった。
そして。
紅葉の意識は、そのまま暗闇へ沈んだ。




