気づく時
チーン、と間の抜けた電子音を響かせて、エレベーターの扉が開いた。
私は男性を先に促し、密室へと一歩を踏み出す。行き先ボタンの『15』を押すと、ぐうんと身体が持ち上がる独特の浮遊感が襲ってきた。
鏡張りの壁に、男性と私の姿が映る。
男性はまだ肩を上下させ、手元の茶封筒をとても大切そうに強く握りしめていた。それほど重要な資料だったのだろう。
そして、その必死な指先には結婚指輪が見てとれた。
……いいな、この人結婚してるんだ……。
私の視線は自然と、自分の左手薬指へと落ちる。
何も嵌まっていない、まっさらな指。
私には、大手企業に勤める二つ年下の婚約者がいる。
けれど、もらった婚約指輪はデートの時しか着けない。
受付嬢は、若くてフリーに見える方が都合がいい。
それに、社内で「もうすぐ結婚する」と噂され、ベテラン扱いされるのが鬱陶しいから――それが、自分に用意しているもっともらしい言い訳だ。
だが本当は、指輪をもらってから半年間、具体的な入籍の話が一歩も進んでいないという、不都合な現実からただ目を背けたいだけだった。
私と彼は、これからどうなるのだろう。
男の扱いに慣れていそうな楓なら、もっと早く男をゼクシィの前に引っ張り出せたかもしれない。
そんな黒い思考が頭をもたげた瞬間、男性が口を開いた。
「……どうして、中に入れてくれたんですか?
さっきの二人は不審者のように思ってたみたいだったのに……」
背中越しだったので、男性をきちんと振り返り笑顔を向けた。首から下げてある、名札の名前を再度確認する。
「高柳さん……、あなたを以前、受付でお通ししたことがあったんです。その時に、同僚の方と仲良くお話をされていて印象に残っていたんです。
それに、あなたは不審者ではないと確信があったので」
最後に微笑むことを忘れない。
まあ、嘘ではない。嘘ではないのだが、以前見かけた際、契約がうまくいって嬉しかったのか、同僚と大きな声でテンション高く話しながら、こちらを見向きもせず、受付を通り過ぎて帰って行ったのだ。
それが印象的だった。
契約の場では完璧な自分を演じている人間も、受付の前を通る頃には仮面が剥がれて素が出る。
そんなのもう数え切れないほど見てきた。
そして、『不審者ではない確信』
そんなものあるわけないだろう。一度見た人間の腹の底なんてわかるわけがない。
口からでまかせ以外の何物でもないのだ。
だがまあ、とりあえずこう言っていれば、相手に悪い印象は与えない。
「……そう、だったんですね。今井さん、本当にありがとうございます。
俺、今日のプレゼン、絶対に成功させます」
高柳さんは耳まで赤くして、私の名札を見ながら深く頭を下げた。
受付をしていて、名前を呼ばれるのは珍しいことなので少し嬉しい気持ちになる。
チーン、とまた電子音を響かせてエレベーターの扉が開いたのは、ちょうどその時だった。
「15階です」
「あ、はい!」
高柳さんが救われたような顔で、第三会議室の重い防音扉へと走っていく。
「ちょっと待ってください!」
私は慌てる高柳さんの腕を掴んだ。彼は何が起こったかわからない様子で、驚いた顔をして私に視線を向ける。
「あなたが今入って行けば、不審者扱いされてしまうかもしれません。
私は皆に顔を知られています。私が先に行きますよ」
「今井さん、あなたはどこまで……」
高柳さんは感服したような目をして私を見つめた。
私はそれに、今日一番のとびきり優しくて完璧な「会社の顔」としての微笑みを返す。
私が先陣を切る。それが一番安全で、かつ私が「仕事のできる人間」として、このフロアの人間たちに強い印象を残せる最高の方法だからだ。
私は呼吸を整え、第三会議室の重い防音扉へと手をかけ、一気に押し開けた。
冷房の効きすぎた室内には、プロジェクターの青白い光と、数十人の男たちの熱気が充満していた。
私の姿を認めて、張り詰めていた会議室の空気が一瞬だけ緩む。しかし次の瞬間、私の後ろから滑り込んできた高柳さんが「書類をお持ちしました!」と声を上げたことで、室内の視線の雨が一斉に私たちへと集まった。




