気の、せい
役目を終え、その部屋を出ようとドアノブに手をかけた瞬間、年配の男性が小走りでやって来た。
「ちょっと君……!」
驚いてそっちに目を向ける。
なんだろう……? 何かミスをしただろうか……
荒れた息を軽く整えながら、その男性が口を開く。
「ちょっと……議事録とか……お願い出来ないかね?」
「え? 私が……ですか?」
「ああ、今やってた子が、定時だからって帰っちゃってさ、ほんと最近の子は使いづらくて困るよ……」
悪気ない言葉の中の、遠回しに『君は若くない』と言われていることにすぐ気付き、胸の奥でチリリと苛立っている自分がいる。だが、人に頼られることは嫌ではない。
受付からいずれ異動せねばならないのなら、ここで顔を売り、貸しを作っておくのは得策だろう。
「私は、大丈夫ですよ」
満面の笑みを向けてそう答える。この男性は確か、総務部の上の方の役職だった気がする。
男性に案内されるまま、前の方の席、ノートパソコンの前に座った。何十人もの男性社員たちの視線が注がれていることが見なくても手に取るようにわかる。
だが、これも嫌な気はしない。
手元のパソコンに視線を落とし、キーボードに指を添える。私が席についたのを確認したように会議が再開された。
無意識のうちに、私の何も嵌まっていない左手の薬指が、黒いキーボードの上で白く浮き上がった。先ほど結婚指輪を見てしまったこともあり、それと比べて心がズキンと痛む。
その瞬間、誰かの視線が、私の指先に突き刺さるのを感じた。
ただの気のせいじゃない。肌が粟立つような、妙にねっとりとした、強い視線。
私はタイピングを始めるフリをしながら、さりげなく、その視線が送られてくる方角を確認するが、プロジェクターの光を通すために暗く落とされた部屋全体のせいで、よくわからなかった。
会議が終わり、時計に目をやると19時過ぎだった。終わると同時に、椅子から立ち上がる音や雑談などで周りが騒がしくなり始めた。
17:30には家に帰る予定だったんだけどな……。
ノートパソコンを閉じ、力なく立ち上がると、総務部の年配の男性が近寄ってきた。
「本当にありがとう、今日は助かったよ」
「いえいえ、お役に立てて良かったです」
手短に挨拶を済ませ、エレベーターを目指す。
もうとりあえず早く帰りたい。きっと楓はもう今頃家でくつろいでるんだろうな。
エレベーターに乗り込むと、背後から「今井さん!」と声をかけられた。
高柳さんとその同僚が一緒に乗り込んできた。
『1』のボタンを押すと、高柳さんが深々と頭を下げてきた。
「本当に今日はありがとうございました」
横にいた男性が驚いた顔をして私に視線を向けてきた。
「ああ! 通してくれた受付の……!?」
高柳さんが黒髪のスポーツマンタイプなのに対し、この同僚の男性は、髪を少し茶色に染めた、人見知りしない社交的なタイプ。子供のように無邪気な笑顔を見せてくる。
「本当にありがとうございました! 俺、資料忘れてたのに気づかなくて、こいつが来てくれなかったら今日の会議、全部無駄になるとこでした!!」
同じように頭を下げられる。その拍子に首から下がっていた名札がぶらんと下に揺れる。
そして、その伸ばされた薬指にも、装飾のないシンプルな指輪が光っていた。
――山中 智哉――
私も同じように「いえいえ、大したことはしてませんので」と言いながら頭を下げる。
この人も結婚しているのか……。きっと既婚者が多い職場なんだろうな。
自分がみじめに思えてくる。こんなにも当たり前にみんなが身に着けている物が私にはないのか。
山中さんが顔を上げた途端、パッと弾けた笑顔になった。
「でも、もったいないですね、受付なんて……」
そこまで言うと高柳さんが、「おい!」と肘で山中さんを小突いた。それでハッとした山中さんが慌てて口を押さえる。
「すみません!! そんなつもりじゃなくて……っ!! あなたほど仕事が出来る人なら別の……」
そこまでで、チン! と温度のない機械音が制限時間を告げた。
私は笑みを浮かべ会釈をして、「どうぞ」と二人を先に下ろした。二人の後に続いて私も外へ出る。
最低限の明かりのみで暗くなっている玄関ホールに、カツカツと私のヒールの音が寂しく響いていく。
山中さんの言いたいことが伝わってきた。
「受付嬢なんて、若さという消費期限が切れたら終わりの、ただの人形」
みんな心の中ではそう見下しているのだ。どれだけ仕事ができようが、気遣いができようが、左手に指輪のない私は、ただの行き遅れの「お飾り」でしかない。
押し寄せるみじめさに奥歯を噛み締めた、その時だった。
夜の闇が染み出し始めたガラスの自動ドアに向かって、コツ、コツ、と静かで、迷いのない足音が背後から近づいてくる。
私は反射的にプロの笑顔を作って顔を上げた。
その瞬間、心臓が爆発したかのように跳ね上がる。
すれ違いざま。最低限の照明に照らされたその男の横顔。歩みを止めることなく、けれど、私の真横を通り過ぎるその一瞬。
他の誰にも見えない絶妙な角度で、真っ直ぐに私の瞳を射抜いてきた。肌にまとわりつくような、狂おしいほどに――愛おしそうな、視線。
そしてその目は、ゆっくりと私の顔から下へ動き、資料を抱えて微かに震える私の「指輪のない左手」をじっと見つめた。
そして何事もなかったかのように、足音だけを暗がりに残して遠ざかっていく。
その遠ざかっていく後ろ姿を見て、私の呼吸は完全に止まっていた。
この視線……どこかで……。




