第三章:塗りつぶされていく輪郭
次に目を覚ました時、救いはどこにも訪れていなかった。
窓から差し込むのは、昨日までの東京の光ではない。磨りガラスを通したように白く濁り、部屋の輪郭を曖昧にぼかす、あの夢里の朝の光だった。
私は、自分が立て籠もっていたはずの場所で、いつの間にかベッドの中に胎児のように丸まって震えていた。
どれだけの時間、意識を失っていたのか。
昼間のあの騒乱のあと、私はアヤとしてここに横たえられ、この異界の朝を迎えるまで、ただの物言わぬ人形として管理されていたのだ。
強張った手の中には、唯一の生命線であるスマホが握りしめられていた。
私は、己の正気を繋ぎ止めるために、その冷たい板の表面に指を滑らせる。
画面の光の中に求めたのは、記録された過去――私がサオリとして生きてきた、揺るぎない証拠だった。
けれど、そこに広がっていたのは、私の記憶とは似ても似つかない、見知らぬ世界の断片だった。
そこにあったのは、冷酷なまでの全件修正だ。
写真の数々を、私は狂ったように繰る。
一年前、ミキと熱海の海へ行った時の写真があるはずだ。二人で安っぽい水着を着て、日焼けした肌を晒して笑い、帰りに駅弁を食べた、あの泥臭い、けれど確かな思い出。
しかし、画面に映し出されたのは、見たこともない銀色の海だった。蒼白な雲が流れるその空には、ありえないはずの二つの月が冷たく並んでいる。
私――いや、そこに写っているアヤという女は、今にも消えてしまいそうなほどに儚く、けれど神々しいまでの美しさを湛えていた。
「これ……じゃない。これは私じゃない……」
指が震え、スマホを床に落としそうになる。さらに過去へと遡る。
大学の卒業式、実家での誕生日、小学生の頃の運動会――。
指先が触れるたびに、画面の中の記憶が、私の知らない色調に染め変えられていく。
重厚な石造りの校舎。見たこともない祭礼の衣装。誕生日を祝うのは、和服の母ではなく、どこか異国の貴族のような服を纏った見知らぬ夫婦。
私が大切に抱えてきた思い出の一つ一つが、見知らぬアヤという女の華麗な年譜にすり替えられていた。
同時に、SNSのタイムラインが狂ったように更新される。
『[履歴修復] サオリ:1996-2026 のデータは破損しています。アヤ:0001- への移行を完了しました』
『[バグ報告] 脳内に残る「新宿」の残像は、一時的な読み込みエラーです。じきに消去されます』
『案内人がまもなく到着します。お茶の準備を』
私の脳裏にある、サオリとしての30年。新宿の雑踏の匂い、満員電車の息苦しさ、安アパートの湿った壁の感触。それらが、まるで質の悪い幻想小説でも読んだ後の残滓のように、急速にリアリティを失っていく。
耐えきれず、私は実家の母へ連絡を試みた。
母なら。私を産み、育てた母なら、私の本当の姿を覚えているはずだ。呼び出し音が、奇妙に間延びして響く。深海で鳴る鐘のような、くぐもった音。
『……もしもし、アヤ? 朝からどうしたの、そんなに慌てて』
母の声だった。私の知っている、穏やかで少しお節介な母の声。けれど、彼女が最初に口にした名は、やはりサオリではなかった。
「お母さん……お願い、嘘だって言って。私はサオリよ。街の景色も、写真も、全部おかしくなっちゃって……。私は、お母さんの娘のサオリでしょう?」
電話の向こうで、母は困ったように、けれどどこか楽しげに笑った。
『まあまあ、アヤ。またあのサオリごっこが始まったの? あなた、本当に昔からその空想が好きだったわよね。
時々、自分が遠い別の、鉄の塊が空を飛び、人々がせかせかと箱に閉じ込められて運ばれる奇妙な国に住んでいる別の人格だって言い張って、私たちを困らせて』
「サオリごっこ……?」
『そうよ。7歳の頃だったかしら。自分はスギナミクという街の小学校に通っているんだって泣きじゃくって。お父さんと2人でなだめるのが大変だったんだから。「大丈夫だよアヤ、君はこの夢里の愛しいお姫様だよ」って』
母の話す内容は、あまりにも理路整然としていた。昨日まで私が校正していた歴史小説『豊饒の箱庭』の中にあった里の姫の奇病という記述と、恐ろしいほどに合致している。
『あなたは夢里の聖母病院で、真っ白な産着に包まれて生まれたのよ。
……ああ、そうだ。レン君、昨日うちに来たわよ。あなたへの贈り物を預かっているから、近いうちに顔を出してね。
あんなに素敵な婚約者、大切にしなさいよ。彼も、あなたの病気を理解して、寄り添ってくれているんだから』
レン。あの男の名前。
母の声が鼓膜を震わせるたびに、私の頭の裏側で、別の映像が明滅し始めた。それは、私の意志とは無関係に、無理やり思い出の棚に押し込まれてくる、暴力的なまでに鮮明な光景。
陽だまりの中、私を抱きしめる長い指の男。
青い瓦屋根の店で、二人で飲んだ、少し苦くて甘い石畳のお茶の味。
「愛しているよ、アヤ」と囁く、その低い声の振動。
「あああぁぁぁ……!」
私はスマホを投げ出し、耳を塞いだ。
入ってくる。私の中に、別の私が流れ込んでくる。
サオリという人格を支えていた土台そのものが腐り落ち、その穴をアヤという完成された人格が埋めていく。私の体という器が、本来の持ち主を追い出そうとしている。
私は床に這いつくばり、自分の左手の手の甲を、爪が食い込むほど強く掻いた。
「私は……サオリよ……っ!」
痛みが走る。この不快な、焼けるような痛みだけは本物だ。昨夜、自分で刻んだ傷跡がそこにあるはずだった。
だが、恐ろしいことが起きた。
掻きむしり、血が滲んだはずの皮膚の傷跡が、見る間に塞がっていくのだ。まるで、この世界そのものがアヤの体に傷がつくことを重大なエラーとして拒絶し、瞬時に自動修復を加えているかのように。
「消さないで……サオリを……私を消さないで……!」
私は狂ったように自分の頬を叩いた。自分の髪を毟った。けれど、その痛みすら、次第に夢の中の出来事のように実感を失っていく。
私の脳が、私の感覚が、この世界の設定――アヤは幸福で、完璧であるべきだという鉄の規律に従い、苦痛を霧散させていく。
その時。
部屋のドアが、音もなく開いた。
隙間から滑り込んできたのは、ひんやりとした冷気。そこに混じっていたのは、熟しすぎて地面に腐り落ちた果実のような、甘ったるい花の匂いだった。どこか死の予感を孕んだ、夢里の香気。
革靴が床を叩く、穏やかで気品のある足音が近づいてくる。
「……やっと、ここまで近づいてきたね」
顔を上げると、そこには、あの彼が立っていた。夢の中でしか会えなかった男、レン。
逆光の中に佇むその姿は、彫刻のように美しく、そしてこの世の何よりも禍々しく完成されていた。彼は私の無残に荒れた部屋を見渡し、慈愛に満ちた、けれど底知れぬ空虚さを孕んだ瞳で私を見つめた。
「ひどい部屋だ。こんな無機質で、色のない狭間に、君を閉じ込めてしまっていたなんて。
辛かっただろう、アヤ? 自分が誰かも分からなくなるような、薄暗く湿った夢の中に、ずっと、たった一人でいたんだから」
「来ないで……!」
私は後退り、壁に背をつけた。その瞬間、背中に伝わった感触に凍りついた。
壁の感触。それは、昨日までの安っぽいビニールクロスではなかった。冷たく、重厚な、石の感触。
「あなたは誰……? 私はサオリよ。ここは東京の、私の部屋なの……!」
「サオリ、か」
彼は愛おしげに、そして酷く哀れむようにその名を口にした。
「それは君が、寂しさに耐えかねて作り出した、ただの仮の器だよ。アヤ。君はあちら側の世界――僕たちがいるこの美しい現実があまりに退屈だったから、ほんの少しのつもりで、この裏側の薄暗い隙間に意識を逃がしていただけなんだ」
彼はゆっくりと歩み寄ってくる。一歩、彼が踏み出すごとに、部屋の輪郭が物理的に崩壊していく。
本棚に並んでいた実用書や文庫本が、いつの間にか厚手の皮表紙の書物に変わる。
プラスチックのゴミ箱が、彫刻の施された銀の器に変わる。
私が現実だと思っていたものが、彼の存在そのものに押し潰され、ただの脆い幻影のように剥ぎ取られていく。
「嘘よ……私はここで生きてきた。毎日仕事をして、満員電車に揺られて、将来に不安を感じて……そんな風に、泥臭く生きてきたのよ!」
「それは全部、君が見ていた長い、長い夢だよ。悪い夢だ。
ほら、思い出してごらん。君が毎日校正していたあの本を。あれは君が、自分の居場所を忘れないために残した、僕たちの街の歴史なんだよ」
彼は私の目の前で跪き、私の震える手を取った。
その手のひらの熱。火傷しそうなほどの、圧倒的な現実感を伴った熱。それに比べれば、私が今まで触れてきた東京の空気や、人々の体温、それどころか自分の呼吸さえも、いかにも頼りなく、透き通った幻影のようだった。
「さあ、思い出して。君の本当の人生を。君の本当の居場所を。もう、あんな寂しい一人芝居は続けなくていいんだよ。
あの青い屋根の店へ帰ろう。君の席も、君の明日も、すべてはあの時のまま、そこにあるんだから」
彼の指が、私の頬を優しく撫でた。その指先が触れた箇所から、私の中にアヤの記憶が奔流となって流れ込んできた。
サオリとしての30年を、瞬時にして飲み込むほどの、巨大なアヤとしての時間。
この男――レンと交わした、数え切れないほどの睦言。
石畳を歩く足の裏の重み。
真鍮の鈴が鳴る、耳をくすぐる音。
夕暮れの空が白く濁る、あの美しい夢里の光。
それらは、私がサオリとして持っていた記憶よりも、遥かに鮮明で、遥かに重く、遥かに真実の体温を宿していた。
「……あ」
私の内側で、何かが音を立てて千切れた。サオリという貧相な人格を支えていた、細く、必死に縋りついていた一本の糸。それがぷつりと切れた瞬間、私は意識の深淵へと沈み、代わりに、底の方でずっと眠っていた私が、大きく目を見開いた。
「……レン……?」
私の口から、鈴の音のような響きが漏れた。それはサオリの声ではなく、紛れもなく、あの夢の中にいたアヤの声だった。
彼は顔を輝かせ、私を強く、壊れそうなほどに抱きしめた。
「そうだよ、アヤ。やっと戻ってきたね。君がいない間、世界は本当に止まってしまったかのようだった。さあ、もう一度始めよう。僕たちの、本当の日常を」
彼の胸の中で、私は視界が滲むのを感じた。腕の中に感じる彼の心音は、世界の心臓そのものだった。
それに対して、私が今まで守ろうとしていたサオリの現実は、なんて空虚で、色彩のない、惨めな幻だったのだろう。あんな場所で、私は何を求めて生きていたのだろうか。
ふと、彼の肩越しに、今まさに消え去ろうとしているかつての部屋の隅を見た。
そこには、昨夜まで私がしがみついていた、出版社からの校正原稿が落ちていた。サオリが自分の存在意義だと思っていた、仕事の証。
だが、その紙に書かれた文字は、いつの間にか意味をなさない黒いシミに変わり、そのまま灰のように崩れ、最初から存在しなかったことになっていく。
「……帰りましょう。私たちの、あの場所へ」
私は自分でも驚くほど、幸福に満ちた声でそう言った。サオリとしての記憶は、まだ頭の隅で燻っているが、それはもはや、起きた後にすぐに忘れてしまう、たわいもない悪夢のようなものに過ぎなかった。
レンは満足そうに頷き、私の手を引いて立ち上がらせた。
アパートのドアの向こう側。そこにはもう、排気ガスに塗れた東京の街並みはなかった。
白く濁った、永遠に沈まないような陽光が降り注ぐ、あの美しい、死の匂いのする坂道が、どこまでも、どこまでも続いていた。
私は一歩、踏み出す。足裏に伝わる、確かな石畳の感触。それは、どんな言葉よりも強く、私がアヤであることを祝福していた。
サオリという女が最後に見た景色は、部屋の隅で粉々になった、百円均一の目覚まし時計の残骸だった。その秒針は、二度と動くことはない。
時間という概念さえも、ここには必要ないのだから。




