残り香の檻
会議室の空気は、わかりやすく張り詰めていた。プロジェクターのファンが回る低い音と、キーボードを叩く乾いた音が規則正しく響く。
表向きは、両社の利益を天秤にかける至極まともなビジネスの対話だ。しかし、私は手元の資料に目を落としながら、喉の奥にせり上がるような不快感と戦っていた。
……見られている。
対面に座る山中さんから、時折、射抜くような冷徹な視線が送られてくる。それが競合相手としての警戒ではないことぐらいわかる。
私のすべてを見透かし、値踏みするような凍りついた瞳。リップを塗られたあの廊下での出来事を、まさか見られていたのだろうか。
指先が冷たく震える。落ち着こうと焦れば焦るほど、身体の芯まで冷たくなっていく気がする。
ふと、山中さんが資料をめくった時、彼の左手薬指に鈍い銀色の指輪が光った。男同士の、目立たない、けれど確かな誓いの証。
私の視線は、自然と自分の隣に座る海斗君の左手へと向かう。海斗君の大きな手。先ほど私の唇をひりつかせた、あの長い指。でも、……彼の薬指には何もなかった。
なんで……?
山中さんはつけているのに、どうして海斗君の指は素肌のままなのだろう。山中さんとの関係を隠すため? いや、ゲイであることもパートナーがいることも、社内では周知の事実のはずだ。
本人に理由を聞けるはずもなく、疑問は澱のように胸の底へ沈んでいく。
「——本日の件は、一度持ち帰って検討させてください」
山中さんの冷ややかな声で、長い会議がようやく幕を閉じた。どっと押し寄せる疲労感に耐えながら、私は須藤さんや海斗君と共に会議室を出て、ガラス張りの長い廊下を歩いていた。張り詰めた緊張が解け、足早に自分たちの部署へ戻ろうとした、その時。
向こうから、山中さんが一人で歩いてくるのが見えた。すれ違いざま、皆の足が自然と緩む。
「お疲れ様でした」
ビジネス用のお決まりの挨拶を交わす。私は完璧な受付嬢の微笑みを作ろうとしたが、山中さんの冷たい目は、一瞬だけ私の唇に留まった。
山中さんは私から視線を外すと、隣の海斗君を見て、低く親密な声で言った。
「先に帰ってるね」
帰る……“家”に、二人の部屋に……。
心臓の奥を、冷たい針で深く刺されたような衝撃が走る。山中がさんが、私のすぐ真横を通り過ぎていく。
その瞬間、彼の身体から、ふわりとある「匂い」が立ち上り、廊下の空気を支配した。洗練された、けれどどこか退廃的で肉感的な香り。
……っ!?
思わず息が止まる。
それは、今期自分たちの部署で開発している、まだ世の中に出回っていないはずの「試作段階の香水」の匂いだった。
なぜ、山中さんがそれを纏っているのか。答えは一つしかない。海斗君が会社から試作品を持ち帰り、家で、山中さんの肌に直接吹き付けたのだ。
脳裏に、最悪なほど鮮明な映像が浮かび上がる。
薄暗い寝室。海斗君がその大きな手で山中さんを抱きしめ、首筋に香水を振りかける。指輪を外した海斗君の手が、山中さんの肌を愛おしそうになぞる……。
嫉妬と絶望で胸が 掻 き毟 られるように痛い。吐き気がするほど苦しい。
なぜ。どうして私がこんなに苦しまなければならないの?
苦しくなる必要なんてないのに……私には優真がいるのに。
優しくて、温かくて、何の不自由もない安定した未来を約束してくれた婚約者。
今夜もきっと、「お疲れ様」と優しい笑顔で迎えてくれるはずの優真。
彼の顔を必死に思い浮かべようとする。なのに、鼻腔にこびりついた試作香水の甘い残香が、理性を狂わせようとする。
隣を歩く海斗君の横顔は、相変わらずスマートで、何を考えているのか全く読めない。その完璧な横顔が、憎くて、愛おしくて、たまらなかった。




