始まりは過去
どうしようもなくなり、結菜の家へ駆け込む。
私の尋常ではない慌てた様を見た結菜は、子供を抱きかかえたまま、私の顔をじっと見つめて諭すように呟いた。
「泊まってく? 今日、旦那、出張でいないし。ちょうど金曜だしさ」
結菜は子供を風呂に入れ、手際よく寝かしつけまで済ませると、私に温かいカフェオレを入れてくれた。
コト、と目の前のローテーブルにマグカップが置かれる。ふわりと立ち上る珈琲の苦い香りとミルクの甘い匂いに、私の強張った指先が少しだけ解けていく。
私もお風呂に入らせてもらい、結菜の寝間着まで借りて、温かい湯気のおかげでようやく落ち着き始めていた。夕食も結菜が準備してくれ、それを食べて気持ちが安らいでいくのも感じた。
私は、今日の会議室で起きた出来事――海斗君にリップを直接塗られたこと、山中さんの体からあの試作香水の匂いがしたこと、男同士の超えられない絆を見せつけられたことで、どうしようもない胸の苦しみを覚えたこと――を、まだ鮮明に思い出せるうちに、早口で捲し立てるように話し出した。
「そっか……。優真くんより、海斗君のことが好きなの?」
「わかんない……。でも、海斗君に、これ以上ないくらい心をかき乱されるの……」
「海斗君は同性が好きだから、あんたには興味ないと思う。……けど、もし、それでも彼が特別にあんたを意識してるとしたら、原因はやっぱり……」
「小学5年生のときのこと!? ねえ、このあいだ話そうとしてたよね!? あれ、教えてくれない!?」
私はクッションをきつく抱きしめたまま、結菜の腕を掴みそうな勢いで身を乗り出した。
「うん、あれね……。あんたは覚えてないだろうけどさ。理科の実験中に、遊んでた海斗君の服に火がついたことがあったの。
水をかける余裕なんてなくて、目の前に布巾があったけど、子供心に『布は燃える』と思ったあんたはさ……『手なら燃えない!』って、自分の素手でその火をガシガシ叩いて消したんだよ」
「え……。私が……?」
そう言われれば、そんなことがあったような気がする。ふと、アルコールランプや理科室独特の薬品の匂いが脳裏に蘇る。
「そうだよ。周りの大人からは『大火傷するだろ!』って大目玉を食らったけどね。海斗君、怖さと、助けてもらった安堵で、そのとき大号泣してた。
……もし、それがなかったら。あの日、海斗君を助けたのがあんたじゃなかったら、彼の運命も、変わってたのかもしれないね……」
結菜の静かな言葉が、子供の寝静まった夜のリビングに冷たく響く。
「私はきっと……それが海斗君じゃなくても……」
私の言葉を最後まで待たず、結菜が言葉を重ねる。
「そう。だから言ったでしょ。あんたにとっては忘れるようなことでも、海斗君にとって花音は、自分を身を呈して助けてくれた、唯一無二の存在なんだって」
その言葉が静かなリビングと、私の身体に染みていくのを感じた。
私は、自分の左手の甲にある、あの薄白いうっすらと浮かぶ傷跡を手で覆い隠した。
私にだけあの愛おしそうな視線を向けるのは、すべてはあの10歳の理科の実験室、しかも私の行動で始まっていたのだ。
――――――
翌日、家に帰り、ベッドでぼーっとスマホを触っていると、電球からバチっという音とともに焦げ臭い匂いが鼻をついた。
一瞬、視界が白く染まり、キーボードを叩く自分の指先が、見る見るうちに小さくなっていく感覚に襲われる。
気がつくと、私は小学校の理科室に立っていた。独特の薬品の匂い、黒い実験机、そして目の前で揺れるアルコールランプの青い炎。横には、あの頃のままの海斗君。
窓の外からは、昼下がりの校庭で体育の授業が行われているのだろう、生徒の高い声やピィーーッという笛の音が、微かに響いてきている。
ああ、これか。結菜の言っていた、小学5年生の……。このあと、海斗君に火がつくのだ。
海斗君は楽しそうに周りの友達とふざけ合って笑い合っている。そのそばには、ユラユラと頼りなく揺れるアルコールランプ。
それを遠ざけないと……!!
思わず近付き、手を伸ばそうとするが遅かった。もう少しで私の手が届く、というところで海斗君の服に火が付いた。
わあっとざわめき出す室内。小さな炎がじりじりと広がっていく。青かった炎は服に移るなり赤く光り、パチパチと不気味な音を立てながら、鼻を突く黒い煙を起こし始めた。その赤い光が、海斗君の怯えた瞳を恐ろしく照らし出している。
大人になった今ならわかる。先生が気づいてこっちに向かっていること、水道は少し離れたところにある。布巾はやはり乾いており、使えばそっちに燃え広がる。
これを助けるのが自分でなければ、海斗に愛おしい視線を向けられることもない。これを違う人が助ければ、その人にその視線がいくのかもしれない。私はもう苦しまなくて済むのかもしれない。
……だが。間に合わない。先生は来ているが理科室の机の並びを避けて走る着くころにはもっと火が広がるだろう。
ほんの数秒で自分の道を決め、昔の自分と同じよに自分の手で海斗の服を叩き火を消した。パチパチとはじける音と、布地が焦げる強烈な匂い。火は消え、海斗君はホッとして泣き出した。
あの時は、あまりのことによく覚えてなかったが、じんわり手は痛い。きっと前も同じ痛みだったのだろう。
担任の先生だけじゃなく、騒ぎを聞いた隣の教室からも先生が走ってきた。廊下を駆ける足音が、理科室の高い天井に反響している。
海斗君は涙をこぼしながら、両手で火を消した私の手を握りしめた。
「ありがとう、ありがとう」
と、言葉を話すたびに涙がこぼれている。
「大丈夫? やけどしてない?」
まだこげた匂いが教室に充満しており、生徒たちは私たちの周りに集まってきていた。
海斗君は、私の質問に何度も何度もうなずいていた。私たちはそれぞれ先生に抱きしめられるように抱えられ、つながれた手は自然と離されていった。
でもなぜか私たちは、西日の差し込む理科室の中で、お互いの瞳を見つめたままだった。
これが始まりなのだ。
私が始めてしまったのだ。




