予兆
受付に戻ると、ロビーにはお昼休みの終わりを告げるチャイムの音が静かに響き渡っていた。
私は制服のタイトスカートを滑らかに整え、大理石のカウンターへスッと手を添える。心臓のドクドクという心地よい高鳴りが、まだ耳の奥に残っていた。
楓が微笑みを浮かべたまま、周りに聞こえない大きさの声で話しかけてきた。
「いいなー、今井さん。最近受付で話したり、会釈したりしてるのを見て思ってたんですけど……。なんかレベル高い人たちとばっかり知り合いじゃないですか?」
海斗君や高柳さん、それに山中さんのことだろう。
私は心の中で、バッグの奥底にある二万円の指輪のことなんて綺麗に忘れて、海斗君との「同じ誕生日」という甘い奇跡に酔いしれていた。
「そう? たまたま書類を届ける用事があっただけだよ。でも、楓だっていつも男の人に誘われてるじゃん」
「いやー、私のところに来るのなんて、遊び慣れてそうな軽い人ばっかりですよ。中身がないっていうか」
楓はそう言って、大理石のカウンターに指先でコツコツとリズムを刻みながら、つまらなそうに唇を尖らせた。
「今度もまた、別の会社の人と飲み会あるんですよね〜。あ、先輩も来ます? 一緒に行きましょうよ」
「ううん、私は大丈夫。ありがとね」
私は完璧な「お姉さん」の笑顔を作って、優しく断った。
私には優真という婚約者がいるし、十年以上疎遠だった海斗君といい関係を築き始めている。楓がいくら若くて男ウケが良くても、そんな軽い飲み会で消費されている彼女とは、住む世界が違うのだ。
大理石の冷たさが手のひらに伝わってくる。
私は、自分が選ばれた特別な人間なのだと、本気でそう信じ込んでいた。
金曜日。優真から『今日は会社の飲み会だから、土曜日に会おう』と連絡が入っていた。
けれど、この間彼の家に行ったときに、お気に入りの腕時計を忘れてきたことに気づく。時間は21時過ぎ。二次会に行くならまだ帰ってないだろう。
ふと、男の人たちって女の子がいるお店とか、エロいお店に行ったりするのかな、などと無駄に考えてしまう。
どうせいないのだから、合鍵を使って勝手に取って帰ればいい――そう思った私は、夜のマンションへと向かった。
エレベーターを降り、いつもの角を曲がって、優真の部屋のドアが見えた瞬間、私の思考は完全に停止した。
部屋の前には、男女の姿。
楽しげに笑い合いながら、優真が鍵を開けようとしている。その隣で、小柄な身体を彼に甘えるように寄せているのは、見間べるはずもない。
――後輩の、楓だった。
指先から一気に血の気が引いていく。
カシャーンッ!
手から滑り落ちた合鍵が、コンクリートの床に不自然に高い金属音を立てて弾けた。
二人が、ガバッと同時にこちらを振り向く。
女の子がいるエロい店と比べものにならないくらい酷い。鍵の落ちた音が響いて耳が痛い。
私は、自分がどんな顔をしているかも分からないまま、反射的に身体を反転させ、逃げるように走り出していた。
「花音ちゃん!?」
背中に優真の焦った声が真っ直ぐに当たったが、止まれるわけがなかった。ヒールが脱げそうになるのも構わず、非常階段へと飛び出る。
その瞬間、左腕をしっかりと強い力で捕まえられる。歪んだ視界で振り返ると、優真が悲しみを含んだ複雑な表情で見つめてくる。
「花音ちゃん……これは……」
優真が言い終わる前に腕を強く引き抜く。
「いや!! 聞かない!! 聞きたくない……っ!!」
そのまま非常階段を通り、夜の街へと全力で駆け出していく。
叶うわけがない。元から美人のあの娘に。あの可愛さも、スタイルも、若さも。
今日が初めて? それとも、ずっと前から?
「軽い男ばっかり」なんて、私の前でどんな顔をして言っていたの?
楓は私の彼氏だと知っていたのだろうか。
涙が次から次へと溢れて、視界がぐしゃぐしゃに歪んでいく。
タイミングを合わせたように、夜空から大粒の雨が激しく降り注いできた。
アスファルトを叩く激しい雨音が、私の頭の中のパニックを掻き消していく。
頬を伝う熱い液体が、涙なのか、それとも冷たい雨水なのか、もう何も分からなかった。
ただ、バッグの奥底に眠る二万円のおもちゃのような指輪と、私の惨めなプライドだけが、雨の中でドロドロに溶けていくような気がしていた。




