雨宿り
とりあえずシャッターの閉まった店先で雨宿りをする。トタンの屋根を激しく叩く雨音が、暗い夜の街に冷たく反響していた。 結菜に連絡? いや、今頃は寝かしつけで大変だろう。
――海斗君に会いたい。もう全部ぶつけてしまいたい。いや、それはあまりにも身勝手? 自分が傷ついたから癒してなんて。
絶望を感じながら暗い空を見上げていると、不意に声がかかった。
「今井ちゃん?」
声の方を見上げる。
「山中さん……!?」
「どうしたの? 傘、忘れちゃった?」
山中さんがビニール傘を傾けた瞬間、街灯の光を反射して、彼の左手薬指の指輪がキラリと光った。
私は急いで涙を拭い、プロの笑顔を作って見せる。
雨に濡れた薄着の服のせいで急に身体が寒くなり、自分の腕をきつくさする。
すると山中さんは「使いなよ」と、自分が着ていたスーツのジャケットを脱いで、私の肩にかけてくれた。ふわりと、柔軟剤の清潔な匂いと、男の人の温かい体温が私を包み込む。
こんなに優しい人がいるんだ――。
張り詰めていた緊張が解け、また涙が溢れてしまう。山中さんにバレないようにそっと反対の方を向く。
やっぱり、結婚できる立派な人にはそれなりの理由があるんだと、痛いほど思い知らされた。
「ちょっと待っててね」
山中さんはスマートフォンを取り出すと、少し離れた場所で電話を始めた。激しい雨の音に遮られて、何を話しているのかはよく聞こえない。 話し終えて戻ってきた彼は、無邪気に微笑んだ。
「今から、同棲してる恋人に車で迎えに来てもらうから。家まで送っていくよ」
「えっ、いや! そんなことしたら彼女さんが気を悪くするから、本当に大丈夫です!」
「ハハッ、そんな器の小さい奴じゃないから大丈夫」
さらりと微笑む山中さんと、他愛のない世間話が始まる。
「それにしてもさ、高柳がすっかり今井ちゃんのファンになっちゃって。あいつ結婚してるくせに『今日、受付の今井ちゃんと目が合った』とか『今日も可愛かった』とか、毎日うるさいんだよ。あんまりしつこかったら俺に言ってね、ガツンと注意するから」
優真に裏切られた夜。誰かに必要とされ、可愛いと噂されているという事実に、私のボロボロだったプライドがほんの少しだけ満たされ、嬉しくてまた涙が出そうになる。
山中さんの上着のぬくもりにくるまりながら、私は暗闇の向こうから近づいてくる、ヘッドライトの光をじっと見つめていた。
車が止まり、ヘッドライトの青白い光のなかを、一人の人影が近づいてきた。山中さんが立ち上がり、嬉しそうにその影へと近づいていく。
激しい雨音の向こうから、山中さんの弾んだ声が聞こえた。
「紹介するね、この人が俺の――」
「花音ちゃん、……?」
不意に、その人影から私の名を呼ぶ声がした。
私がパッと顔を上げ、逆光で見えなかった顔を確かめる。
「海斗、君……」
そこには、右手にビニール傘を差し、濡れた左手の薬指に、職場では見たことのない、ギラッと光るシンプルな指輪を嵌めた、海斗君が立っていた。
街灯の光を浴びて残酷なほど眩しく輝くその指輪は、山中さんの薬指にあるものと、同じ形をしているのだろう。
「あれ? 知り合い? あ、そっか! 同じ会社だもんね!」
山中さんが不思議そうに私たちを見比べる。
海斗君は、息が詰まるほど愛おしそうなあの瞳をほんの一瞬だけ私に向けたあと、すぐにいつものクールな仮面を被って口を開いた。
「ああ……。高校の同級生、なんだ」
海斗君があえて、先日あれほど熱を込めて語っていた『小学校からの12年間』という事実を言わなかったのは、隣にいる山中さんを想ってのことなのだと、すぐに分かった。
ズキン、と胸の奥が激しく痛む。
優真に裏切られたときよりも、何倍も冷たくて重い絶望が、私の全身の血を凍らせていく。
山中さんのジャケットのぬくもりに包まれながら、私は海斗君の薬指の光から、どうしても目を逸らすことができなかった。
当たり前のように助手席に山中さんが座り、私は後部座席に取り残される。フロントガラスを激しく叩くワイパーの音だけが、気まずい車内に響いていた。一気に押し寄せる疎外感。
そのとき、山中さんの携帯に電話がかかってきた。どうやらトラブルらしく、急いで仕事に戻らねばならなくなったようだ。
「ごめん、先に会社でおろして!」
という山中さんの言葉に従い、海斗君は静かに車を走らせる。
会社の手前の赤信号で車が止まったとき、助手席の山中さんが、海斗君の肩に甘えるように寄り添った。
「ねえ、キスして」
先ほどまでの声からは想像できないような、甘ったるい声。
海斗君はあからさまに慌てて、声を潜めた。
「なにいってんだよ、人前で! 酔っ払いすぎだぞ!」
海斗君が、バックミラー越しにちらっと私を見て、すぐに気まずそうに目を山中さんに戻す。その一瞬の視線の交差に、私の心臓が痛いほど脈打った。
「えー。じゃあ、あとでね。仕事終わったら連絡するから、迎えにきてね」
「……わかった。気をつけてな」
車が止まり、山中さんが助手席から降りる。だが、彼はそのまま建物に向かうのではなく、わざわざ私が座る後部座席のドアを開けた。
流れ込んできた冷たい雨風と一緒に、山中さんが私の耳元で、低く囁く。
「海斗は『俺の』だから、とらないでね」
にっこり微笑む山中さんの瞳の奥は、完全に凍りついていた。
運転席の海斗君が、怪訝そうに振り返る。
「智哉、何やってんだよ!」
「ただ、今井ちゃん雨に濡れたから、風邪ひかないようにねって言っただけー!」
山中さんは何食わぬ顔で可愛らしく笑うと、ひらひらと手を振って、土砂降りの雨の向こうへ消えていった。
ドアが閉まると、車内は一瞬で耳が痛くなるほどの静寂に包まれた。
バックミラー越しに、海斗君のあの冷ややかで狂おしい瞳が、再び真っ直ぐに私を射抜く。
絶望の最底辺で、私のプロの仮面が、今までにない冷酷な音を立てて激しく木っ端微塵に砕け散っていくのがわかった。
さっき、山中さんに「人前で!」と慌てていた海斗君の顔が、脳裏に焼きついて離れない。
私に時折向ける、あの掴みどころのない愛おしそうな視線。きっと、それの何十倍も熱い本物の視線を、海斗君は家では山中さんに注いでいるのだろう。
私には、絶対に手に入らない本物の熱。
あまりの虚しさとみじめさに、喉の奥からじわじわと酸っぱいものが込み上げ、強烈な吐き気すら覚える。シートの革の匂いが急にひどく不快に感じられて、私は口元をきつく手で押さえた。




