13話【握った手】
「未充ちゃん!」
紅葉の声が夜へ吸い込まれる。 暗い夜道に、返事はない。
桜子も息を切らしながら周囲を見回した。
「こっち……?」
「分かんない……!」
街灯の薄明かりが木々の隙間へ落ちる。
未充はもう、どこにも見えない。
「っ……!」
紅葉は唇を噛む。
――朽縄。
あのときの未充には、ためらいがなかった。
振り返りもしなかった。
まるで“行く先だけ”が決まっているみたいに。
「……見失ったね」
桜子が小さく呟く。
紅葉は拳を握り締めた。
「追わなきゃ……」
「でも、どこへ?」
その言葉に、紅葉は何も返せなかった。
◇
二人は結局、一度社務所へ戻った。
障子を開けると、さっきまでの空気がまだ残っている。
急に静かになった室内が、妙に広く感じた。
紅葉は落ち着かない様子で部屋を見回す。
「どうしよう……」
そのときだった。
「あ」
桜子が、部屋の隅を見た。
そこに、黒いスクールバッグが置かれていた。
「……未充ちゃんの」
紅葉は駆け寄る。
さっき飛び出した拍子に、そのまま置いていったのだろう。
「どうする……?」
桜子が少し迷うように言う。
「勝手に見るの、よくないと思うけど……」
紅葉はバッグを見つめた。
少しだけ躊躇って、それから口を開く。
「でも、今は未充ちゃん探さなきゃ」
桜子は小さく頷いた。
バッグを開けると中には、
教科書に筆箱。くしゃくしゃになったプリント。
――そして、
『次の持ち主へ』から始まる"神社に伝わる祭歌が書かれた紙"が折りたたまれて入っていた。
紅葉は一瞬だけ、その歌詞に目を止める。
【やっつ きずなが くちたなら】
【すすむもとまるも しばられず】
【ゆらぎさだめぬ こころあり】
【あしをとらえて まよわずに】
(やっつ……そして、『迷わずに』か……)
その下から、生徒手帳が出てきた。
「あった」
桜子が住所欄を見る。
「弔鐘……ここ」
紅葉も覗き込む。 住宅街の住所だった。
「行こう」
すぐに紅葉は立ち上がった。
けれど桜子が慌てて止める。
「待って、紅葉ちゃん」
「でも!」
「今から行っても、もう夜だよ」
紅葉は言葉に詰まる。
時計を見ると、もうかなり遅い時間だった。
「こんな時間に急に家へ行ったら、未充ちゃん達のお母さんも困ると思う」
「……でも」
「未充ちゃんが帰ってるなら、今は家にいるはず。だったら明日、ちゃんと話しに行こう?」
桜子の声は静かだった。
「焦って行っても、余計こじれるかもしれないよ」
紅葉は俯く。
分かっている。
夜中に押しかければ迷惑になる。
普通に考えれば、その通りだ。
でも。
「……間に合わなかったら」
掠れた声だった。
桜子は少し黙って、それから紅葉の隣へ座る。
「間に合わせるために、今日は落ち着こう」
優しく言う。
「大丈夫。明日、ちゃんと行こう」
◇
結局、桜子はそのまま社務所へ泊まることになった。
「紅葉ちゃん、一人にしたら絶対こっそり行くでしょ」
「……行かないもん」
「間があった」
「……」
布団を並べる。
けれど、二人ともなかなか眠れなかった。
天井を見上げながら、紅葉はぽつりと呟く。
「未充ちゃん、今なにしてるんだろ」
桜子はすぐには答えなかった。
静かな夜だった。
虫の声だけが遠くで聞こえる。
「……怖いんだと思う」
やがて桜子が言う。
「怖いから、止まれなくなってる」
紅葉は目を閉じた。
◇◆◇
「……ゆ、結禍ちゃん?」
引っ越す前、家の向かいにあった小さな兎小屋の前で、幼い紅葉は首をかしげた。
小屋の中では、結禍が固まっていた。
腰まで届く黒髪を背に流した小さな少女は、両手を胸の前でぎゅっと握りしめたまま、ぴくりとも動かない。
その足元には、白や灰色の兎たちがわらわらと集まっていた。
鼻をひくひくさせ、結禍の靴先やスカートの裾に顔を寄せている。
「……」
「結禍ちゃん?」
「……紅葉ちゃん」
結禍は、涙を浮かべか細い声で言った。
「うごけない」
紅葉は一瞬きょとんとして、それから慌てて小屋の中へ入った。
「だ、大丈夫だよ。噛まないよ」
「でも……、いっぱい」
幼い紅葉はよく分からなかった。
ただ、結禍が本当に困っていることだけは分かった。
だから紅葉は兎たちの間に割って入り、結禍の手を取る。
「じゃあ、こっち」
「……うん」
紅葉が手を引くと、結禍はようやく一歩を踏み出した。
兎たちはまだ名残惜しそうに足元へ寄ってくる。
紅葉は『ちょっと、ごめんね』と兎たちに声をかけ、結禍を外へ連れ出した。
小屋の外へ出た瞬間、結禍はほっと息を吐く。
それから、紅葉の手をぎゅっと握り返した。
「……ありがと」
「うん!」
紅葉が笑うと、結禍もほんの少しだけ笑った。
その様子を、少し離れた場所で見ていたお婆さんが、微笑ましそうに目を細める。
「あらあら。結禍ちゃんは、紅葉ちゃんがいないとだめねえ」
結禍は、むっとしたように頬をふくらませた。
「だめじゃない」
「そうかい?」
「……びっくりしただけ」
お婆さんはくすくす笑い、それから兎小屋の方へ視線を向けた。
「結禍ちゃん。兎は嫌い?」
結禍は少し考えてから、首を横に振る。
「嫌いじゃない。でも……あんなに集まってくると、びっくりしちゃう」
「そう……」
お婆さんは、そこで一度だけ目を伏せた。
その横顔は、さっきまでの優しい笑みとは少し違っていた。
「結禍ちゃん。兎を嫌っては駄目よ」
「……どうして?」
「月には兎さんがいるからよ」
「月に?」
「ええ。いつか、結禍を選んだ子が……」
お婆さんは言いかけて、静かに言い直す。
「いえ。結禍が選んだ子が、現れるかもしれないのだから」
結禍は意味が分からないという顔をした。
紅葉にも、もちろん分からなかった。
けれど、その言葉だけは、妙に耳の奥へ残った。
お婆さんは今度は紅葉の方へ向き直る。
そして、幼い紅葉の頭をそっと撫でた。
「紅葉ちゃん」
「なぁに?」
「貴女は恵まれた子。愛された子」
お婆さんの手は、あたたかかった。
けれど声は、少しだけ遠かった。
「でもね。それは、本当にどうしようもなくなった時まで取っておくんだよ?」
「……それ?」
紅葉が聞き返すと、お婆さんは困ったように笑った。
その笑みは優しいのに、なぜか少し怖かった。
「唯一、殺めの武具に宿る“あの子”は――」
風が吹いた。
兎小屋の藁が、かさりと鳴る。
「紅葉から、“全て”を奪うからね」
紅葉は何も答えられなかった。
隣で、結禍が紅葉の手を強く握る。
まるで、離してはいけないものを確かめるように。
◇◆◇
「紅葉ちゃん……紅葉ちゃん、朝」
肩を揺すられ、紅葉はゆっくり目を開けた。
「……ん」
ぼやけた視界の中、桜子が座っている。
障子の向こうは、もう明るい。
「どうしたの?」
「なんか懐かしい夢を見た気がする」
「夢?」
「内容は……、覚えてない」
手のひらには誰かの指の感触だけが残っている。
「――あ」
微睡みから覚めた紅葉はようやく昨夜のことを思い出した。
「……行かなきゃ」
布団から飛び起きる。
「準備、できてるよ」
桜子の横には、未充のスクールバッグと生徒手帳が置かれていた。




