夜の王と血 0.3
「曹灰教授、先ほどの教授のお話、大変興味深いものでした」
日本が世界に誇る物理学の権威は、眼鏡の奥に知性の光を覗かせながら静かにそう云った。
九月の末、曹灰玄武は日本物理学会の会場にいた。誰もが冷ややかな視線を向けて通り過ぎてゆく中、彼は漸く自分の理論を真剣に評価してくれる人物に巡り合った。しかもそれは、世界広しといえど名を知らぬ者はいないと云われる程の大物だった。その男の名は金剛龍之介と云った。
金剛は若くして、生体物理学の分野において人類の歴史に残る発見をした。それは『意識量子化不可能の証明』。分かり易く云うと、二十一世紀初頭まで可能性があると見込まれていた『潜入型バーチャルリアリティ』、即ち人間の意識そのものがコンピュータの中に入る事、が不可能である事を証明したのである。
この証明によって人間の意識がコンピュータの中で永遠に生き続けたり、他者の意識との融合がなされたりする可能性はもはや無くなった。一方で、人間の脳への電気的情報の送信とそれに対しての反射を取り出し、外部のコンピュータ上でそれらの統合を行いあたかも異世界に存在しているかのように脳内体験させる『外部処理型バーチャルリアリティ』の実現性は現在も模索されている。その実現に向けて、世界各地の大学や研究機関が日夜研究を行っていた。
肝心な事はまだ他にもあった。この証明によって「人間の意識は脳の活動に一〇〇%依存している」という事も否定されたのである。こちらの発見の方が前述の発見よりも寧ろ画期的、革命的と云えよう。実際に当該論文が発表された時には学界だけでなく、政界、経済界、宗教界をも巻き込んでの大論争となった。
この結果を特に大きな衝撃を以て受け止めたのは、当然の事ながら宗教界であった。様々な宗教の政治的指導者が声明を発表し、概ね好意的に受け取ったという胸の内を伝えた。近代産業文明の発展と共に進んできた科学と宗教の軋轢が一段落着いたと、各国メディアもこぞって報道した。その実、この論文の内容を詳細に理解している人間は専門家の集まりである学界にも、それ程多くなかったのである。
〇と一や、電子スピンの右回転、左回転などのデジタル表現を基礎とするコンピュータと、生物の意識を形成する基礎要因は「根本が異なる為に同じ領域で扱う事は出来ない」事を初めて明らかにしたその論文は、人間の世界に対する認識を新たにするきっかけとなった。然しながら、生物の意識の基礎要因は未だ完全に解明されておらず、『一次理論』と呼ばれる事象の地平線を便宜的に用いて複雑性の階層について体系化した学説のみが一般に公開されていた。
この理論に対する一つの具体的な仮説を投じたのが、曹灰がこの学会で発表した研究の内容だった。
金剛の『意識の量子化』についての研究は、他にも重要な結論をいくつか導き出した。確かに人間の意識をバーチャル空間に飛ばす事はできないが、コンピュータによって人間の脳の活動を拡張させる事は可能であると分かったのである。つまり脳の数理的な機能“だけ”を見れば、デジタル言語によってもその演算能力を飛躍的に高める事が出来る。それは人間の頭の中にスーパーコンピュータがあるようなものだ。これは十分実用化の余地があった。
その他にも、「人工知能はどれだけ賢くなっても、人工知性にはならない」、「人間の意識以外の意識の存在」、「そもそも厳密に定義された意識とは何か」などの重要な問題を提起した。
これらの研究により、金剛龍之介は“世界の金剛”となった。それも彼がまだ三十三歳の時に、である。研究者の中では異例の若さと云える。それに対し曹灰はアカデミズムにおいて、この若き天才とは真逆の立ち位置にいた。
研究分野は金剛と同じ生体物理学であり、特に意識の解明を目的としていた。彼はこれまで行ってきた数多くの実験で、意識がこの世界に普遍的に存在する物質とは異なり、また化学反応の直接的産物とも云えない事を確信していた。意識は時間的・空間的な尺度で測る事の出来ない、より高次の場のようなものによって形成されるというのが彼の持論であった。しかも、それだけにとどまらず、彼の考えは人間の意識がさらに高度な知性によって限界を設けられているという所にまで至っていたのだ。
この考えを現代のアカデミズムが受け入れる筈はなかった。ただでさえ意識の正体として未知の物質或いはエネルギーを持ち出しているにも拘らず、それに加えて神に等しい超知性的存在を仮定するなど権威ある学会においては言語道断という訳である。ガリレオの時代に地動説が御法度であったように、現代科学で神を認めるなど正気の沙汰ではないというのが一般的な科学者達の見解だった。
昨今のアカデミズムが殊更に形而上学的仮説を拒絶し排斥する理由はそれだけではなかった。現在進行中の最も注目すべき物理化学、宇宙プロジェクトは火星の開拓と、人類移住可能性の実現にあるのだった。
ダスクフロンティア社(DFC)による開拓アンドロイドの派遣、月面プラントの完成から十余年。人類は次なる開拓地としての火星への投資に力を注いでいる。長期にわたる圏外活動が人体に致命的な影響を及ぼす事が医学的に明らかにされた時期と、高度な汎用性を備えたアンドロイドの完成が重なったのは人類にとってまさに、幸運としか云いようのない事件であった。投資家だけでなく自然科学者でさえも、諸手を上げて新たな仲間を受け入れ、そして彼等の力を利用する事を選んだ。曹灰はそれを愚かな種の延命の為だと軽蔑していた。目先の利益と、あてのない拡大の為の方便に過ぎないのだと。
産学複合体に支配された学界の中で曹灰は異端認定され、追放寸前であった。