誕生日
家に着いたのは14時過ぎ。部屋に入り、真っ直ぐベッドに倒れ込んだ。
もう考えるのも嫌。眠りたい。深く深く……。
――ハッピバースデートゥーユー……。
暗がりの中に、白いバースデーケーキ。ケーキの上にはロウソクが灯っている。橙色の光がぼんやりと照らす周りには、父、母、弟がいてニコニコと歌を歌っている。
『また』だ――。
この間と同じ。
夢? こんなにはっきりと目に見えているのに? ロウソクの焼ける匂いと、ケーキの甘ったるい匂いに包まれている。こんなにリアルなのに、これが夢?
ケーキの上には、『1』と『0』の数字。10歳の誕生日? ……と言うことは、小学5年生? 結菜が言っていたことに関係するのだろうか?
歌が終わりに近付いている。とりあえず火を消せばいいのか……
見える範囲のケーキ周辺を見ていると、ケーキを切るために用意された包丁が目に飛び込んできた。
これだ……!!
手首を切れば死ぬかもしれない。じゃあ、反対側――内側ではなく、外側なら?
歌が終わる寸前、包丁を素早く逆手に持ち、自分の左手を机の上に置く。
夢なら何をしても大丈夫なはず。夢ではないなら何かが残るだろう……。
自分の手の甲に向かって、包丁を勢いよく突き立てる。ガチリ、と鈍い感触と共にすぐに骨に当たり、それ以上先には進まない。でも、できるだけ深い傷を……!! 20年後も残るような大きな傷を……!!!
じわっと赤い血が溢れ、母が「きゃああああ……っ!!!」と、今まで聞いたことのない悲鳴をあげた。父が慌てて包丁を取り上げ、思いっ切りフローリングに投げ捨てて私を抱き締めた。弟は恐ろしいものでも見たかのような恐怖に怯えた顔を私に向けながら、声を上げて泣き出した。
ガシャーンと包丁が床で跳ねる高い音が、ひどく遠くに聞こえる。
その中で、私はなぜか冷静に、こんなに痛いなら夢じゃないよね? と自問自答していた。
傷は痛いというより熱かった。熱すぎて、私の左手がこのまま燃え尽きるんじゃないかと思った。
――――――
バッと目を開けるとベッドの上だった。急いでスマホの時間を確認する。
……やっぱり。時間が進んでいない。
突き動かされるように左手の甲をさするが、目立った傷はない。
……じゃあ、これも夢……?
突然スマホから着信音が激しく鳴りだした。心臓がビクッと反応し、本当に心臓が止まるかと思った。
画面を恐る恐る覗くと、弟の大和からだった。
「もしもし……」
『あー姉ちゃん? 来週の相談だけど……』
大和のいつもと変わらぬ声に、鼓動が和らいでいくのを感じた。
「えっと……来週……なんだっけ?」
『はあ? 姉ちゃんが言ったんじゃん! 母さんの誕生日だから集まろうって!』
しまった……!! 最近、自分のことばっかりで忘れてた……。
自分で言っておいて忘れるなんて……と、心の中で情けなくなってくる。
「あ! うん、そうだったよね! で、あたしがホールケーキ買って、あんたが花買って行く約束だったよね?」
『は……?』
受話器の向こうからの声なのに、はっきりとピリついた空気が伝わってきた。耳元に当てるスマートフォンの液晶の熱が、なぜか急にひどく不快に感じられる。
『姉ちゃん大丈夫? なんかあった? 母さんにそんなの準備するなんてありえないだろ』
「は……?」
いや、確かに先週、大和と母の誕生日について話し合っていた。でもその時に決めた役割は間違ってないはず……。
『あー! もう!! 寝ぼけてんの!?
姉ちゃん、10歳の誕生日の時に、わけわからなくなって包丁で自分の手をぶっ刺したから、それから母さんホールケーキ食べられなくなったじゃん!! 刺した後も、『何で刺したかわかんない!!』って姉ちゃんわんわん泣くし、もう、ほんとあれ俺にとってもトラウマなんだよ!!』
……え? やっぱり夢じゃなかった……?
というか、現在まで変わってしまった……?
いや、変えてしまったのか……。
大和に平謝りをして電話を切った。
静まり返った部屋のなかで、自分の呼吸の音だけが不自然に大きく響いている。
もう一度、自分の左手をよく見てみる。
窓からの斜陽に照らされた、何も嵌まっていない左手。
すると、左手の甲の中心に薄っすら、本当によく見ないとわからない程度だが、今までになかった傷跡があった。指先でなぞると、そこだけ皮膚がわずかに硬く引き攣れている。
本当に、変えてしまったんだ――
冷や汗が背筋を伝い、私はその傷跡をただ凝視することしかできなかった。




