人と向き合う時
「本当に昨日は何もなかったんだって!!」
そうだろう。あの状況の後に一線越えられるわけがない。それまで下心があったとしても、お互いそんな気なんてなくなるだろう。
昨日、眠りながら悲しくなって涙が止まらなくなった。だけど、泣いているうちに何が一番悲しいか、自分でもわからなくなってきた。
優真に裏切られたこと?
それとも、結菜から聞いていたとおり海斗君に男のパートナーがいて、あの豪雨のなかで二人の親密さを見てしまったこと?
自分の方が楓より上だと思っていたのに、あっさり婚約者を奪われたから?
視線を落とすと、自分の手の甲にある、あの薄白いうっすらとした傷痕が朝の光に透けて見えた。
違う。私が一番絶望しているのは――
世界中で海斗君だけが私と同じ、左手の薬指に冷たい風をまとった『寂しい仲間』だと信じていたのに、彼には山中さんという本物の指輪があったことだ。
彼にまで拒絶され、世界に一人きり取り残されたような凄まじい疎外感が、私の喉の奥をきりきりと締め付ける。
社会人になってから、必死に努力してきた。ダイエットをして、化粧を勉強して、筋トレを続けて、完璧な受付嬢の仮面を手に入れた。努力すれば、変われると信じていたから。
なのに、彼が男を好きだという本能の前では、私のこれまでの努力も、手に入れた美しさも、何一つ意味を成さない。
女であるというだけで、私は最初から、彼の恋愛対象の選択肢にすら入っていないのだ。
山中さんの左手で光っていた指輪が、脳裏をよぎる。
いいな、羨ましいな。男として生まれ、当たり前のように彼に愛されているあの人が、心の底から妬ましくて、羨ましい。
努力してもどうにもできない絶対的な壁にぶち当たり、喉の奥からじわじわと、怒りを超えた絶望が込み上げてくる。
胸の奥から這い出してきた冷たいため息とともに、何も考えるまでもなく、私の口から言葉があふれ出た。
「とりあえず、帰って……」
「花音ちゃん!! 本当に好きなんだよ!! 別れたくないんだ!!」
優真はソファから転がり落ちるようにして私の足元へ縋り付き、両腕にしがみついてくる。彼の必死な指先が、私のパジャマの袖をきつく引っ張った。
その熱い腕を、私は冷徹な手つきでそっと引き離す。
「わかった。わかったけど……今は、考える時間をください」
感情の消えた私の声が、リビングの壁に無機質に反響する。
優真はそれ以上何も言えず、深く肩を落として、重い足取りで私の部屋から去って行った。
バタン、と静かに玄関のドアが閉まり、再び部屋に重苦しい静寂が戻る。
本当に、一人になっちゃった――
私は力なく床に座り込んだ。
――――――
月曜日、会社に出勤し、楓に会う。
いつも通りに挨拶を交わす。ロッカー室で会った楓は明らかにビクビクしており、いつもより小さく見える。静かにおはようございます、と呟くように言ってきた。
だが、この弱々しい姿だって演技かもしれない。もう何も信じられない。
私は軽く挨拶し、何事もなかったかのようにロッカーの扉を静かに開けて着替え始める。楓は、焦ったように必死に一方的に言い訳をしてくる。
「今井さんの彼氏だって知らなかったんです! 知ってたら、絶対に家に行ってないです!」
は? じゃあ、ほかの人の男の家になら簡単に行くのかよ、と胸の奥で冷たく冷笑する。
「本当に、DVDを借りに寄っただけなんです! 優真さんは本当に、今井さんのことを愛しています……!」
楓が優真の名前を親しげに呼ぶこと、そして何より、彼を庇うことに虫唾が走る。
どうせ、口裏を合わせているのだろう。ロッカーの狭い密室に、楓の浅い呼吸の音と、香水の甘ったるい匂いが充満して、強烈な吐き気がぶり返しそうになる。
私は怒りを奥歯で思いきり噛み殺し、完璧な先輩としての笑顔を顔面に貼り付けた。
「全然気にしてないから。大丈夫だよ」
言い残し、先にロッカー室を出る。
静かな廊下に、カツカツと私のヒールの音が響く。
そこで自分であることに気づく。いつもより、自分の足音が強いな、と。
怒りで身体が強張っている証拠だ。私は歩きながらそれを気にし、なんとか呼吸を落ち着かせようと試みる。 深呼吸をしながら、冷たい大理石のカウンター
に向かって歩き続ける。
私は、完璧な人形。誰にも内側を覗かせない――




