指輪の価値
騒々しい中、ガチャリと乾いた金属音が鳴ると共にリビングのドアが開けられた。
結菜の夫、陽太さんが仕事から帰ってきて、ばあっと明るい声をリビングに響き渡らせる。
「たっだいまぁ〜! 花音ちゃん、いらっしゃい!
いつきぃ〜、玄関まで泣き声が聞こえてきたぞ〜!」
そう言いながら二人の元へ行き、樹君を抱きかかえる。樹君はピタッと泣き止み、「パパぁ〜」と笑顔を向け陽太さんの腕にしがみつく。
幸せをぎゅっと詰め込まれたこの空間に、まるでおとぎ話でも観ているかのような錯覚に陥る。自分とは、あまりにも別世界すぎるからだろう。
二つ年上の陽太さんは、私たちより遥か大人で落ち着いているように見えるし、グレーのスーツをピシッと決めていて、カッコいい。
樹君を愛おしそうに抱き上げる陽太さんの左手。そして、その様子を優しく見つめる結菜の左手。
二人の薬指には、当たり前のように、全く同じ形のシンプルな結婚指輪が光っていた。
お揃いの、約束――
それを見た瞬間、私の胸の奥が、恐ろしいほど冷えた氷を押し当てられたようにキリキリと痛みだす。
私と優真の間にはない、本物の『夫婦の証』。
プロの受付嬢とプライドを持ってやってきたつもりだったのに、この部屋の眩しさと二人の指輪の前では、自分がただの惨めな『飾り物』のように思えて仕方がなかった。
陽太さんの眼鏡の奥の優しく細められた目が、部外者の私へ向けられる。
「花音ちゃん、何食べたい? みんなでどこか食べに行こうか」
今はこの優しい言葉さえ、胸に痛みを差し込んでくる。
「い、いえ……帰ります。今からデートなので……」
間髪入れずに、結菜の今日一番の大声が飛んできた。
「はぁっ!? デートっ!?」
結菜の驚きで目を見開く様子から、「そんなテンションで男に抱かれに行くのかよ!」という心の声が痛いほど伝わってくる。陽太さんや可愛い子供の前ではさすがに口に出せないようだが。
結菜の驚いた顔を不思議そうに見ている陽太さんや、抱っこされて喜んでいる樹君に愛想笑いをふりまいて外へ出た。
パタン、と静かにドアが閉まった瞬間、冷房の効いた幸せの空間から、夏の夕暮れのじっとりとした熱気の中へと突き落とされる。マンションの非常階段を、カツカツとヒールの音を無駄に響かせながら下りていく。吐き出したため息が、熱い空気に溶けていった。
スマホを見ると、優真からメッセージが来ていた。
『19時にいつもの居酒屋で』
持ってきたショルダーバッグから、ごそごそと優真にもらったあの指輪を取り出し、左薬指に嵌める。夕暮れの西日に照らされたその指を見るが、今まで見てきた結菜夫婦の指輪とは重みが違う、まるでおもちゃの指輪のように見えた。
約束の場所まで歩きながら、この指輪をもらった時のことを脳裏に蘇らせる。
誕生日に何が欲しいか聞かれて、フザけたように思い切って言ったっけ。「結婚指輪が欲しい」って。
その時、優真は驚いた顔をして苦笑してた。けど、誕生日に「いつか結婚しよう」ってこの指輪をくれた。小さなダイヤが嵌め込まれた指輪。確か二万円くらい。私が常々「高いものは失くすのが怖いから嫌だ」と言っていた結果だろう。
でも優真は、渡す時に「結婚指輪はもっと豪華なやつにするからね」って笑ってた。
……愛されてるのにね。
ヒールの底がアスファルトを叩く無機質な音を聞きながら、心の中で何度も呟く。
……愛されてるよね? どこにでもある、平凡な幸せをちゃんと掴めてるよね?
私は今、幸せ……だよね?
何も嵌めていなかった薬指に、二万円の指輪の軽すぎる重みが、じっとりとまとわりついてくるようだった。
約束の五分前。居酒屋の前に優真の姿を見つけた。一般的な身長と体格の彼は、人混みに行くとすぐ見失いそうになってしまう。猫毛でふわふわの少しクセのある茶色い髪……
私に気付いたようで、大きな瞳をパッと輝かせ軽く手を上げ足早に近付いてくる。そういえば、三年前、結菜に初めて、彼氏だって紹介した時に言ってたな、「仔犬みたいな子ね」って。
その通りだと思う。尻尾が激しく揺れてるのが簡単に想像できるもの。
「久しぶり! 元気だった?」
優真は出張で県外に出ていたので、会うのは二週間ぶり。毎日、メッセージや電話はするけど、実際に会うのとそれでは全く重みが違う。
「うん。優真は少し髪伸びたんじゃない?」
「そうなんだよ! 今度、花音ちゃんに切ってもらおうかな」
そうふざけながら笑い、優真は気恥ずかしそうにふわふわの茶髪を気にして頭を掻いた。
お決まりの挨拶。お決まりの他愛もないやり取り。
居酒屋の暖簾をくぐると、威勢のいい店員の掛け声と、焼き鳥の香ばしい匂い、そして金曜夜の喧騒が一気に私たちを包み込む。
案内された座敷の席に向かい、靴を脱いで腰を下ろす。お互いのお酒が運ばれてきて、グラスをカチンと合わせた。
私はわざと、指輪を嵌めた左手を、優真の目につくように大げさに動かしてグラスを持った。けれど、優真は「美味い!」とビールを一気に飲み干すだけで、私の手元に目を向けることさえしない。すぐに「出張先がさ、本当に大変で……」と、いつも通りの、彼自身の日常の話を無邪気に始めた。
私の薬指をじっと見つめた海斗君の、ねっとりとした鋭い視線。
それに比べて、この婚約者は、目の前で光る二万円の約束にさえ視線をくれない。
「愛されてる」という確信が、居酒屋のガヤガヤとした騒音の中で、じわじわと形を失って剥がれ落ちていくような気さえする。
目の前で仔犬のように笑う優真を見つめながら、私は自分のプロの笑顔が、今どんな歪み方をしているのか分からなくなっていた。




