新作の罠
10階、企画開発部。
受付の広々とした吹き抜けのロビーとは違い、ここは天井が低く、何百台ものパソコンのキーボードを叩くカチカチという乾いた音が、まるで細かい雨のようにフロア中に降っている。
その逃げ場のない音が、私の緊張をさらに増幅させていた。
「――あなたが今井さんね。私が今日から指導にあたる、須藤ひかりです。よろしくね」
声をかけてくれたのは、少し年上に見える、ショートカットのサバサバしたパンツスーツを着こなす女性だった。首を傾げるたびに、耳元の小ぶりなピアスがキラッと鋭く揺れる。
その姉御肌の頼もしい笑顔に、私の強張っていた肩の力が少しだけ抜けた。
案内された自分のデスクに座り、まだ何も入っていない、新品の引き出しを静かに開閉してみる。
背筋をピンと張り、新しいパソコンの複雑な初期設定に悪戦苦闘しながら、須藤さんに仕事を教えてもらう。パーテーションの向こうから、いわゆる「仕事のできる男たち」の無機質な視線が突き刺さるたび、完全なアウェイな緊張感に息が詰まりそうになる。
フロアの奥には、海斗君の姿も見えた。けれど、彼は遠くで何人もの社員に囲まれながら忙しなく動いており、まだ自分の席で何をしていいかも分からない今の私との間に、圧倒的な差を感じて心が軋む。
やがて定時を過ぎ、周りの社員たちもポツポツと席を立ち、帰り始める。
慣れない初めてのデスクワークに脳の芯まで使い果たし、どっと重い疲労感が両肩にのしかかっていた。
帰り支度を済ませ、ロビーのエレベーターホールへ向かって廊下を歩いていると、背後から不意に低く心地いい声がした。
「花音ちゃん、初日お疲れ様」
振り返ると、海斗君だった。周りの社員に聞こえないよう、あえて声を潜めたトーン。向けられたいつもの優しい笑顔を見た瞬間、私の胸の中で一日中張り詰めていた冷たい氷が、フッと溶けてほぐれていくのがわかった。
「……うん、お疲れ様。海斗君」
やっぱり、異動して良かった。私は間違ってない……。
男の恋人がいる彼に、女の私がどれだけ努力しても届かない。その絶望を胸に抱いたからこそ、私は完璧な二度目の決意をした。
これからは彼の優秀な同僚として、学生時代の12年を共にした、ただの同級生としてすぐそばで支えていこう。
そんな「割り切り」を心に深く刻み、私は夜の街へと続く帰路についた。
――それから、あっという間に一週間が過ぎた。 ある日の夜。ふと手元の時計に目をやると、液晶の文字はすでに20時を回っていた。
他の社員は全員退社し、しんと静まり返ったフロアのパーテーションの向こう。海斗君のデスクの液晶だけが、夜の闇のなかで青白く光っている。
コツ、コツ、と静かな足音が近づいてきて、私のデスクの横で止まった。
「花音ちゃん、ちょっと手伝ってくれない?」
見上げると、海斗君の手には、ガラス瓶に入ったいくつかの試作の液体が握られていた。
「いま開発してる、新しいメンズ香水のサンプルなんだけど。……これ、どうかな」
海斗君はそう言って、小さなスプレーノズルを押し、自分の首筋へとそれを吹き付けた。
シュッ、と微細な霧が静かなオフィスに弾ける。
次の瞬間、海斗君が私の椅子のすぐ横にかがみ込み、自分の体温が混ざった首元を、私の顔の目と鼻の先まで近づけてきた。
「友達」と割り切るはずだった。ビジネスの部下として対応するはずだった。
なのに、彼の首筋から漂ってきたその香りを、胸いっぱいに吸い込んでしまった瞬間。
ドクン!!! と、心臓が爆発したかのように激しく暴れ出した。
脳裏に、凄まじい濁流のような映像がフラッシュバックする。
暗い部屋、乱れたシーツ、私を狂おしいほどに愛おしそうな目で見つめ、私のすべてを乱暴に、けれど酷く甘く貪るように抱き潰してくる、大人の一ノ瀬海斗の姿――。
一度も経験していないはずの、海斗君と激しく肌を重ねた「夜」の生々しい感触が、バグとして私の脳内に直接流れ込んでくる。
あまりの熱量と、ありえない記憶の矛盾に頭の中がぐしゃぐしゃにかき混ぜられ、目の前が真っ暗になるほどの強烈な眩暈に襲われる。
「……っ、あ……」
呼吸の仕方を忘れ、私はそのまま、椅子から崩れ落ちるように倒れそうになっていた。
海斗君が、倒れそうになった私の身体を咄嗟にその大きな腕で抱きとめた。
その瞬間、彼の首筋から漂うメンズ香水の甘い香りと、男の人の熱い体温が、容赦なく私の全身を包み込む。頭の裏側が、激しくショートを起こしそうだった。
「大丈夫、花音ちゃん!?」
心配そうに覗き込んでくる海斗君の声を振り切るように、私は「ごめん、体調が……!」とだけ口走って、彼の腕を跳ね除け、逃げるようにその場を飛び出した。
嘘でしょ……。私は海斗君と、そんな夜を過ごすことを想像して、あんなに鼓動をバグらせていたの!?
エレベーターに飛び込み、自分の真っ赤になった顔を鏡で見つめる。
相手は男の人が好きな、あの山中さんを愛している一ノ瀬海斗だ。私がどれだけ綺麗になろうが、努力しようが、女である限り絶対に愛してもらえるはずがない。
こんな実らない恋、早く忘れたい。狂ってしまいそうな脳内の海斗君の残像を消し去りたくて、私は震える指で、ずっと無視し続けていた優真にメッセージを送った。
『今から、会える?』
優真のマンションのドアを開けた瞬間、彼はボロボロと涙を流して私を強く抱きしめてきた。
「ごめん、本当にごめん、花音ちゃんを失うのが一番怖かったんだ……!」
その必死な仔犬のような姿を見て、私の胸の奥に冷たい安堵が広がる。
楓の前で私を失いたくないと泣き喚いていたという優真。やっぱり、優真の『一番』は私なのだ。
私は海斗君への届かない絶望から目を背けるように、自分を求めてくる優真の首に必死に腕を絡ませ、すがりついた。
「優真……激しくして。私を、もっと強く抱きしめて」
優真の温かい体温に溺れながら、心の中で何度も自分に言い聞かせる。
これでいいのだ。ショルダーバッグの奥底に沈めていた二万円の指輪を、もう一度だけ左手の薬指へと嵌め直す。首を絞められるようだったその金属の軽さが、今は自分の居場所を繋ぎ止めるための命綱のように感じられた。
優真は泣きながら喜び、その夜、私たちは初めて付き合い始めた頃のような優しさに満ちた夜を過ごした。具体的な結婚の話は、相変わらず進まないままであったけれど、私にはこうして私だけを求めてくれる婚約者がいる。
平凡だけれど、確かな幸せ。私はこれをちゃんと噛み締めなきゃいけないんだ。




