これからを考える時
家に帰りたくなくて、一人になりたくなくて、ダラダラと仕事をしてしまった。楓はデートがあるらしく、先にそそくさと帰っていった。
受付を通り過ぎる社員もまばらになり、ロッカーで制服から私服に着替えて、一階フロアの自販機前で缶コーヒーを買った。パキッと乾いた音を立ててプルタブを開ける。
ロビーの座り心地のいいソファに座り、もう薄暗くなったフロアで外を眺める。外はもう完全に日が落ちて暗くなっており、ガラス越しに見える街灯の明かりがやけに目立つ時間だ。
これからどうしよう。もう、別れるのか。
ここで別れたら、これまでの3年間がすべて無駄になる。やっと結婚できると思ったのに。3年もかかったのに。
また誰かと付き合ったとしても、そこから結婚の話までに何年かかるかわからない。ましてや、もう二度と結婚できないかもしれない。
私は、優真のことがちゃんと好き?
それとも、誰でもいいから『結婚』という肩書きが欲しいだけ?
もうわからない。もう考えたくないのに、頭の中にドロドロと浮かんできてしまう。
冷たくなった缶コーヒーを、何も嵌まっていない左手の薬指に押し当てる。ひんやりとした感覚が、胸の焦りを余計に惨めに見せた。
……もう帰ろう。
「花音ちゃん?」
不意に、耳元で海斗君の声がした。
見上げると、目の前に海斗君が立っていた。彼がそのまま、私のすぐ隣のソファへと滑り込むように座ってくる。彼の身体のわずかな振動と男の人のぬくもりが、私にダイレクトに伝わってきた。
向けられた優しい笑顔に、すべてを諦めてほだされそうになる。
「こないだもだったけど……なんかあったんじゃないの? 言いたくないならいいけどさ」
何も言えずに黙り込んでいると、彼は気を遣ったように明るいトーンで話し出した。
「そう言えばさ、同級生の谷山、覚えてる?」
「ああ、野球部でいつもフザケてた子?」
「そうそう! あいつがさ、今はIT会社を起業して社長やってんだよ!」
「え!? ほんと!? あんな、野球が本業、勉強は趣味程度しかしない! って言い切ってたのに!?」
「あはは! そうなんだよ! 本当、人生どうなるかわかんねえよなぁ〜」
二人で軽く笑った後、海斗君が声のトーンを落ち着かせ、私をじっと見つめてくる。
「花音ちゃん、今後のことどう考えてる? 受付ってさ、長いことできる仕事じゃないだろ? ちゃんとこれからのこと考えておかないと……」
海斗君の静かな言葉に、かあっと身体が熱くなる。 自分でもわかっていたこと、考えていたこと。その年齢的な不安で押しつぶされそうだったからこそ、ダラダラと残業をして現実から逃げていたのだ。
「海斗くんには言われたくない!」
思わず涙目で反論し、ソファから勢いよく立ち上がる。
わかってる。海斗くんは何も悪くないし、ただの親切だ。
でも、ヘッドハンティングされて会社からも、そして最愛の男の恋人からも必要とされているこの『成功者』に、今の私の惨めな気持ちなんてわかるわけがない。
いつもなら「そうだよね」と笑って流せる話題なのに。優真との終わってしまった未来のこと、海斗君のパートナーである山中さんを見たことで、私の精神は完全に安定を失っていた。
そのまま、彼に背を向けて足を踏み出す。
カツ、とヒールが鳴った直後、背後から伸びてきた大きな手にぐっと左腕をつかまれた。制服の薄い袖越しに、彼の強い指の力がダイレクトに伝わってくる。
「ごめん! 悲しませる気はなかったんだ!!」
涙目で海斗君を振り返る。瞬きすると、熱い涙が頬を伝って顎へと落ちた。
「うまく言えなくてごめん!! ただ、心配してて、花音ちゃんのこと見てたらどうしても言いたくなってしまって……!」
薄暗いロビーの街灯の光を反射して、真剣に私を射抜く海斗君の目に、完全に心を奪われてしまい、足が止まる。
「俺のところに来ないか?」
……は? それって、プロポー……。
「俺の部署さ、最近、人が減っちゃって業務が溢れかえってるんだ。それで毎日この時間になってしまって。特に俺、まだここに来て日が浅いから、慣れるためにも先輩たちの仕事ももらってて。
高柳はわかるだろ? あいつや智也……、山中たちがいる他社とは、今でもプロジェクトで深く繋がってるからさ。 こないだ飯食ったときに花音ちゃんの話を聞いて、『すごい気遣いもできて機転も利くよな』って。無理難題を言われても受付でうまく解決したりしてることも聞いて、俺の部署に来てくれないかって……」
なんだ、プロポーズじゃないのか……
胸の奥に広がった落胆とガッカリ感は拭えない。だが、もちろん一瞬でも勘違いして舞い上がったことなんて、私の貼り付けた完璧な笑顔の裏に微塵も感じさせないように、素早く呼吸を整えた。
「とりあえず……考えとくね。ありがとう、海斗君」
私は貼り付けた笑顔のまま、そう答えた。
ガッカリしたのは事実だけれど、それ以上に、胸の奥から熱いものが込み上げてくる。
本当に嬉しい。若さという消費期限が切れたら終わりの「受付の人形」としてではなく、私のこれまでの努力と実力を、一人のビジネスマンとしてちゃんと買ってもらえたことが、たまらなく誇らしかった。
そして、私の孤独な焦りを見抜いて、この手を引っ張り上げようとしてくれた海斗君の、本当の優しさも。
「うん。待ってるから。無理はしないで」
海斗君はゆっくりと私の腕から手を離した。彼の手が離れた瞬間の左腕の皮膚が、急にひやりと寂しくなる。
歩き出した彼の背中を見送るため、私が振り返った、まさにその時だった。
薄暗いフロアの、自動ドアのガラスの手前で、海斗君がもう一度だけ振り返り、私にあの、ねっとりと肌にまとわりつくような、狂おしいほど愛おしい視線を真っ直ぐに送ってきたのだ。
ドクン、と心臓が大きな音を立てて跳ねる。
なんで……なんで男が好きなはずのあなたが、私にそんな目を向けるの?
もう、これ以上は耐えられない。
私は、決して手に入れることのできない恋に、喉の奥をきりきりと締め付けられるような、冷たい苦みを覚えていた。
カツ、カツ、と静まり返った夜のロビーに私のヒールの音だけが虚しく反響する。
私は、激しく波打つ落ち着かない鼓動を必死に抑え込みながら、一人、夜の街へと続く帰路についた。




