第四章:完成への執着
深い霧が、部屋の隅々から溢れ出していた。
私は、自分がいつ目を開けたのか、あるいは最初から開けていたのかさえ分からなくなっていた。視界に入ってくるのは、見慣れたはずの、けれど今や異様な違和感を放つアパートの天井だ。
……先ほどまでの出来事は、夢だったのだろうか。
レンと名乗る男が部屋に現れ、現実を解体していったあの光景。私は確かに彼の手の熱を感じ、アヤとしての安らぎを覚えたはずだ。
だが、今、私の指先が触れているのは、安っぽい合繊の毛布だ。部屋の隅には、まだサオリとしての生活の残骸――コンビニの袋や、山積みの校正資料が、死骸のように転がっている。
這い上がるようにして起き上がると、脳の中に自分のものではない重厚な記憶の石碑がいくつも打ち込まれたような、鈍い痛みが走った。
ふと、机の上に目が止まった。そこには、一通の紙片が置かれていた。
私が使っている無機質なメモ帳ではない。厚手で、手触りの良い、どこか古風な風合いの便箋だ。震える手で、その紙を手に取る。そこに記されていたのは、私の筆跡によく似ているが、より優雅で迷いのない文字だった。
『数日前のランチは、木村さんと定食屋に行ったのね。冷たいお茶を飲みながら、必死に現実にしがみつこうとしているあなたの姿は、とても滑稽で、そして少しだけ痛々しかったわ。
でも、もう無理をしなくていいのよ。あの不味い定食よりも、星の降る丘で食べる山羊のチーズの方が、ずっと私たちの舌には馴染むはずでしょう?
あなたがサオリとして過ごす時間は、私にとっては退屈な幕間に過ぎないの。そろそろ、私に席を譲ってくれないかしら』
指先から血の気が引いていく。
何より恐ろしいのは、その内容だ。数日前、私が何を感じていたか。それを、このアヤを名乗る筆者は、私の脳を内側から覗き見ているかのように把握していた。
「……乗っ取られる」
それは予感ではなく、確信だった。
夢の中の自分――アヤは、単なる幻影ではない。彼女こそが正解で、私はただの書き損じの残滓に過ぎないのだ。
私は、クローゼットの鏡の前に立った。
映し出されているのは、目の下に隈を作り、髪の乱れたサオリという女だ。だが、じっと見つめていると、鏡の中の瞳の奥に、別の光が宿り始めるのが分かった。
それは、誇り高く、知性的で、溢れんばかりの愛を知っている女の瞳。アヤ。
彼女は、私のコンプレックスの裏返しだった。地味で孤独なサオリという人生に、突如として現れた完全なる理想。
「嫌よ……私は、私だわ……!」
鏡に向かって叫ぶ。けれど、鏡の中の女は、慈しむような、それでいて残酷なまでの優しさで微笑んでいる。私の唇は固く結ばれたままだというのに、鏡の奥から、至高の旋律にも似た声が響いた。
『サオリなんて、そんな不確かな名前に、いつまでしがみついているの?』
その響きは背骨を伝って直接脳へと突き刺さる。
『あなたが信じているその記憶こそが、私がこの夢里で語ってきた、ほんの一節の作り話だとしたら? 仕事に行き、満員電車に揺られ、孤独に眠る……その退屈な物語を、私が暇つぶしに書き綴っていたのだとしたら?』
「嘘よ……私は生きてる。苦しんで、悩んで、ここで確かに生きてきたのよ!」
『ええ、その苦しみこそが、私の物語に深みを与えるスパイスだったのよ。でも、もう飽きてしまったわ。読者も、そして作者である私も。そろそろこの話を閉じて、本来の日常に戻りましょう』
頭の中で、誰かが重いページをめくるような音がした。
その瞬間、猛烈な眩暈が私を襲った。アパートの壁が、水に溶けた絵具のように流れ出す。足元の床が消え去る。私は、自分の体が粒子となって分解され、別の形に再構築されていくのを感じた。
気がつくと、私はあの石畳の坂道に立っていた。
けれど、それは今までのような観察者としての視点ではなかった。足の裏に伝わる石の冷たさ。肌を撫でる、あの甘ったるい花の匂い。そして、私の腕に纏わりつく、上質なシルクのドレスの感触。
「……あ」
自分の手を見る。サオリの、荒れてささくれた指先ではない。白く、細く、丁寧に手入れされた、アヤの指。その薬指には、鈍い光を放つ銀の指輪が嵌められていた。
「アヤ。またボーッとして。何か面白い物語でも考えていたのかい?」
振り返ると、そこにはレンがいた。陽だまりの中に溶け込むような、穏やかな青年として微笑んでいる。
「レン……私……」
「サオリの話かい? またその空想をしていたんだね。君が書くその物語は、いつも少し悲しくて、寂しい。でも、もういいんだ。君は今、ここにいる。僕の隣に。本物の世界に」
彼は私の手を取り、唇を寄せた。その瞬間、私は絶叫しそうになった。
彼の唇が触れた場所から、私のサオリとしての意識が、猛烈な勢いで吸い出されていくのを感じたからだ。掃除機で空気を吸い出すように、私の30年間の記憶が、東京の景色が、木村さんの笑顔が、空へと消えていく。
「やめて……消さないで……サオリを消さないで……!」
私は心の中で叫んだ。だが、私の口から出たのは、別の言葉だった。
「……ええ、そうね。少し、長い夢を見ていただけみたい」
自分の声に、戦慄する。それは、私の意志とは無関係に、アヤという本体が発した言葉だった。
私の意識は、今や自分の体の中の、ほんの僅かな隙間に押し込められていた。操縦席を奪われ、後部座席で縛り付けられた乗客。それが、今の私――サオリだ。
自分が動いている。自分が笑っている。けれど、それを動かしているのは、私ではない。私を仮の器として作り出した、このアヤという存在なのだ。
アヤは、街の住人たちと親しげに挨拶を交わす。
「おはよう、アヤ。今日の語りは何にするんだい?」
「そうね、今日は『失われた鋼の街の寓話』をしようかしら」
鋼の街。それは、東京のことだ。アヤにとって、私の生きてきた世界は、ただの寓話に過ぎないのだ。
人々が鋼の箱に乗って運ばれ、情報の板を眺めて一日を終える。そんな奇妙で滑稽な物語。
私は内側から、アヤの視界を通して世界を見る。そこには、昨夜まで私がしがみついていたSNSの画面が、空中に半透明の幕のように揺らめいていた。だが、そこにあるのはサオリのアカウントではない。
夢里の語り部・アヤの公式ページ。フォロワーたちは、熱狂的に彼女の言葉を待ち望んでいる。
『アヤ様、お帰りなさい!』
『サオリという名の悪夢から、ようやく目醒められたのですね』
『あの薄汚い鋼の街の物語は、もういいです。私たちの、この美しい世界の続きを語ってください』
画面に並ぶ何万という「いいね」の光が、私の意識を焼き払おうとする。
私は、消えゆくサオリの記憶を必死に抱きしめた。
木村さん。安アパートの匂い。仕事の疲れ。それらは、アヤの完璧な幸福に比べれば、あまりにも惨めで、汚らわしい。けれど、それこそが、私の生だった。
「嫌よ……私は、あっちに帰るの……」
私はアヤの思考の隙間を縫って、必死に抵抗した。彼女がレンと微笑み合っているその一瞬、私はアヤの腕を、無理やり自分の意志で動かした。
傍らにあった、石造りの水飲み場の縁。そこに、アヤの美しい指を、渾身の力で叩きつける。
グシャッ、と嫌な音がした。指先から鮮血が飛び散る。
激痛。アヤが、驚きと痛みで短く悲鳴を上げた。
「アヤ! どうしたんだい!?」
レンが慌てて駆け寄る。私は、痛みに歪む視界の中で、勝利を確信した。痛みは、現実の証拠だ。この完璧な夢の世界に、私の現実の痛みを刻んでやった。
だが、アヤの指から流れた血は、石畳に落ちた瞬間、美しい紫色の花びらに変わった。そして、潰れたはずの指は、レンが優しく撫でただけで、一筋の傷跡も残さず再生した。
「……ダメだよ、アヤ。自分の体を傷つけるなんて」
レンの声は、優しかった。けれど、その瞳の奥には、逃げ場のない完成への執着が宿っていた。
「君はこの世界の中心なんだ。傷つくことも、汚れることも、許されない。サオリとしての君が持っていた痛みや絶望は、この世界には必要ないんだよ。
さあ、もう一度やり直そう。余計な記憶は、僕がすべて食べてあげるから」
彼は私の頭を優しく引き寄せ、額に口づけした。
サオリ。その名前を思い出すたびに、脳裏に走るノイズ。
私は誰だった? どこにいた? 何をしていた?
思い出せない。ただ、この目の前にいるレンという男を、死ぬほど愛しているということ。そして、私はこの夢里という街の語り部であるということ。それだけが、絶対的な事実として君臨していた。
私の、サオリとしての意識は、今や針の先ほどの大きさにまで縮小していた。私は、自分の体を借りて笑うアヤという女を、遠い暗闇の底から見上げることしかできない。
アヤは、レンの手を引いて歩き出す。ふと、道端に一枚の紙が落ちているのに気づいた。それは、私が机の上に見つけた、あのメモだった。
アヤはそれを拾い上げ、フッと小さく吹き飛ばした。紙は風に乗り、白く濁った空へと舞い上がっていく。
「『そろそろ戻ってきて』……か。ふふ。もう戻っているわよ、私は」
彼女の口角が、勝ち誇ったように吊り上がる。
それは、私の体を使って、私という存在を完全に簒奪した者の、残酷なまでに美しい笑みだった。
私は、その笑みを内側から眺めながら、自分が最後に抱えていた痛みさえも、甘美なお茶の味へと書き換えられていくのを感じていた。




