対峙
家に帰り着き、ずぶ濡れの服を着替えて、ベッドの上でふとタイムリープのことを考える。
振り返れば、毎回、海斗君が関係している。あのロビーでの愛おしい視線も、同じ誕生日だと聞いた時も、その直前のタイミングで、私は誕生日の過去へタイムリープした。
何か、私の中に海斗君と関係しそうな記憶の引き金があると、その場所に戻れるのだろうか。でも、戻れるのはほんの数分。過去を大きく変えることなんて、何もできないけれど。
もし、自分でいつに戻るか選べるとしたら、私はいつを選ぶだろう。
優真に「付き合ってほしい」と告白された、あの3年前の夜だろうか。
あの瞬間に戻って、告白を断っていれば、今こんな惨めな思いをしなくて済んだのだろうか。
――ああ、わからない。いくら裏切られたからって、優真と過ごした3年間の思い出を、すべて無かったことにはしたくない。
自分の薬指の、二万円の指輪が嵌まっていた跡を右手でぎゅっと握りしめる。
考え疲れて重い瞼を閉じるが、その夜、タイムリープは起こらなかった。
次の日の朝。けたたましく鳴り響くインターホンの音で、私は無理やり意識を引きずり起こされた。
玄関のドアの向こうにいたのは、優真だった。
そういえば、昨夜あのマンションの前から逃げ出した後から、スマホの画面には彼からの着信やメッセージがひっきりなしに届き続けていた。
液晶のなかに並ぶ、数十件もの『ごめん』『話を聞いてくれ』という文字。
昨夜の冷たい雨の感覚が、胸の奥でじわじわと嫌な熱さになって蘇ってくる。
私は部屋着の袖をきつく握りしめ、重い足取りで、チェーンをかけたままの玄関のドアへと向かった。
昨日泣きながら寝たせいか、目が重い感じがする。鏡を見なくても、自分の瞼が無惨に腫れ上がっているのがわかった。こんな顔、あの完璧な受付のカウンターでは絶対に誰にも見せられない。
とりあえず玄関に向かい、鍵をカチャリと開けると、優真が必死にチェーン越しに「話を聞いて!」と言ってきた。
ドアがチェーンの長さの分だけ、ガチャンと鈍い音を立てて隙間を作る。
そのわずかな隙間から、優真の焦りきった、血走った瞳が滑り込んできた。
いつもなら「仔犬みたい」に可愛らしく揺れていたはずの彼の目が、今はひどく醜く、恐ろしいものに見える。
「花音ちゃん、お願いだからドアを開けて! 昨日の夜のは、本当に誤解なんだ! 楓さんとは、ただ……!」
チェーンをきつく握りしめる私の指先が、冷たく震える。
優真の必死な叫び声が狭いエントランスに反響するたび、私の頭の奥で、あの土砂降りの雨のなかでギラッと光っていた、海斗君の『山中さんとお揃いの指輪』の残像が、また生々しくフラッシュバックした。
外で騒がれても近所迷惑なので、しぶしぶ家の中に招き入れる。
「入って。外で大きな声を出さないで」
私がチェーンを外し、重い防音ドアを開けると、優真はそれを伝えるとこれ以上ないほどホッとした顔を見せた。
私の横をすり抜けてリビングへ入っていく優真の背中を、私は冷え切った目で睨みつける。
パタン、とドアを閉めて鍵をかけると、狭い室内は一瞬で逃げ場のない密室へと変わった。
窓の外から聞こえるセミのけたたましい鳴き声だけが、部屋の異様な静寂をかき消すように響いている。 優真は玄関に靴を脱ぎ散らかしたまま、リビングのソファへ頼りなく腰を下ろした。
私はあえて彼の正面には座らず、少し離れたキッチンカウンターに背を預け、冷たい大理石のフチをきつく握りしめながら彼を見下ろした。
優真が必死の形相で見上げながら、言葉を発していく。
「職場の飲み会に楓さんも来てて、帰り道が一緒で、話しながら帰ってたらさ、こないだ花音ちゃんと一緒に見た、昔のDVDあっただろ? あれ観たいって言い出したから、貸すために家に寄っただけなんだって……!!」
私と別れてから必死に考えたであろう言い訳を、息をつくのも忘れたように雪崩のごとく言ってくる。
優真の口から生温い息が漏れる。
……でも、優真はわかってない。
あのDVDは、私が若い頃に感動した恋愛物で、大切にしていた物だ。それを他人、しかも女に貸そうとするなんて。
そして、貸すなら返してもらうために連絡先を交換しなければならなくなる。
こう言えば、私が納得するとでも思ってるのだろうか。それとも、これしか言い訳を思いつかなかったのか。
どっちにしろ、怒りを越えた虚しさがこみ上げてくる。
キッチンカウンターの大理石に置いていた私の右手。その薬指の、指輪を外したばかりの皮膚の白さが、朝の容赦ない光のなかでやけに鮮明に浮き上がっていた。




