小学校編 28時間目 ―憧れの人との出会い―
〈水嶋圭視点〉
(……つ、ついに)
ついに、この日が来てしまったー!!
俺は、ずっとこの日を待っていた。
あの人に、もう一度会えるかもしれない日。
俺が心の底から尊敬している人。
吉沢玲士さん。
あの吉沢ホールディングスの社長で、帝耀の父親だ。
俺にとって玲士さんは、ただの有名人じゃない。
憧れの人。
そして、俺の将来を決めるきっかけになった人だ。
(……玲士さん)
俺が初めてあの人に会ったのは、小学四年生の春。
今から一年ほど前のことだった。
***
――小学四年生の春。
その日、俺は買い物を頼まれていた。
目的地は、家から少し離れたスーパー。
別に買い物が好きなわけじゃない。
ただ、頼まれたから行くだけ。
いつもと変わらない、何でもない一日になるはずだった。
……あの車を見つけるまでは。
(……ん?)
ホテルの前を通りかかったとき、俺は足を止めた。
そこに、一台のリムジンが停まっていた。
黒くて、長くて、やたらと立派な車。
(……あれ)
見覚えがある。
(……帝耀の車じゃね?)
吉沢帝耀。
今年、俺たちの学校に転校してきた男子だ。
あの吉沢財閥の息子が転校してきたと、学校ではかなりの噂になっていた。
……いや。
騒いでいたのは、俺たち子供よりも大人たちの方だったかもしれない。
「吉沢家のご子息ですって!」
「ぜひ、お近づきにならないと!」
そんな話を、何度も耳にした。
もちろん、俺の両親も例外じゃなかった。
***
俺の両親は、普段、俺にあまり興味がない。
学校で何があったとか。
誰と遊んだとか。
何が好きだとか。
そんなことを聞かれた覚えは、ほとんどない。
……なのに。
帝耀が転校してきたと知った途端、急に俺の身なりを気にし始めた。
「ちゃんとした服を着なさい」
「髪も整えて」
「吉沢くんには失礼のないようにね」
それから、毎日のように手土産を持たされた。
(……なんで俺が)
そう思ったけど、逆らうことはできなかった。
両親の言うとおりにしていれば、怒られずに済む。
だから俺は、毎日手土産を持って帝耀に近づいた。
……けれど。
「……いらない」
帝耀は、受け取ってくれなかった。
それどころか、俺にほとんど興味を示さなかった。
(……まあ、そうだよな)
別に、帝耀が悪いわけじゃない。
知らない奴から毎日手土産を渡されても、困るだけだろう。
でも。
家に帰れば、両親に叱られた。
「どうして受け取ってもらえないの?」
「ちゃんとお話ししたの?」
「もっと努力しなさい」
(……俺だって、好きでやってるわけじゃねえよ)
何度もそう言いたくなった。
でも、言えなかった。
怒られるのが嫌だったから。
だから途中から、俺はこっそり手土産を太志にあげることにした。
太志は、特に何も聞かずに受け取ってくれた。
……その方が、ずっと気が楽だった。
***
そんな帝耀が乗っていたリムジンが、今、目の前にある。
(……なんでこんなところに?)
俺は、少しだけ気になった。
別に帝耀に会いたいわけじゃない。
でも、つい足を止めてしまった。
ホテルの入口付近には、体格のいい男たちが何人も立っている。
(……なんか、すげえな)
俺は少し離れた場所から、その様子を眺めていた。
しばらくすると、運転手らしき人が車から降りた。
そして、後部座席のドアを開ける。
(……帝耀か?)
俺は、何となく目を凝らした。
……けれど。
車から降りてきたのは、帝耀ではなかった。
(……誰だ?)
一人の男性だった。
背が高く、整った顔立ち。
身につけているものは、どれも上等そうなのに、不思議と嫌味な感じがしない。
男性は運転手に軽く礼を言うと、ホテルの方へ歩き出そうとした。
そのとき。
ふと、こちらを見た。
「……!」
(……やばっ)
目が合った。
見ていたことがバレた!
(……逃げなきゃ)
そう思ったのに。
足が動かなかった。
怖かったからなのか。
それとも、別の理由なのか。
自分でも分からない。
ただ、俺はその男性から目を離せなくなっていた。
男性は、周囲にいた屈強な男たちに何かを告げた。
すると、男たちは動きを止めた。
そして。
(……え?)
男性が、俺の方へ歩いてきた。
(……うそだろ)
怒られる?
何か言われる?
勝手に見ていたのがいけなかった?
いろんな考えが頭を駆け巡る。
でも、何もできなかった。
俺はただ、その場に立ち尽くしていた。
やがて、男性が目の前で立ち止まった。
(……あ)
近くで見ると、ますますすごい。
何がすごいのか、うまく説明できない。
ただ、立っているだけなのに。
まるで、周りの空気まで変わってしまったみたいだった。
すると男性は、ふっと視線を落とした。
そして、何かを拾い上げる。
「……はい」
差し出されたのは、俺の鞄だった。
(……え?)
いつの間に落としたんだ?
さっきまで持っていたはずなのに。
俺が呆然としていると、男性は優しく笑った。
「ごめんね。怖かったでしょ」
「…………」
その言葉を聞いて、俺は初めて気づいた。
いつの間にか、周りを何人もの男たちに囲まれていたことに。
(……あれ?)
全然気づかなかった。
俺は、目の前の男性しか見ていなかったんだ。
その人の持つ気品や、不思議な存在感に。
いつの間にか、釘付けになっていたらしい。
「…………」
俺が何も言えずにいると、男性はもう一度微笑んだ。
そして、鞄を俺に手渡した。
「気をつけてね」
そのとき。
「旦那様」
先ほどの運転手が、男性を呼んだ。
「……ああ」
男性は軽く頷いた。
そして、俺に背を向ける。
(……あ)
行っちゃう。
(……待って)
俺は、慌てて一歩踏み出した。
でも、すぐに周りの男たちに止められてしまった。
「……っ!」
(……なんで)
俺は、あの人が誰なのか知りたかった。
ただ、それだけだった。
「……あの!」
俺は、男たちに尋ねた。
「あの人、誰なんですか?」
けれど、誰も答えてくれなかった。
「……教えてください」
何度聞いても、返事はない。
(……なんでだよ)
名前くらい、教えてくれたっていいじゃないか。
俺は、止めようとする手を振りほどいた。
そして、走り出した。
(……待って!!)
今思えば、あのときの俺はどうかしていたと思う。
相手がどんな人なのかも分からない。
周りには、怖そうな大人が何人もいる。
それなのに、どうしても追いかけずにはいられなかった。
「……あの!!」
俺は、声を張り上げた。
男性が振り返る。
また、目が合った。
(……今だ)
俺は、思い切って尋ねた。
「お名前を……!」
「……ん?」
「お名前を、教えてください!」
男性は、少し驚いたような顔をした。
けれど、すぐに笑った。
そして、また俺の方へ近づいてきた。
「……そうだなぁ」
男性は、俺と目線を合わせるように少しかがんだ。
そして、はっきりと言った。
「吉沢玲士。君の名前は?」
「…………」
(……え?)
俺の名前?
(……俺の?)
まさか、聞き返されるなんて思っていなかった。
頭が真っ白になった。
「……あ」
答えなきゃ。
名前。
俺の名前は、水嶋圭。
たったそれだけのことなのに。
なぜか、声が出なかった。
「…………」
玲士さんは、そんな俺を見て、くすっと笑った。
「残念」
「……え?」
「タイムオーバー」
そして、俺の頭にそっと手を置いた。
「またね」
優しく撫でられる。
「…………」
玲士さんは、最後にもう一度微笑んだ。
そして、今度こそホテルの中へと入っていった。
(……またね)
その言葉だけが、頭の中に残った。
***
その後のことは、あまり覚えていない。
聞いた話では、子供が関係者以外立ち入り禁止の場所の近くまで入り込んだとかで、ちょっとした騒ぎになっていたらしい。
……でも。
俺には、そんなことどうでもよかった。
(……吉沢玲士さん)
名前を知ることができた。
それだけで、十分だった。
……いや。
本当は、十分じゃなかったのかもしれない。
(……また会いたい)
もう一度、会いたい。
今度はちゃんと、自分の名前を伝えたい。
そんなことばかり考えていた。
***
その日の夕方。
俺は、手ぶらで家に帰った。
「……ただいま」
すると、両親に呼び止められた。
「圭、買い物は?」
「……あ」
(……忘れてた)
そうだ。
俺、スーパーに行く途中だったんだ。
(……やば)
結局、何も買っていない。
当然、両親には叱られた。
「何をしていたの!」
「頼んだこともできないの?」
「……ごめんなさい」
俺は、俯いた。
でも、その日はどうしても伝えたいことがあった。
「……あの」
「何?」
「今日、ホテルの前で……」
俺は、何とか事情を説明した。
リムジンを見つけたこと。
そこから降りてきた男性に会ったこと。
そして、その人が名乗った名前。
「……吉沢玲士さん、っていう人で……」
「…………」
その瞬間。
両親の表情が変わった。
「……え?」
「今、なんて?」
「……吉沢玲士さん」
「本当に!?」
(……え?)
さっきまで怒っていたのに。
急に、声の調子が変わった。
「その方とお話ししたの?」
「……うん」
「何をお話ししたの!?」
「……名前を聞いて……」
「それで!?」
(……なんなんだよ)
俺は、戸惑いながら答えた。
すると、両親は興奮した様子で話し始めた。
どうやら玲士さんは、帝耀の父親らしい。
そして。
吉沢ホールディングスの社長。
あの大きな会社の、トップに立つ人だった。
(……そうなんだ)
俺は、初めて知った。
でも。
(……だから、どうしたんだろう)
両親は、社長だからすごいと言っていた。
確かに、それもすごいことなんだと思う。
だけど、俺が憧れたのは、そんな肩書きじゃない。
周りに何人も大人がいる中で、見知らぬ子供の俺に気づいてくれたこと。
怖がっていると思って、声をかけてくれたこと。
鞄を拾ってくれたこと。
そして。
俺の名前を聞いてくれたこと。
(……あの人は)
俺を、ちゃんと一人の人間として見てくれた。
……そんな気がしたんだ。
「…………」
俺は、そっと自分の頭に触れた。
まだ、玲士さんに撫でてもらった感覚が残っているような気がした。
(……また会いたい)
今度こそ、ちゃんと名前を言いたい。
でも、あんなすごい人に、どうすればもう一度会えるんだろう。
(……そうだ)
そのとき、俺は一つの答えにたどり着いた。
玲士さんが、吉沢ホールディングスの社長なら。
俺も、吉沢ホールディングスで働けばいい。
そうすれば、いつかまた会えるかもしれない。
(……よし)
決めた。
俺は将来、吉沢ホールディングスに入る。
そして、もう一度玲士さんに会うんだ。
今度は、ただ憧れているだけじゃなくて。
あの人の役に立てるような人間になって。
(……絶対に)
俺は、吉沢ホールディングスで働く。
小学四年生の春。
俺は、生まれて初めて、自分の意思で将来の夢を決めたのだった。
〈28時間目・終〉
〈清原海斗〉
累と同じく吉沢派のお兄さん的存在。
聞き上手で、いつもみんなの相談に乗っている。優しいのでみんなから好かれている。
常に1歩引いており、物事を客観的に見ていることが多い。大抵は冷静である。
吉沢派の中では1番落ち着いている。
幼少期に火事で両親を亡くし、今は祖父母に面倒を見てもらっている。祖父母もあまり若くないため、面倒を掛けたくないと思っている。
将来の夢は自分を助けてくれた消防士。




