親友
「え? あんたチョロすぎない?」
週末の休日に、親友の結菜の家で、海斗君の話を聞いてもらった後の第一声がこれだった。
結菜は三年前に結婚し、二歳になる息子が一人いる。
リビングの目の届く所で、車のおもちゃをフローリングにガチガチと打ち付けて遊んでいるのを見ながら、私に冷たい麦茶が入ったグラスを運んできてくれた。
ソファに座る私の前のローテーブルにそれをゴトッと置いて、自分もソファの私の横に深く腰をかける。グラスの表面には、すでにじっとりと冷たい水滴が浮き上がっていた。
「ちょ……チョロい?」
ゴクリと唾を飲み込みながら、結菜に目を向ける。
私は無意識のうちに、クッションを胸の前にきつく抱え込んでいた。会社の受付カウンターという盾がない今の私は、丸裸にされたような気分になる。
結菜は息子に目線を向けたまま、呆れたような口調で話し出した。
「普通にチョロいでしょ。そんな一回くらい意味深に見つめられたくらいで揺らぐ? 普通。あんたには優真君っていう完璧な婚約者がいるの忘れたわけ?」
「い……いや! 一回じゃないんだって!! 中学の時もだったし……!!」
慌てふためいて言い訳を追加しても、それは結菜の呆れ顔を助長するだけだった。
「……は? 中学の時にどんな感じで見られてたかとか覚えてんの? 逆に怖いんだけど」
結菜の冷ややかな声が、おもちゃの転がるリビングの生活音を切り裂いて、私の耳に突き刺さる。
「私も覚えてなかったんだけど、こないだ夢見て思い出したんだよっ!!」
「え、何それ。夢にまで見るほど入れ込んでんの?」
そう言われると何も言えず、思わず口をつぐんでしまう。
自分自身が海斗君のことをどう思っているかもわかっていない。
結菜が、はあっと大きな溜め息をついた。
「何あんた、ただ欲求不満なだけじゃないの?」
「そんなことないもん!! ちゃんと会ったら抱かれてるし、倦怠期にもなってないもん!!」
思わず口から出てしまい、体の底から、かあっと熱くなる。私は真っ赤になった顔を隠すように、抱えていたクッションにぎゅっと顔を埋めた。
「せ……先週は出張で会えなかったけど、定期的には会ってるし……」
「『婚約指輪はもらってるし』って? 優真君も何考えてんだろうね、指輪渡して何も動かないとか。
まあ〜うちらは30代でも、まだ優真君は20代だしね……。まだ身を固める決心がつかないのかな……」
結菜が冷えた麦茶のグラスを口に運び、氷がカラランと高い音を立てた。
その音が、私の胸の奥を冷たく冷やしていく。
優真は、20代。私は、30代――
言葉にされなかった残酷な高低差が、リビングのエアコンの冷気と一緒に肌にまとわりついてくるようだった。
「それより、その『愛おしい視線』って何?」
私は少し持ち上げたグラスを、またテーブルへと戻した。結露が手について濡れた指に目をやる。冷たい水滴を、自分の何も嵌まっていない左手の薬指で無意識になぞっていた。
「それは……ほら、結菜だってわかるでしょ?
男の人がいい雰囲気になった時に見せる視線。ヤる前の目っていうか……。
でもたまに、そういう雰囲気じゃなくてもそういう目を向ける人がいるんだよ」
「じゃあ、海斗君があんたとヤりたがってるってこと?」
「え! いや、あの……っ! そういう直接的な感じじゃないかもしれないけど……。
な……なんか、簡単に想像できちゃうっていうか……」
言いながら、頭の裏側がじわりと痺れるような感覚に襲われる。
海斗君に触れられる妄想が、まるで本当に一度経験したことがあるかのように、あまりにも鮮明に脳裏にフラッシュバックしたからだ。
おもちゃの車を床に打ち付けるガチガチという高い音が、なぜか一瞬だけ、遠い雨の音のように遠のいた気がした。
「へ〜……」
結菜は興味なさそうな相槌を打ちながら、続けた。
「普通に話した時も、そういう意味深な目で見られたんだ?」
「まさか! 会話した時は普通だったよ! だって、彼氏でもそんな視線になるのは、いい雰囲気の時だけだし……」
結菜はもうその視線について聞くのは無意味だと思ったらしく、違う話に持っていく。
「で? 海斗君、カッコよくなってた?」
私は思わず身を乗り出して答える。
「なってたなってた!! 相変わらずクールな雰囲気ではあるけど、黒髪で仕事できる雰囲気で、くしゃって笑うの!!」
結菜が軽く笑いながらこっちを見てくる。
「それは、アンタだからそう見えるのよ。恋愛モードに入って全部良く見えてるだけ。あたしが見たら普通の人にしか見えない自信あるわー」
「そうなのかな……」
ソファのクッションを抱きしめたまま、小さく肩をすぼめる。
だが、結菜の笑みが不自然に消えた。そしてパッと私の顔を食い入るように覗き込んできた。その真面目すぎる瞳の奥に、冗談の気配はひとかけらもなかった。




