第五章:清らかな夢への汚毒
私がアヤとして生きる時間は、あまりにも滑らかで、あまりにも幸福だった。
レンに手を引かれ、白く濁った陽光の中を歩き、街の人々と親しげに言葉を交わす。そこにはサオリとして生きていた頃のような、胃を切り刻まれるような不安も、明日への恐怖も存在しない。
だが、私――アヤの体の奥底、針の先ほどの領域に押し込められたサオリの残滓は、まだ消えてはいなかった。彼女は絶え間なく、私の脳髄に爪を立てて囁き続けていた。
『ここは偽物よ。この男も、この空も、全部あなたの妄想。早く目を覚まして』
アヤは、そのノイズを疎ましく思い、ふと足を止めた。額に浮かんだわずかな汗が、真珠のように白く輝いている。
「レン、少し疲れたわ。自分の部屋で、少しだけ横になってもいいかしら」
レンは慈愛に満ちた笑みを浮かべ、私の頬を撫でた。その指先は驚くほど整っていた。
「ああ、もちろんだよ。君の部屋は、あの語り部の塔の最上階にある。少し混乱しているようだから、ゆっくり休むといい。お茶の準備をして待っているよ」
私は、街の中央に聳え立つ石造りの塔へと向かった。
螺旋階段を登る足音が、静まり返った空間に響く。一歩登るごとに、サオリとしての記憶が薄れ、アヤとしての輪郭が補強されていくのを感じる。
最上階の重厚な木の扉を開けると、そこには、目も眩むような膨大な量の紙束と、古びた革表紙の書物に埋め尽くされた私の部屋があった。
アヤとしての私は、ここが自分の仕事場であり、聖域であることを知っている。
だが、私の内側のサオリが、その光景を見て悲鳴を上げた。
壁一面に貼られた、緻密な地図。それは、夢里の地図ではない。
新宿、渋谷、杉並、代官山――。
そこには、私が現実だと信じていた東京の街並みが、地下鉄の路線図から路地裏の自動販売機の位置に至るまで、恐ろしいまでの正確さで描かれていた。
「これ……は……」
アヤとしての私は、吸い寄せられるように、机の上に置かれた一冊の巨大な黒いファイルに手を伸ばした。
その表紙には、見慣れた私の書き癖でこう記されている。
『鋼の街のサオリ ――設定資料及び進行管理』
指先でページを捲る。そこには、私が作り上げたサオリというキャラクターの全人生が、無機質な項目ごとに分類され、事細かに書き込まれていた。
【氏名】サオリ
【年齢】三十一歳
【性格】内向的。自己肯定感が低く、孤独を愛すると自称しつつも他者の温もりを病的に渇望している。
【経歴】〇〇大学卒業後、中堅の編集会社に就職。校正という、他者の言葉を修正するだけの受動的な人生を象徴する仕事に従事させること。
――嘘よ。そんなの嘘。
脳髄の奥で、サオリの残滓がひきつけを起こしたように震えるのがわかった。
その悶えを、アヤである私は他人事のように聞き流しながら、ページを繰る手を止めない。この哀れな主人公をいかに完璧に葬り去ったのか――その完璧な終止符をなぞるような愉悦が、私の指先を次へと急がせる。
ファイルの中に並ぶのは、サオリという女が自分だけの孤独な戦いだと思い込んでいた記憶のすべてだ。それらは、書き手である私の手によってあらかじめ決められた筋書きとして、残酷なまでに美しく整理されていた。
『第一話:木村という名の記号的な善人とのランチ』
『第二話:既視感による精神的混乱の誘発』
『第三話:レンという名の絶対的救済の提示』
サオリが今まで流してきた涙も、眠れない夜の苦しみも。それらはすべて、この部屋で私が物語を面白くするために配置した、ただの駒に過ぎない。
作者である私は、その完璧な仕事ぶりに、深い満足感さえ覚えていた。
対照的に、内側に閉じ込められたサオリは、自らの人生が誰かに書かれた文字に過ぎなかったという残酷な真実に打ちのめされ、声にならない悲鳴を上げながら霧散していく。
私は、消えゆくサオリの存在を意識の端に追いやり、そのままファイルの末尾を捲った。
私は、ファイルの末尾に綴じられた数枚の羊皮紙を見つけた。そこには、書き手としての私が残した、最終的な方針が記されていた。
『未来の私――あるいは、今はまだサオリだと思い込んでいるアヤへ。
そろそろサオリという器も限界ね。このサオリという人格は、あなたが現実逃避のために作り出した、一番出来の悪い小説の主人公よ。
あちら側の世界、つまり東京と呼ばれるあの薄暗い鋼の街は、あなたが想像した最も醜悪で、最も退屈な地獄の設定。
あなたは、そこでの苦労を現実だと思い込むことで、こちら側の幸福の有り難みを再確認しようとした。
でも、もう物語は完結よ。器を壊して、こちらに戻ってきなさい』
最後の一行を読み終えた瞬間、私はサオリという不要な設定を消去しようと、無意識にファイルを閉じようとした。
――その時だ。
死を宣告されたサオリの残滓が、消滅の淵で、獣のような咆哮を上げた。
自分の人生を一番出来の悪い小説と切り捨てられた屈辱と、存在そのものを抹消される恐怖が、アヤの盤石な意識を内側から食い破る。
頭が割れるように痛んだ。
脳内で、冷徹な作者であるアヤと、泥の中でもがいてきたサオリの意識が激しくぶつかり合い、火花を散らす。
混濁する意識の濁流を突き破り、私の喉が、サオリの声で震えた。
「私は、私は作り物じゃない! 私は生きてる、私はサオリなのよ!」
私の叫びを嘲笑うように、背後から冷ややかな声が聞こえた。
「まだそんなことを言っているのかい、サオリ」
振り返ると、扉の前にレンが立っていた。
彼の瞳は、もはや恋人のそれではない。自分が丹精込めて育てた苗木が、少しだけ曲がって成長したのを修正しようとする、冷徹な園芸師の目だった。
「レン……教えて。私は何なの? 私は、あっちの世界で確かに生きてきた。冷たい雨も、電車の揺れも、全部感じてきたのよ!」
レンはゆっくりと歩み寄り、机の上のファイルを指差した。
「君が感じた現実感は、アヤが作り出した精緻な描写に過ぎない。君がサオリとして持っている記憶のすべては、アヤが退屈しのぎに書き綴った設定資料だよ」
彼は私の手を取り、その掌をじっと見つめた。そこには、サオリが抵抗してつけたはずの傷跡が、設定の修正によって綺麗に消え去っている。
「君は、アヤがこちら側の世界で生きるのに飽きて、ほんの少しの刺激を求めて外側へ放り出した仮の人格。……つまり、夢の中の住人なんだよ。こちら側の世界が本物で、君が信じていた東京こそが、アヤが見ていた悪夢の続きなんだ」
「そんな……そんなこと、あるはずがない……!」
「いいや、あるんだ。アヤはこの世界の語り部だ。彼女の言葉は、この世界の法であり、真実となる。
彼女は自分の苦しみを切り離すために、サオリという器を作り、そこにすべての負の感情を詰め込んで、鋼の街へと捨て去った。君がサオリとして味わってきた絶望や孤独は、すべてアヤが捨てたゴミなんだよ」
レンの言葉が、私の存在そのものを消去していく。
私は、自分が確固たる意志を持った人間だと思っていた。だが事実は違った。私は、本物の人間であるアヤが嫌な気分を処理するために生み出した、ただの精神的な排泄物だったのだ。
「サオリ。君という人格の役割はもう終わったんだ。アヤがこちらに戻り、完全な自分を取り戻すために、君という殻はもう必要ない」
レンの手が、私の喉に伸びてきた。その指は、驚くほど冷たい。昨夜のあの熱さは、私を騙し、取り込むための罠だったのか。
「……待って! だったら、私の意識はどうなるの? 私は、サオリとしての私は、どこへ行くの?」
「消えるのさ」
レンは静かに言った。
「夢から覚めた時、夢の中の登場人物がどこへ行くか、君は考えたことがあるかい? どこにも行かない。ただ、最初からいなかったことになるだけだ」
私は、必死に彼の手を振り払おうとした。だが、私の指先は、今や半透明に透け始めていた。私が自分だと思っていた輪郭が、アヤという書き手の消去という意志によって、さらさらと崩れていく。
私は、机の上のファイルを必死に掴んだ。
私が大切にしていた友情も、誰かに向けたささやかな気遣いも、すべてはアヤの計算。東京の空がいつも曇っていたのは、アヤがサオリの憂鬱を演出するために、そう設定したからに過ぎない。
笑いが込み上げてきた。私の人生は、ただの書き捨てられた設定の一部だったのだ。一人の美しい女性をより輝かせるための、比較対象として用意された、惨めな前座の物語。
「嫌よ……私は、消えたくない……」
私は窓に駆け寄り、外を見た。
そこには、白く濁った空の下に広がる、美しい夢里の街並み。
そして、その街並みの端々が、まるで劣化した映像のようにノイズを吐き出し、その向こう側に、一瞬だけ東京の夜景が透けて見えた。
雨に濡れたアスファルト。点滅する赤信号。遠くで聞こえる、救急車のサイレン。
あれが、私の地獄。
そして、私の、唯一の居場所。
「サオリ、もういいだろう。おやすみ」
レンが私の背後から、優しく私を抱きしめた。
彼の胸に耳を当てると、そこには心音などなかった。ただ、ページを捲る紙の音だけが、絶え間なく聞こえてくる。彼はこの世界の住人ですらない。アヤが自分を愛するために作り出した、究極の都合の良い男という設定の塊なのだ。
私の視界が、次第に暗転していく。意識が、巨大な渦に飲み込まれていく。
私は、サオリとしての最期の力を振り絞り、目の前のファイルを床に叩きつけた。バラバラに散らばる設定の紙。そこに記された、私の苦悩の記録。
その中の一枚が、私の絶望を誘うように、足元でぴたりと表を向けて止まった。
――『結末:サオリは、最後に絶望し、自分の存在の希薄さを呪いながら消滅する』
私は膝をつき、その紙面を、引き裂かんばかりの力で床ごと掴み取った。
指先が、文字を、紙を、激しく擦る。その摩擦の痛みが、私のなかで生への叫びとなって弾けた。
それは、物理的な傷を飛び越え、血を吐くような執念となって溢れ出す。あるいは、私の意識を飲み込もうとするアヤの、あの禍々しくも美しい紫色の鮮血が、内側から溢れて視界を汚し始めた幻覚だったのかもしれない。
私は、アヤの思い通りには消えない。
たとえ作り物の人格でも、たとえ書き込まれた設定でも、私はここにいたという呪いを、この美しい夢の世界に刻んでやる。
「……アヤ。聞こえているんでしょう?」
私は、自分の内側に潜む本当の自分に向かって、歯を剥き出しにして笑った。
「あんたが私を無価値だと切り捨てたように、私もあんたを許さない。あんたがこれから味わうすべての幸福に、私はサオリとしての痛みを混ぜてやる。
あんたがレンと愛し合うたびに、私のあの安アパートの湿った匂いと、孤独の震えを思い出させてやるわ。あんたの清らかな夢を、私の汚毒で満たしてあげる」
レンの腕が強まり、私の首が嫌な音を立てた。
だが、私はもう怖くなかった。私はサオリとして死ぬのではない。アヤという存在の中に、永遠に消えないバグとして、上書きされるのだ。
意識が完全に途絶える寸前、私は見た。
塔の窓から見える、夢里の空。美しく白く濁っていたはずのその空に、一筋の黒い亀裂が走った。
それは、鋼の街、東京の、あの重苦しい曇り空の色だった。
現実が偽物だったのではない。
偽物であった私が、本物を汚し始めたのだ。
私の意識がアヤの脳髄に溶け落ちる瞬間、私は確かに聞いた。
幸福の絶頂にいるはずのアヤが、私の記憶に触れ、生まれて初めて本物の恐怖に震える声を。




