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恋するタイムリープ〜狂おしいバグの果て  作者: VANRI


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新たな道

 自分の部屋で一人、何度も自分の左手の甲をさすりながら、私は決意を固めていた。


 受付嬢という椅子は、若さという消費期限を過ぎれば、いずれ他の部署へと強制的に飛ばされる運命だ。だったら、惨めに追い出される前に、自分の実力を買ってくれた海斗君のところへ、自分から進むべきだ。 


 これからは、ただの優秀な同僚として。学生時代の12年間を一緒に過ごした、気の合う同級生として―― そうやって恋心に蓋をして、安全な『友達』という枠の中に収まっていれば、これ以上傷つくことも、男を好きな彼に絶望することもないはずだ。


 翌日、会社の内線電話の受話器を握り締め、企画開発部の海斗君へと異動の意思を伝えた。 


『本当に!?  ありがとう、花音ちゃん!』


 受話器の向こうから、今までに聞いたことがないほど弾んだ、心から嬉しそうな海斗君の声が響いた。 


『すぐに上へ話を通しておくから。待ってて』


 その言葉通り、事態は恐ろしいほどのトントン拍子で、音を立てて進み始めた。


 あの金曜日の夕方、突如頼まれた他社のプレゼン書類の議事録。あの時の私の、一分の隙もないタイピングと完璧な内容の出来栄えが、総務部の上層部に強い印象を残していたそうだ。それに加え、この5年間、誰に見られても恥ずかしくない『会社の顔』として凛と立ち続けてきた私の勤務態度が、最高の追い風となった。



 「今井さん、寂しくなるけど……企画開発部でも頑張ってくださいね」


 内示が出た日、ロッカーで隣に立つ楓が、まだどこかビクビクと私の顔色を窺いながら、小さな声で言った。 


「ありがとう。楓ちゃんも、受付頑張ってね」


 彼女に完璧な、けれど今までで一番温度の低い先輩としての笑顔を返してやった。 

 最後の挨拶を交わし、ドアノブへ手をかけた、その時だった。


「……やっぱり、私は何一つ、今井さんに勝てませんでしたね」


 背後から、楓の掠れた声が聞こえた。


 振り返ると、楓はロッカーの扉に背中を預けたまま、自嘲気味に歪んだ笑みを私に向けていた。その瞳の奥には、いつも通りの「可愛い後輩」の仮面はどこにもなかった。


「周りの人間の評価も、仕事の中身も。……金曜日の夜、優真さんとのことが見つかった瞬間、私、どこか心の中で喜んでたんですよ。これでやっと、あの完璧な今井さんに勝てるって。引きずり下ろせるって」


 楓の剥き出しの言葉が、狭いロッカー室に冷たく響く。


「でも、今井さんは全く動揺しなかった。私をヒステリックに責めることもなく、堂々としてた。それを見て、あぁ、あなたにはどうしたって勝てないんだって、改めて思い知らされました」


 ふっ、と楓が乾いた息を吐き出す。


「優真さんだって、私に脈がありそうだったのに。今井さんを失うかもってなった途端、私のことなんて完全に目に入らなくなって、泣きそうな顔であなたを追いかけていった。……それに、今度は社内でも花形の企画開発部に異動とか。ほんと、もうどこまで私との距離を離すんだろうって感じです」


 小さく肩を落とした楓は、それ以上何も言わずに私の横を通り過ぎ、ロッカー室を出ていった。

 パタン、とドアが閉まり、静寂が戻る。


 私は、勝ったんだ――?


 バッグの奥底に眠る二万円のおもちゃのような指輪のことなんて、もうどうでもよかった。

 私を裏切った優真も、私に嫉妬していた楓も、私が歩みを進めるステージの、遥か足元に置き去りにされたただの敗北者だ。


 カツ、カツ、と廊下に響く私のヒールの音は、朝よりもずっと力強く、誇らしく響いていた。

 深呼吸をしながら、私は新しい未来を迎えるために、背筋をピンと伸ばしてエレベーターへと乗り込んだ。


――――――



 優真に裏切られ、おもちゃのような二万円の指輪をバッグの奥底へ沈めた私は、こうして「受付の人形」の鎧を脱ぎ捨てた。


 引き継ぎを終え、荷物をまとめた段ボールを抱えて、私は海斗君の待つフロアへと向かうエレベーターに乗り込む。


 チーン、と静かな電子音を響かせて扉が開く。


 パーテーションの並ぶ、液晶の青白い光が満ちた企画開発部のフロア。 足を踏み入れた私の姿を認めた瞬間、デスクから立ち上がった海斗君が、あの会議室の時と同じ、ねっとりと肌にまとわりつくような、狂おしいほど愛おしそうな視線を真っ直ぐに投げかけてきた。


 「待ってたよ、花音ちゃん」


 彼のその飛び切りの笑顔を見つめながら、私は自分の胸の鼓動が、また静かにバグを起こし始めるのを感じていた。



 ――これが、引き返せない破滅へのカウントダウンだとも知らずに。






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