静まり返った車内
静かな車内の空気を切り裂くように、私は言葉を発した。
「山中さんと……付き合ってたんだね」
ワイパーがフロントガラスの雨水を激しく弾く音だけが、数秒、私たちの間を流れた。少し間を置いて、海斗君からの返事が返ってくる。
「うん……。前の職場で一緒に働いてたんだ。今の職場では、まだカミングアウトしてなくてさ……」
「そっか。指輪……いつもしてるの?」
「休みの日とかは、するかな……」
海斗君の声は、心なしか微かに震えているように聞こえた。
今日、休みじゃなかったじゃん。
なのに、帰ってわざわざ指輪を嵌めて、山中さんの迎えに来たんだ。いつも帰ったらすぐに嵌めているんだろうな。
……山中さん、本当に愛されてるんだな。
自分だけが勝手に、彼も同じ「薬指に冷たい風をまとった寂しい仲間」だと信じ込んで盛り上がっていたことが、急に惨めで、恥ずかしくなる。
エアコンの冷気が効いた車内なのに、全身からじっとりと嫌な汗が噴き出していくのがわかった。
「なんかあった? いつもと違う気がするけど」
フロントガラスに流れる雨脚を見つめたまま、海斗君が静かに言った。
優真に裏切られたこと、楓にすべてを奪われたこと――言うか迷うが、彼にだけは絶対に婚約者の存在を知られたくない。
私は必死に、引き攣りそうな頬をプロの笑顔へと動かした。
「ううん、別に……。ちょっと雨に濡れちゃっただけだよ。……あ!」
「え、何?」
「山中さんに、上着を返すの忘れてた! 濡れたカッターシャツ1枚で、そのまま仕事に行っちゃったよ……!」
私が肩にかけたグレーのジャケットを慌てて脱ごうとすると、海斗君は低く笑って首を振った。
「ハハッ、あいつらしいな。そのまま着てなよ、返しとくからいいよ」
ハンドルを握る海斗君の長い指。その薬指の指輪が、車のウインカーのチカチカとした光を浴びて、規則的に明滅している。
あいつらしいな、か――。
海斗君の口から出たその何気ない一言に、また胸の奥が冷たく軋む。
きっと、私が知らない彼の可愛いところも、ダメなところも、山中さんは全部全部、知り尽くしているんだろうな。
山中さんのジャケットから香る、海斗君の部屋と同じかもしれない柔軟剤の匂いが、急にひどく息苦しく感じられて、私は座席のシートに、深く自分の身体を沈めることしかできなかった。
車が私のマンションの前に滑り込む。静かにブレーキが踏まれ、ハザードランプの規則的な点滅が、雨の夜のコンクリートをオレンジ色に染めた。
私がドアノブに手をかけ、車から降りようとした、まさにその時だった。
「花音ちゃん……!」
海斗君の切羽詰まったような声に、驚いて振り返る。 バックミラー越しに目が合う。彼の切れ上がった瞳が、見たこともないほど激しく揺れていた。
「いや……なんでもない。……暖かくして、寝ろよ」
海斗君はすぐに視線を落とし、自分に言い聞かせるように冷たく口をつぐんだ。
「うん、ありがとう……」
私は肩にかかっていた山中さんの上着を脱いだ。海斗君と同じ匂いがするその温もりをシートに残すと、急に夜の冷気が肌にまとわりついてくる。
ドアを開け、激しい雨のなかへ降りて、足早にエントランスへ向かう。
オートロックのガラス扉の前で、たまらなくなって最後に一度だけ振り返った。
土砂降りの雨の向こう。フロントガラス越しに、海斗君がいつものクールな顔を崩して、酷く優しく微笑みながら、私に小さく手を振っていた。
そのまま、車のテールランプが夜の闇へと発進し、遠ざかっていく。
なんで、そんな目で私を見るの――?
自分は、山中さんのものだと言い張るように指輪を嵌めながら、私をあんな愛おしそうな目で見つめ直す、彼の矛盾。
鼓動を速めたまま、足早に自分のマンションの部屋へ向かった。




