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ア戦sioン  作者: 唖ヰ路 むネん 
第二章
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夜の王と血 0.4

「金剛教授にそのようなお言葉を掛けていただいて、大変恐縮です」


 深々と頭を下げると、金剛は「そんな丁寧になさらないでください」と云った。一昔前とは違い、科学界においても年功序列体制は廃れてきた。たとえ相手が若造でも一流であるならば、こちらが頭を下げない訳にはいかなかった。無論その中にはある程度の割合で嫉妬や皮肉が混じっている事もあろうが。


「より詳細なお話を伺いたいのですが、お時間はありますか?」


 金剛は「礼より中身」の人間であるらしい。


「勿論です。私のようなはぐれ者・・・・の愚説を聞いていただけるなんて、願ってもみない事でございます」


 曹灰はプライドを捨てても、それをあっさり捨てられるだけの老獪さは失っていなかった。


 あまりにも甲斐甲斐しく空々しい言葉遣いに、若き天才は苦笑いを浮かべていた。曹灰にはそれが良心から来る遠慮の笑みなのか、軽蔑から来る嘲笑なのか一向に判別出来なかった。


「では、あちらでコーヒーでも飲みながら」


 金剛は笑顔で休憩所の方を指した。



 ……***……



「ですから、物理的時間と心理的時間の間には一切の違いが無いのですよ。これはつまり、最も極端な例を挙げれば、ブラックホールと知的生命の意識はイコールであるという事です。これこそまさしくクロノスとカイロスの融合! 意識というものはまだ発見されていない未知の素粒子から形成されているか、量子論や相対性理論では説明がつかない、全く新しい組成のものであると云えるでしょう」


 曹灰が熱弁を振るう間、金剛は一切口を挿む事なくただ静かに耳を傾けていた。


「これらを踏まえれば、明らかに人間の意識の中には特異点が存在しています。それが閉ざされた次元への鍵となる事は間違いありません!」

 

 興奮気味に結論を述べるが、金剛は何も云わない。きっと今頃、天才の脳みそはフル回転しているに違いない。

 考え事をしている時は他人に話しかけられるとイライラするものだと思い、曹灰は暫くの間黙っていた。然し、やはりどう思っているのか気になる。


「金剛教授はどのように思われますか?」

 

 少々控え目に意見を求めると、


「私はあなたのバックグラウンドを知りません」金剛は穏やかな口調でそう云った。「それでも敢えて口を出すならば、あなたは現実から逃避しようとしているのではないですか?」

 

 思いがけない言葉に、曹灰の興奮は一瞬にして冷めた。


「確かに、現在の科学界の自然に対する姿勢には望ましくない一面があります。社会や国からの要請に従って、成果重視、利益重視の研究を続けるのは健全ではありません。然し、それでも――科学者は科学者である事をやめてはいけないのです。あなたは閉塞した現状に鬱屈し、想像の世界に浸ってしまった。あなたはもはや科学者ではありません」

 

 金剛はきっぱりと云い捨てると席を立った。


「曹灰さん、あなたは恐らく近日中にも学界から追放されるでしょう。もし又この世界に戻って来たいのであれば、それに相応しい在り方を取り戻して来て下さい」


 曹灰は何故自分が“ここ”にいるのかを見失いそうになっていた。喉元にせり上がってきた胃酸の不快なむかむかばかりが意識を圧迫していた。


 金剛の背中が遠ざかっていく――――それはまるで、科学界そのものが自分から離れていくかのように見えた。


 彼は無意識の内に立ち上がり、小さくなる背中に向かって叫んでいた。


「それじゃあ一体どうやって説明するんだ!? 太陽放射も宇宙線も増加している――あり得ない事だ! 地殻活動の活発化や謎の熱源は? 人間の凶暴化は? どうやって説明するんだ!」


 曹灰は背中が見えなくなるまで叫び続けた。叫び続けたが、金剛が振り向く事はなかった。 



 ……***……



 膝から崩れ落ちるようにして、彼はさっきまで自分を支えていたイスに再び沈んでいった。背筋を伸ばして座る気力すら失われ、硬い背もたれに力無く寄りかかる。腰の辺りでスーツがしわくちゃになって堆積しているのを感じた。嗚呼、また一つ刻む必要の無いしわ・・が追加されたのだなと、彼は他人事のように考えていた。

 もうどうでもいい。何もかもどうでもいい。考える事すら億劫になった。そう思っていた筈なのに、何処からかやり場のない怒りが湧いてきて、彼はそれを休憩スペースに置いてある安物のプラスチックのイスにぶつけた。



「お前は! 、どうして! 、こんなに! 、役立たずなんだ!!」



 力任せに足を突き出すと、丸テーブルの反対側にあったイスが二つとも音を立ててひっくり返った。一つはずっと向こうまで吹っ飛んでいった。それでも彼のイライラが収まる事は無く、むしろより一層濃度を増しただけのように感じた。


 忍び寄る滅びの気配――――それはスーツの外からやって来て、化学繊維が交差するシャツの生地に滲み込み、古ぼけた下着を難無く透過して生身の皮膚に辿り着く。それが触れた途端、産毛が逆立つような悪寒に襲われた。神経毒が広がっていく感覚が徐々に肉の内側に食い込んでいき、行き付く果ては骨髄に達したところで、彼はふと熱くなった目頭からこぼれ落ちる水滴に気付いた。


(なんて惨めなんだろう…………)


 あと一歩まで近づいているのに、肝心なところで何かが抜け落ちてしまう。思えば、彼の人生はいつもそうだった。

 曹灰は金剛龍之介を前にして爆発した不幸感が、思い出したくもない昔の記憶をジリジリと引き寄せているのを感じた。


(父親も、母親も、あの女も、最後はすべてをさらっていく)


 彼には失った記憶、奪われた記憶しか残っていなかった。

 すべてを捨てて一からやり直す。その行為と努力がどれほど魂を擦り減らすのか、彼は肉の記憶として持っていた。

 何もかも諦めてしまえばいい。それで人生は丸く収まる。自己暗示との格闘が延々続いた末、彼はいつも戦う事を選ばざるを得なかった。

 

 金剛龍之介の自信に満ちた顔が、脳裏をぎった。


 同時に沸き起こる行き場のない不快感が嫉妬である事に、彼は気付かなかった。そんな事には気付きたくもなかった。だから彼は、それを自分の無能さに対する自己嫌悪として処理していた。



「随分、参っているようじゃないか」



 耳障りな男の声が、右の耳にとりわけ大きく聞こえた。男は同じテーブルにつく訳でもなく、ただ傍に立って、消沈した研究者とひっくり返ったイスのコントラストを眺めているらしかった。どうせこの光景を面白がっているんだろう。曹灰は男に対する強烈な憎悪を感じた。


「私に何か手伝える事はあるかな?」 


 いつまで経ってもピクリともしない曹灰に見かねたのか、男は自分から話を進めていった。


「過去の栄光は決して君を裏切らない。こう見えて、私は君を高く評価しているのだ。君がその気にさえなれば、いつでも力を貸してやれる。どうだ、またあの頃のように、人類の役に立つ研究をしないか?」


「…………不完全な人間のために、か?」


「そうだ、不完全だからこそ・・・・・だ。不完全だからこそ研究しがいがあるのではないか。君はカットされたダイヤモンドを見てどう思う? あんなものには何の研究的価値も無い。ただ美しいと思うだけ、それで終わりだ。我々は未だ原石の状態にある人類のためにこそ叡智を積み重ね、いつしかそれが輝きを放つ為の手助けをしようではないか」


 曹灰は男の詭弁に心の底から軽蔑を抱いた。


「結局お前たちもあの豚と同じ、家畜の仲間か」


 火星活用計画推進機構理事の顔を真正面に見据えて、彼は(さとすように云った。言葉の内容と口調との間には著しい温度差があった。


「さっさと、失せろ……」


 あまりにも無礼な物云いに面喰ったのか、男は一瞬火が付いたような顔をした。それも冷めると、口角を精一杯吊り上げ、視線にありったけの侮蔑を込めた。


「君の人生は終わりだ、曹灰玄武君」


 男はそう云い残し、去っていった。



 ……***……



 学会からの帰り道、曹灰は朝とは違い会場の最寄駅から電車に乗る事を選ばなかった。


 夕暮れの街に、帰宅を急ぐ人々の列が幾筋も出来ている。彼等は皆一様に、幸せそうだったり、仕事や人生に不満を抱えていそうだったり、何も感じないように努力していそうだったりと、観察の対象としては申し分のない、それでいて平凡極まりない顔を並べていた。曹灰はそういう人々の一人一人の顔に焦点を当てては、その人の顔から連想するその人の人生を考えた。それに飽きたら、観察眼の視野を全体に広げて見る。全体をよく眺めたら、又一人一人の顔を見る。それを何度も何度も何度も繰り返して、このありふれた奇妙な人間という存在について考えた。そして疑問に思う。


(今日の朝、意気揚々と学会に出向いていった私は何処へ行ったのだ?)


 スーツの上着が振動する。それは一通のメールが届いた事を意味していた。ポケットに手を突っ込む。取り出そうとした携帯は彼の手を逃れて、地面に真っ逆さまに落ちた。ガツッと嫌な音がする。彼は暫くの間、年季の入った携帯電話が地面に落ちているのを眺めていた。


『残された時間は少ない。お前に見込みが無いようなら、切り捨てる用意が我々にはある』


 届いたメールの文面を目にした時、彼は腹の中から沸々と煮えたぎる怒りが湧いて来るのを感じた。


(そんな事は分かっている! こっちは不眠不休で働き続けている! これ以上、どうしろと!?)


「クソッ!」


 彼は自分のすぐ後ろまで迫った真っ黒い壁の存在を感じ、うすら寒いものを感じた。 

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