背徳の夜
私の歓迎会と先日の合同会議のお疲れ会が開かれた。その会は、耳が痛くなるほどの乾杯の音と、社員たちの笑い声に満ちていた。
私はチューハイを、まるで薬でも飲むように少しずつ、何度も何度も喉に流し込んだ。
数日経ったが、山中さんが海斗君に向けた「先に帰ってるね」という言葉、そしてあの試作香水の匂いが、脳裏にこびりついて離れなかったからだ。
隣に座る海斗君もいつもよりペースが早い。スマートな横顔が、アルコールと店内の熱気でわずかに火照っている。
「海斗君、お疲れ」
グラスをカチンとあて、いつもの他愛もない会話を繰り広げる。
「花音ちゃん、あの時かなり緊張してたよね。見てるこっちまで緊張してきちゃったよ」
優しく見下ろす視線とぶつかり、軽く視線を逸らす。
「そうだよ〜緊張するよ〜! 初めてのことだし、空気ピリピリしてるしさ! 周りの真剣な雰囲気にのまれそうだったもん!」
「ははっ……俺も最初の頃はそうだったよ。よく頑張った頑張った……」
ふと、テーブルの下で彼の手が、私の膝に触れた。
熱い。触れられた場所から、じりじりと電流が走るようだ。
その後、私たちの間に言葉はなかった。ただ、酔いと、嫉妬と、海斗君を求める渇きが、静かに理性を溶かしていく。
お開きになり、帰る方向が一緒だったこともあり、海斗君と二人で街頭やネオンの光る街並みを歩く。居酒屋の前はまだ焼き鳥の香ばしい匂いが漂っていた。
歩きながらいつもの世間話程度の会話をしていたが、自然と無言になっていった。
前から来た、酔っぱらったサラリーマンを避けようとして、ふいに海斗君の指と私の指とが触れ合った。
……それだけだった。
だが、それだけでも私たちを掻き立てるには十分の温もりだった。
気づけば、私たちは雨の降る夜の街、静まり返ったホテルの密室にいた。
「海斗、くん……っ」
ドアが閉まる音と同時に、海斗君の大きな身体に壁際へと押し付けられる。優しい婚約者の顔も、完璧な受付嬢のプライドも、すべてが雨の音にかき消されていく。海斗君の唇が、会議の日に彼自身の手で塗った際に触れたリップの痕を、激しく、 貪 るように塞いだ。
……でも、なんで?
海斗君の大きな手が、私のブラウスのボタンを乱暴に外していく。その熱い愛撫を受け入れながらも、胸の奥には、冷たい霧のような不安がまとわりついていた。
男の人が好きなはずなのに……山中さんというパートナーがいるのに。どうして私をこんなに狂ったように求めてくるの? 私の身体で、本当に大丈夫なの……?
「男しか愛せない」という彼の公式の属性。
それが、私のブレーキをかろうじて引こうとする。
しかし、海斗君はそんな私の躊躇を許さなかった。ベッドに押し倒され、上品なスカートがたくし上げられる。薄暗い間接照明の光が、私の白い肌を 艶 めかしく照らし出した。海斗君の視線が、私の開かれたお腹のあたりでピタリと止まる。彼は、私のおへその右横にある、小さくて薄い「ほくろ」に、吸い付くようにそっと唇を寄せた。
「……やっぱりあった……」
海斗君の口から、 吐息 のように、 独り言のような声が漏れた。
え……?
背筋にゾワッと戦慄が走る。
今、彼はなんて言った? 『やっぱり』……?
そんなはずはない。このほくろは、水着を着ても隠れるような位置にある。付き合った人以外の男には誰にも見せたことなんてない。今日、初めて肌を重ねるはずの海斗君が、どうしてそこにほくろがあるのを知っているの——?
「海斗、く……ん、なにか、いま——」
問い詰めようとした私の言葉は、下腹部を突き上げるような、激しく切ない快楽によって強引に 掻 き消された。
海斗君はまるで、世界の終わりが明日訪れると知っているかのように、必死に、貪欲に、私の身体を貪っていく。その抱きしめ方は、快楽のためというよりも、何かを恐れているかのようだった。
「花音……、花音……っ」
初めて呼び捨てで名前を呼ばれる。その低く掠れた声が、耳元で何度も繰り返される。山中さんから奪い合うように、海斗君の背中に爪を立て、彼を強く求め返す。
もう、ほくろの疑問も、婚約者への罪悪感も、すべてが熱い泥の中に沈んでいった。
ただ、私たちの荒い息遣いと、窓を叩く激しい雨の音だけが、夜を支配していた。
——そして、嵐のあとのような静寂が訪れる。カーテンの隙間から、うっすらとネオンの光が差し込むベッドの中。海斗君の腕の中に抱かれながら、シーツの冷たさに、少しずつ理性を連れ戻されていた。ふと隣の海斗君の顔を見上げる。彼は横向きで私の向こうを見つめたまま、微動だにしない。
突然、抱きしめている腕に力が入った。
「海斗君……?」
驚いて顔を覗き込むと、海斗君の目が潤んでいるのがわかった。昼間のあの冷徹でスマートな彼はどこにもいない。そこにいたのは、今にも壊れてしまいそうな、 怯 えた一人の男だった。
海斗君は震える声で、ゆっくりと、私の左手をそっと握りしめた。
「婚約者、いるんだろ?」
静まり返ったベッドの上、海斗君の口から零れ落ちたその言葉に、私の身体は文字通り硬直した。
「……え?」
耳を疑う。心臓の音がドクンと大きく跳ね、血の気が一気に引いていく。自然と息を呑んだ。
「なんで……っ、なんで優真のこと……婚約者がいるって、知ってるの……!?」
当然の疑問だった。今の部署では、婚約者がいることはおろか、特定の付き合っている人がいることさえ、誰一人として話していない。
海斗君にバレたくなかったこともあり、私生活の匂いは徹底的に排除してきたはずなのだ。ましてや、他部署だった、それも今までほとんど接点のなかったはずの海斗君が、なぜそれを知っているのか。
海斗君は、私の怯えた視線から逃げるように、顔をシーツに 埋 めた。彼の大きな肩が、 惨 めなほどに細かく震えている。
「知ってるんだ。……全部、知ってる」
掠れた声が、暗い寝室に響く。彼はゆっくりと顔を上げ、私の頬に、熱く湿った指先をそっと添えた。
「俺たちが出会ったのは、これが初めてじゃないんだ、花音」
「何を……言ってるの?」
「1回目の人生で、俺とお前は、もう出会ってたんだよ。……お前が、あの優しい旦那と結婚した、その後に」
海斗君の瞳の奥に、果てしない絶望の記憶が揺らめいた。




