11話【愛しくも、疎ましき弟へ】
白く塗り潰された視界が、ゆっくりと色を取り戻していく。
そこは、未充の家、弔鐘家のリビングだった。
食卓には、お母さんがいて。弟がいて惑華がいて。
そして――新しいお父さんが座っている。
湯気の立つ味噌汁の匂い。
焼き魚の焦げる香り。
テレビでは、どうでもいい夕方のニュースが流れていた。
「未充、ぼーっとしてどうしたの?」
お母さんが笑う。
その声は、昔と変わらない。
やわらかくて、優しい。
だからこそ――。
「……別に」
箸を持つ手に力が入る。
向かい側では、弟が継父に……いや、弟にとっては実父である父親に、学校の話をしていた。
「それでさ、先生が超ウケて――」
「へえ、すごいじゃないか」
自然な会話。
自然な笑顔。
なんの変哲もない、本当の家族の風景。
でもその光景に、未充は喉の奥に硬いものが詰まる感覚を覚えた。
違う。
この人は悪くない。
母が笑ってくれるなら、それでいいはずだ。
弟だって、大好きだ。かわいくて、守りたい存在のはずだ。
――なのに。
視界の端で、仏壇が見えた。
小さな写真の中で、昔の父が笑っている。
あの日。
墓参りへ行くはずだった日。
弟が途中で「疲れた」と言ったから。
お母さんが「また今度にしようね」と笑ったから。
結局、引き返した。
その“また今度”は、その年、もう来なかった。
「未充?」
惑華の声で、はっとする。
気づけば、箸を強く握りすぎていた。
「……ごめん」
未充は俯く。
違う。弟が嫌いなわけじゃない。
むしろ、大好きなんだ。
なのに、あの日だけは。
――あの子が疲れたなんて言わなければ。
――パパに会いに行けたのに。
そんなことを、一瞬でも思ってしまった。
その記憶が、未充の胸をずっと締め付けていた。
◇
夕食のあと。
部屋に戻った未充と惑華は、言葉もなくベッドへ倒れ込んだ。
薄暗い部屋。
カーテンの隙間から、街灯の明かりだけが差している。
二人は自然に身体を寄せ合う。
抱き締める、というより。
離れないように確かめ合うみたいに。
未充の額が、惑華の肩へ触れる。
惑華の指が、未充の背中を撫でる。
小さい頃からずっとそうだった。
怖い夢を見た夜も。
父の訃報を聞いた夜も。
二人はこうして、同じ温度を分け合ってきた。
「……ねえ、未充」
惑華がぽつりと呟く。
「うん」
少女は少しだけ目を閉じた。
その返答の意味を、説明されなくても分かってしまう。
弟を家族として愛している。
母を嫌いになりたいわけじゃない。
新しい父親だって、悪い人じゃない。
そんなこと、ちゃんと分かっている。
でも、お母さんが新しいお父さんを選んだみたいに見えてしまう瞬間が、苦しかった。
父を忘れてしまったみたいで。
自分たちだけ置いていかれたみたいで。
そんなふうに感じる自分も、嫌だった。
そして――
胸の奥底に、一瞬だけ生まれてしまった黒い感情。
――あの子がいなければ。
――邪魔されなければ。
その一瞬を、二人はずっと忘れられなかった。
ふたりは互いの服を掴む。
答えなくても、分かる。
双子なのだから。
ずっと隣にいる、私の片割れ。
私達が墓参りへ行けなかったことを引きずっているのも。
母の笑顔を見るたび苦しくなるのも。
弟を責めそうになる自分が怖いのも。
全部、同じ。
「……うん」
やっと落ちた声は、泣きそうだった。
二人は少しだけ抱き合う力を強くした。
これは、誰にも言えない。
母にも。
弟にも。
新しい父にも。
言ってしまえば、本当に“悪い子”になってしまう気がした。
だから隠した。
ずっと。
二人だけのものとして。
部屋の中は静かで、
時計の針の音だけが、やけに大きく聞こえる。
――あの子がいなければ。
――邪魔されなければ。
あの一瞬。
たった一瞬の黒い感情。
でも、二人にはそれが許せなかった。
少女は片割れの肩へ額を押し当てたまま、ぽつりと呟いた。
「……全部、私たちが悪いんだよね」
声が震える。
「私達がこう思わなければ、みんな幸せなはずなのに」
少女が静かに目を閉じる。
長い睫毛が、微かに揺れた。
「……うん」
その肯定は、あまりにも弱々しかった。
「私たちが、間違えたの」
双子は互いを抱き締める。
壊れそうなものを守るみたいに。
違う。
本当は違う。
そんなはずない。
誰かがそう言ってくれればよかった。
言って欲しかった。
けれど、この部屋には二人しかいない。
そして二人は、互いの痛みを理解しすぎていた。
だから否定できない。
「……全部、なかったことになればいいのに」
未充が掠れた声で言う。
「私たちが、こんなふうに思わなくて済む世界なら」
惑華の唇が、ゆっくり動く。
「お父さんが死んでなくて」
「お母さんが泣かなくて」
「弟を見ても、苦しくならなくて」
「弟を責めそうになる私たちもいなくて」
「みんなが、幸せで――」
二人の願いが、重なる。
「「――私たちが、“悪い子”じゃない世界を」」
その瞬間だった。
部屋の隅に、白い煙が生まれた。
線香の匂いにも似ている。
けれど、もっと甘く、もっと深い。
吸い込めば、胸の痛みごと眠らせてくれるような――そんな匂い。
「……なに?」
未充が顔を上げる。
惑華も、未充を抱きしめたまま息を呑んだ。
煙は、机の上に置かれた煙管から立ちのぼっていた。
火など、つけていないのに。
「――ならば眠れば良い」
声がした。
落ち着いた幼い子供の声。
「見なくていいものは、見なくていい」
煙が、ゆっくりと二人を包む。
『例え、嘘であったとしても真実を隠し続ければ、夢で覆えばいい。そうすれば人は、笑える。生きていける』
惑華の指が、震えた。
「……あなたは」
「我が名は、偽霞」
煙は人の形にも、獣の形にもならず、ただ揺らめく。
「“逃避”を抱き、真実を包む名」
未充は息を呑んだ。
「望むのなら、見せよう。
お前達が『いるはずだったいつか』の夢を」
その言葉に、惑華の目が揺れた。
未充が首を振る。
「でも……そんなの」
声が震える。
「それって、嘘じゃん……」
「嘘でも救われよう」
幼い声は囁く。
「痛み続ける真実と、歩み続けられる嘘。どちらが救いかなど、人によって違う」
その言葉に、惑華の唇がわずかに動く。
未充は、まだ迷っていた。
それでいいのか。
本当に、そんなことを願ってしまっていいのか。
そのとき――
別の影が、揺れた。
机の引き出しの奥。
古びた蝋燭立てが、かたり、と小さく音を立てる。
「――躊躇っているのか?」
今度の声は、若い男の声だった。
胸の奥を、直接叩くような声。
「動けば変わるかもしれない。後悔しないかもしれない」
「……だれ」
「我は、朽縄。朽ちた絆、千切れた理性。
迷い続けても、何も変わらぬ。悔やむだけだ。
動けば変わるかもしれない、後悔しないかもしれない。欲しいものへ手を伸ばせ」
「……未充」
惑華のその声は小さかった。
けれど、未充には分かった。
惑華も、同じ場所にいる。
同じ痛みの中にいる。
同じ罪悪感に、ずっと膝を抱えていた。
「……私たち」
未充の声が震える。
「悩まなくなれる?」
偽霞は答えた。
「偽りの夢で良いのなら」
朽縄は問う。
「理性は邪魔か?」
二つの声が重なる。
「「我らを呼ぶがいい依代よ」」
未充と惑華は、互いを抱きしめた。
怖い。
間違っているかもしれない。
それでも。
もう、限界だった。
「……お願い来て、そして叶えて」
二人は縋るように影に手を伸ばした。
――惑華の手が、影へと触れる
――惑華の手が、影の向こうの何かを掴む。
それは煙。煙管。
それは逃避の具現。
不徳と夢想の見せる幻惑。
方や夫を裏切り、子を棄て、
それでも今の、生まれてしまった愛する子供達に囲まれた優雅な生活に、自分は恵まれていると。
方や彼が見た“もし”母が拐われていなければ、
いや、母の連れ子として兄として育てられていればと。
その情念の一欠片。
あるはずだった虚構の幻。
黒い影を裡から引き裂くようにして、顕れるのは……
――夢見せる煙管!
“逃避を抱く影”の御霊の依代!
惑華の唇は紡ぐ。
煙の見せる笑い合う二人姿で描かれるその名は
「……偽霞。お願い。
『私たちが、弟を恨まなくていい世界』にして」
煙が、応えるように脈動した。
「――それが貴女の救いなら」
幼い声が、部屋の奥から響く。
甘く、優しく。
けれど、どこまでも底の見えない声音。
「ならば」
煙が脈打ち声が重なる。
「「吾が持たざる輝くその“命”。
求めてやまなかったその“心”。
どれほど望んでも得られなかったその“行為”を――我らに……」」
白い煙が、未充と惑華を包み込む。
未充も、涙をこぼしながら影より引き抜いた燭台を握りしめ願いを続けた。
「私達を……"間違えたままの私達"を立ち止まらせないで……そして」
そして二人の声が、重なる。
「「私たちがこの願いを願った事を忘れさせてください――」」




