10話【記憶の無い昨日】
「鏡って、何を映してるの?」
未充の声は、誰に問いかけたのかも分からない。
紅葉にも、桜子にも。
あるいは、その場にいない誰かに向けた言葉だったのかもしれない。
社務所の中に、沈黙が落ちる。
桜子は膝の上で【和本】の絵札を握りしめ、口を開いた。
「未充ちゃん。疑問はあると思うんだけど、黙って聞いてほしい」
その前置きだけで、未充は不安そうに顔をこわばらせた。
けれど逃げなかった。
「……うん」
「それでね、ここの神様……実際に存在するの」
風が、窓の隙間で鳴る。
未充は、冗談だと笑わなかった。
紅葉は、そんな未充に少し驚く。
「信じるの?」
「信じるしかないよ」
未充は力なく笑った。
そのとき。
未充のスマホが震えた。
びくり、と彼女の肩が跳ねる。
画面に表示された名前は――。
「……惑華」
未充の顔から、血の気が引いていく。
紅葉と桜子は、何も言えずにその画面を見つめた。
着信は、すぐに切れた。
代わりに、一件のメッセージが届く。
『未充、どこにいるの?』
続けて、もう一件。
『早く帰ってきて』
そして――三件目。
『お父さんが、心配してる』
未充の指が、震えた。
「……違う」
声がかすれる。
「違うのに……」
スマホの画面を握りしめる未充の手に、力がこもる。
桜子がそっと立ち上がった。
「未充ちゃん」
「惑華は……」
未充は顔を上げた。
泣きそうなのに、泣けない顔だった。
「私だけが、変なの? みんなが正しくて、私だけが……まだ、死んだお父さんにしがみついてるだけなの?」
その言葉に、紅葉は息を呑んだ。
違う、と言いたかった。
でも、言葉だけでは足りない気がした。
未充の叫びは止まらない。
「惑華だって、そうだったじゃん……!」
未充は、涙を乱暴に拭った。
「あの日……お父さんのお墓参りに行ったあの日……」
声が震える。
「弟が『疲れた』って言って……それでママも『今日はもうやめましょう』って言って……」
未充は唇を噛んだ。
「惑華だって我慢してたじゃん。ママの行動、信じられなかったじゃん」
拳が、膝の上で震える。
「二人で帰ってから、決めたじゃん。私たちはずっと一緒だって」
未充は顔を上げた。
「なのに……なんで、なんで惑華まで、忘れてるの……?」
未充の声は、そこで途切れた。
言い切った瞬間、自分の中に溜まっていたものまで一緒に吐き出してしまったように、肩が小さく震える。
社務所の中に、沈黙が落ちた。
責める言葉は、誰からも出なかった。
紅葉も、桜子も、ただ未充の呼吸が少しずつ落ち着くのを待っていた。
「……ごめん」
やがて、未充がぽつりと呟いた。
さっきまでの勢いが嘘みたいに、声は小さかった。
「ごめん。今の、八つ当たりだった」
膝の上で握りしめていたスマホを見下ろしながら、未充は唇を噛む。
「最近……なんか、変でさ。思ったことが、そのまま口に出るっていうか……動いちゃうっていうか……」
紅葉が眉を寄せる。
「動いちゃう?」
「うん」
未充は、うまく説明できないことに苛立つように、髪をくしゃりと掻いた。
「考える前に、もう身体が動いてるの。家飛び出したのもそうだし、朝、星ノ宮さんの教室まで行ったのもそう。
さっき怒鳴ったのも……たぶん、止めようと思えば止められたはずなのに」
視線が落ちる。
「気づいたら、もう動いてる」
桜子が静かに未充を見る。
「……最近って、いつ頃から?」
「え?」
「そういうふうになったの。思ったことを止められなくなったのって」
未充は少し考え込んだ。
けれど、すぐに答えは出なかったらしい。
「……いつ、だろ」
眉間に皺が寄る。
「昨日から……いや、もっと前から?」
未充は、言葉をひとつずつ拾っていく。
「少なくとも、今日の朝はそうだった。でも……もっと前からだった気が……」
未充はそこまで言って、急に黙った。
「……あれ?」
顔から、すっと血の気が引いていく。
「どうしたの?」
紅葉が聞く。
未充は、ゆっくりと顔を上げた。
「昨日……私、何してた……?」
社務所の空気が、冷える。
「家に帰って……、惑華と一緒に。弟が宿題してて、ママが夕飯作ってて……たぶん、普通にご飯食べて……」
言葉が途切れる。
「でも、そこから先が……思い出せない」
未充は自分のこめかみに手を当てた。
「寝る前、 部屋で、惑華と何か話した? ……分かんない」
呼吸が浅くなる。
「なにこれ。なんで思い出せないの」
桜子は膝の上の【和本】の絵札を見つめた。
そして、静かに言う。
「未充ちゃん」
「……なに」
「私の神様は、過去を見せてくれるの」
未充の目が揺れる。
「過去……?」
「うん。記憶じゃなくて、記録。忘れていても、曖昧でも……そこに起きたことを見ることができるの」
桜子は絵札を両手で包む。
「怖いものを見るかもしれない。知ったあと、戻れないこともあるかもしれない」
未充は息を呑んだ。
「でも……昨日、何があったのか、知りたいなら……。
――この子は、見せてくれる」
未充はしばらく黙っていた。
スマホの画面には、まだ惑華からのメッセージが残っている。
『早く帰ってきて』
『お父さんが、心配してる』
未充はそれを見つめ、ぎゅっと拳を握った。
「……見る」
小さな声だった。
けれど、迷いはなかった。
「見せて。お願い」
「そう……」
桜子は頷き、絵札を胸元に当てる。
すると――影が、揺れた。
桜子の足元から伸びた黒が、畳の上で紙に落とした墨のように滲み広がる。
――彼女の手が、影へと触れる。
――彼女の手が、影の向こうの何かを掴む。
それは本。和綴じの和本。
それは追憶の具現。
懊悩と決意の末の語り。
貴婦人と青年、その心より溢れ落ちた、情念の一欠片。
貴婦人が青年へ語った過去、
残された子が知らなければ救われた真実。
黒い影を裡から引き裂くようにして、顕れるのは……
――過去を見せる和本。
“追憶を抱く影”の御霊の依代。
彼女の唇が紡ぐ。
文字が飛び消えゆく和本の姿で描かれるその名は
「……時記。お願い」
「追憶の夢を求めるのだな――よかろう」
声の高い老爺のような声が、社務所の中に響いた。
「ならば吾が持たざる輝くその“命”。
求めてやまなかったその“心”。
どれほど望んでも得られなかったその“行為”を――我に……」
頁が、ひとりでに開く。
次の瞬間。
紅葉たちの視界は、白く塗り潰された。




