リップ
それからの数週間、私の人生は完璧に回り始めたように見えた。
優真とは「仲直り」を果たし、週末になれば当たり前のように彼の部屋で穏やかな時間を過ごす。
新部署の企画開発部での業務にもすっかり慣れ、指導係の須藤さんからも「今井さん、本当に助かるわ」と毎日実力を絶賛される。
そして海斗君との距離。あの夜のことは「ただの貧血」として処理し、オフィスではお互いに『同僚』として、そして気の合う『同級生』として、完璧な距離感を保ち続けている。
私は今、最高に幸せで、すべてを完璧にコントロールできている――。
そう本気で信じ込み、一番無防備に油断しきっていたが、「ライバル他社との合同コンペ」がやってきた。
冷房が容赦なく効いた15階の役員フロア。ガラス張りの長い廊下には、他社——山中さんたちの会社——の名札を首からぶら下げた、スーツ姿の人間が、殺気立った足取りで行き交っている。
会社の命運を賭けた合同会議、その幕が上がる30分前。
「……っ」
廊下の隅、大理石の柱の陰で、私は誰も気づかれないほど微かに肩を震わせていた。
今まで、完璧な受付嬢を演じてきた。それが今の私の誇りであり、血のにじむような努力で手に入れた最強の鎧だ。
だが、今日ばかりは喉の奥がカラカラに乾き、パンプスのヒールを支える足首が、冬の氷のように冷え切っている。
隣りにいてくれる須藤さんが、笑顔を向けてくれる。
「今井さん、大丈夫だよ。私がそばにいるし、ちゃんとここまで準備してきたんだから!」
だが、ハッと顔を上げ、手元の資料を見始めたかと思うと早口で話し出した。
「足りない資料があったんだった!! ちょっと取ってくる!!」
そう言って私から離れようとするので、思わず腕を掴んだ。
「じゃあ、私も一緒に……!」
須藤さんは全てを見透かしたような笑みを浮かべ優しい声でこぼした。
「フフ……、その足じゃ走れないだろうから、ここで落ち着いて待ってて」
私の足が緊張でフラフラだということまで見抜かれていたようで恥ずかしくなる。
私は静かに頷き、深呼吸を始めた。
その時、静かな、けれど確かな足音が近づいてきた。顔を上げるより早く、洗練されたシトラスの中に、どこか野生の青さを残した、嗅ぎ慣れた香水が鼻腔をくすぐる。
「花音ちゃん?」
海斗君だった。スマートなスーツに身を包んだ彼は、張り詰めた廊下の空気などどこ吹く風といった様子で、私の目の前にすっと佇んだ。
「海斗、くん……」
通り過ぎる他人の目を意識して、かろうじてビジネス用の微笑みを浮かべようとする。しかし、海斗君はそんな私の防衛線を嘲笑うかのように、一歩、間合いを詰めてきた。
近すぎる。彼の胸板から放たれる男の熱が、冷え切った私の肌に伝わって、それだけで心臓が跳ねた。
「リップ、落ちかけてるよ」
低く、鼓膜を直接揺らすような声。次の瞬間、私の思考は完全に停止した。海斗君の大きくて少し硬い親指が、私の唇にそっと触れたのだ。
「あ……」
声にならない吐息が漏れる。海斗の親指が、はみ出たわずかな色彩を拭うように、ゆっくりと、愛おしそうに輪郭をなぞる。心臓が痛いほど脈打ち、頭の芯がじわりと痺れた。
男を、女性を愛さないはずの彼からの、心臓が止まるほど優しい指先のタッチ。周囲の社員たちは、自分のことに集中しており、この大胆な接触にも誰も気に留めない。
その特権を悪用するように、海斗の指先は執拗に、私の唇の柔らかさを確かめるように触れる。海斗君はポケットから、小さな試作段階のサンプル容器を取り出した。
今期のプロジェクトで開発中の、新作リップバームだ。
「じっとしてて。鏡ないからやってあげるよ」
海斗君の指で顎をくいと上に上げられ、彼はもう片方の指頭にその透明な緋色の液体をすくい取ると、今度は私の唇の中央に、直接ぽんぽんと乗せていく。
フッと優しい笑みを向けられる。
「緊張してんだろ」
私は顎を固定されているので動くことも出来ず、ただ「うん……」とだけ呟いた。
ひりひりする。ミントか、あるいはカプサイシンでも入っているのだろうか。リップの成分が皮膚に浸透し、唇が熱を持ってじんわりと 腫 れぼったくなっていくのが分かる。
だが、それ以上にひりついているのは、海斗君の指先が触れた場所だ。彼の指から、熱い電流のような「男の情欲」が流れ込んでくる気がする。
自分の胸の奥で、黒くドロドロとした感情が鎌首をもたげた。
この大きな指。この優しくも強引な、相手を自分の色に染め上げるような触り方。
どうせ、山中さんにも……家では、全く同じように触れているんでしょ……?
海斗の「公式のパートナー」である山中さん。
今日の会議で、自分たちの対面に座る男。その男が、今自分が受けているこの至高の愛撫を、夜の密室で独占しているのだと思ったら、激しい絶望と、狂おしいほどの嫉妬が肺の腑を灼いた。
「よし。完璧だ」
海斗が指を離す。彼の親指には、花音の唇から移った緋色の蜜が、妖しく光って残っていた。
「見れないだろうけどすごく似合ってるよ。
これで堂々と行けるよ。みんな、花音ちゃんから目を離せなくなるからかもね」
そう言って、いたずらっぽく微笑んで去っていく海斗君の後ろ姿を見送りながら、私は 潤 んだ唇を強く噛み締めた。
ひりひりとした熱が、消えない。
優真という優しい婚約者がいるはずなのに。この完璧の仮面は、もう、内側からドロドロに溶かされて、形を保てなくなりそうだった。




