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あなたの足元は、まだアスファルトですか?――幸福な悪夢夢里(むり)への招待状  作者: 都桜ゆう


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第二章:剥離する現実

 鏡の中のアヤと目が合ったあの夜から、私の世界は決定的に変質してしまった。

 朝、泥のような眠りから這い出しても、そこには爽快な目覚めなどない。ただ、自分の皮膚が、自分のものではない別の何かにじわじわと張り替えられているような、不快な違和感だけが残る。

 指の長さが数ミリ伸びたような、あるいは自分の瞳の色が少しだけ薄くなったような感覚。鏡を見るたびに、その違和感は確信へと変わり、静かな恐怖が心臓を浸食していく。


 私は震える手で、あの日、激しく掻きむしった左手の手の甲をなぞった。

 数日が過ぎ、本来なら癒えていてもおかしくないはずなのに、赤紫色の傷跡はあの夜のまま、恐ろしいほど鮮烈に刻まれている。

 この生々しい引っかき傷だけが、完璧に書き換えられていく世界において、鏡の中のアヤと私を繋ぎ止めている唯一の不純物だった。


「痛い……」


 声に出すと、少しだけ安心した。この痛みがある限り、私はまだサオリでいられる。

 私はその傷を隠すように厚いファンデーションを塗り潰し、その上からさらに、大きめの絆創膏を隙間なく貼り付けた。

 手首まである長袖の袖口を、まるであの忌々しい印を外界から遮断するように、何度も深く引き下げて整える。そうでもしなければ、自分という存在が指先から霧のように霧散してしまいそうだったからだ。


 私は逃げるように家を出た。電車の窓に映る自分の顔を直視できぬまま、逃げ隠れるようにして会社へと向かう。

 職場の重い扉を開ければ、この悪夢のような感覚から解放されると信じていた。だが、一歩足を踏み入れた瞬間に私は立ち竦む。


 見慣れたはずのオフィスが、まるで現像に失敗した写真のように、どこか不自然な色調を帯びていた。蛍光灯の光は磨りガラスを通したように白く濁り、空気には、あの甘ったるくも腐敗を予感させる花の匂いが、微かに、けれど確実に入り混じっていた。


 その違和感の正体を確かめる間もなく、一人の女性が私のデスクに近づいてくる。

 大学時代からの親友であり、今は同じ編集会社で働くミキだ。

 彼女は本来、竹を割ったような性格で、声が大きく、少しがさつなところがある。それが彼女の良さであり、私の知っている、何より信頼できるミキという人間の本質だった。


「おはよ、サオリ。今日の空気、なんだか少し湿ってて嫌ね。まるで、古い蔵の中に閉じ込められているみたい」


 彼女が椅子を引いて座る。その動作があまりにも静かで、水面を滑るような優雅さだった。

 私は、手に持っていたマグカップを落としそうになった。

 ミキは、自分の長い髪の毛先を指でくるくると弄びながら、少し小首を傾げて微笑んでいる。その仕草。その、視線を少し斜め下に落としてから伏せ目がちに笑う、どこか湿度を帯びた、この世のすべてを諦めたような癖。


「……ミキ、あんた、なんだか……雰囲気が、違う」


「そう? どこが?」


 ミキが小首を傾げ、指先で髪をゆっくりと梳き下ろした。

 その瞬間、鼻腔の奥にあの匂いが走った。夢の中で漂っていた、熟しすぎた果実が腐り落ちたような、あの死の匂い。


「いや、あんた……そんな風に髪を弄る癖なんてなかったじゃない。いつも邪魔だって、無造作に結んでたのに。それに、その笑い方……」


 私の知っているミキは、髪が顔にかかれば鬱陶しそうにかき上げ、「ガハハ」と豪快に笑い飛ばす女だったはずだ。

 けれど、今の彼女が纏っているのは、あの夢の世界に満ちていた、白く濁った光のような静けさだった。


 ミキは一瞬、きょとんとした顔をした。

 けれどその困惑は、一拍置いて、上から別の色で塗り潰されるように消えていく。

 代わって現れたのは、陶器のように滑らかで、一切の(よど)みがない完璧な笑み。それは、あの夢の世界の住人たちだけが浮かべていた、血の通わない美しさそのものだった。


「そうだったかしら。ずっとこうしてた気がするわよ。

 それより、サオリ。今夜、あの『星の降る丘』に食事に行かない? ほら、いつものあのお店よ。あなたが大好きだった、山羊のチーズを出すところ」


 心臓がどくん、と跳ねた。

 星の降る丘。山羊のチーズ。

 そんな場所、東京のどこにもない。けれど、私はその場所を知っている。

 昨日、校正していた歴史小説『豊饒の箱庭』の記述だ。夢里の領主が、愛する女のために築いたとされる、天空に近い広場の名前。


「……ミキ、そこって、どこにあるの? 私たち、一度もそんな場所に行ったことないわよね?」


「何言ってるのよ。ほら、昨日も話したじゃない。新宿にある、あの青い瓦屋根のお店。結局、今日はそこに行くことにしたんでしょう?」


 ミキは事も無げに言った。けれど、その言葉は私の記憶と真っ向から衝突する。


「……昨日? 昨日、そんな話してないわよ。それに、あそこはただの空き店舗だったじゃない」


「何言ってるの、サオリ。あそこは……」


 ミキは一瞬、言葉を詰まらせた。その瞳が、まるで古いフィルムが焦げるように、不自然に、チカチカと明滅する。


「あそこは、昨日もあんなに賑わっていたじゃない。私たちがいつも行く、あのお店よ。ねえ、サオリ。変なバグは早く修正しなさいよ」


 バグ。

 彼女の口から出た不自然な単語に、総毛立った。

 ミキの表情に嘘はない。彼女の瞳には、捏造されたはずの親友としての思い出が、本物の記憶として宿っていた。


冷や汗が背中を伝う。

 私は逃げるように自分の席に戻り、震える指でデスクの上のゲラを開いた。

 『豊饒の箱庭』。そこに記された夢里の歴史。

 文字を追う。そこには、驚くべき一文が書き加えられていた。


「……里の女ミキは、アヤを支える忠実な従者であり、その所作は水面の如く静かであったという。彼女はアヤの好む山羊のチーズを常に用意し……」


「書き換わってる……」


 昨日、私が読んだ時には、ミキなんて名前はどこにもなかったはずだ。

 私の周囲の人間が、この物語の登場人物として、リアルタイムで配役され、書き換えられている。

 私はスマホでSNSを開いた。現実を確かめたかった。変わらない日常がそこにあることを、誰かの無意味な言葉で証明してほしかった。

 しかし、画面に並ぶ文字群は、もはや私の知る現実を映してはいなかった。


『[自動修正] 渋谷スクランブル交差点は、本日より「中央広場」に名称変更されました』

『[バグ報告] まだ「コンビニ」という概念を保持している個体がいます。速やかに上書きしてください』

『夢里での銀髪事件、犯人はまだ捕まっていないらしい。夜道の散歩は気をつけよう』

『空が白く濁ってきた。もうすぐ、あのお迎えが来る時間かな。アヤが戻れば、すべてが整うのに』


 知らない事件。知らない習慣。

 それらが、あたかも周知の事実であるかのように、何万人ものつぶやきの中に混じっている。

 さらに恐ろしいことに、投稿に添えられた写真には、新宿のビル群の合間に、夢で見た木造の時計塔がノイズのように紛れ込んでいた。現実の景色が、デジタルのバグのように、夢の景色に置換されているのだ。


「……侵食されてる」


 私は、震える指でスマホを握りしめた。

 昨日までそこにあったはずの、私の知る日常が、猛烈な勢いで未知の現実へと塗り潰されていく。

 ゲラの文字が変わり、SNSのつぶやきが変わり、今この瞬間、窓の外の景色までもが私を置いてきぼりにして、全く別の記憶を持つ世界へと変貌を遂げている。


 この世界において、正しいのは私ではない。

 今この瞬間も、何食わぬ顔でデスクに向かい、改ざんされた後の現実を正しい日常として謳歌しているこの職場の連中や、SNSの群衆の方なのだ。

 だとしたら、昨日までの記憶を持ち、存在しないはずの傷を抱えている私は――。


この新しい世界という、一分の隙もない物語に紛れ込んだ、忌まわしい異物そのものではないか。

――けれど、認められるわけがなかった。

どこかに、まだ私の知る現実が残っているのではないか。この侵食を食い止め、元に戻す方法があるのではないか。

 そんな浅ましい期待を胸に、私は震える手で何度も画面を更新し、周囲の様子をうかがい続けた。

 だが、その考えは、昼休みを過ぎる頃には無惨に打ち砕かれることになる。


 昼食を摂るため、会社の入っているビルの下へ降りた時のことだ。

 いつも通っているはずの、見慣れた大手チェーンのコンビニエンスストアが、跡形もなく消えていた。


 看板は、深い緑色に金文字で太陽の光と書かれたお茶専門店に変わり、ショーウィンドウに並んでいる商品は、見たこともない色とりどりの薬液が詰まった小瓶や、乾燥した未知の花ばかり。

 店員も、客も、誰もそれを不自然だとは思っていない。昨日までそこにあった、電飾の眩しいコンビニの記憶を、彼らは最初から持っていないのだ。


「おかしい。おかしいよ、これ……」


 私は街へ飛び出した。

 走れば走るほど、街は夢の形へと収束していく。

 近代的なコンクリートのビルが、いつの間にか重厚な石造りの建物に、その表面を紫色の苔が這い、窓枠は真鍮で縁取られている。

 黒いアスファルトが、私の足音を弾ませる丸い石畳に。

 街ゆく人々の服装さえも、Tシャツやスーツといった機能的な装いではなく、どこか古風でゆったりとした、亜麻色の衣類や刺繍の施された外套に変わっていく。


 塗り替えているのではない。

 もともとそうだったという歴史が、今この瞬間に、私の周囲で、音もなく、凄まじい速度で再構築されているのだ。

 ふと、一人の女性と肩がぶつかった。


「あ、ごめんなさい……」


 謝りかけて、息が止まった。

 その女性は、私が大学生時代に心から尊敬し、卒業後も時折連絡を取り合っていた、恩師の佐藤先生だった。先生は、私の顔を見て、慈愛に満ちた瞳で優しく微笑んだ。


「まあ、アヤじゃない。久しぶりね。元気にしてた?」


「先生……私です、サオリです。卒業式の時に、先生が贈ってくれた……あの、古い詩集のこと、覚えていますか?」


「サオリ? ……何を言っているの、アヤ。寝ぼけているのかしら。

 卒業式の日に、私からあなたに贈ったのは、この里の祈祷に使われる古い儀典の写しでしょう? あんなに喜んで、一生の宝物にするって言っていたじゃない」


 先生の記憶さえも、私の知らないアヤの歴史に書き換えられていた。

 先生は困ったように笑い、私の肩に手を置いた。優しく、けれど逃がさないように指先に力を込めて、強く。


「あなたは昔からそうね。時々、自分が別の誰かであるような物語を空想しては、私たちを驚かせて。

 ……でも、もうそんな遊びは終わり。みんな待っているわよ。あなたが本当の自分に戻るのを」


 肩に置かれた先生の手のひらから、ドクドクと不気味な拍動が伝わってくる。

 それは、皮膚を透かして直接心臓を掴まれているような悍ましさで、あの夢の男と同じ、火傷しそうなほど不自然な熱を帯びていた。

 私は悲鳴を飲み込み、その熱に弾かれるように先生の手を振り払って走り出した。

 後ろから、先生の穏やかな、けれど感情の欠落した声が、粘りつくように追いかけてくる。


「逃げなくていいのよ、アヤ。サオリなんていう名前、どこを探しても見つからないわよ。だって、それは最初から存在しない誤字なんだから」


 私は必死に走り、自分のアパート――唯一の聖域だと思っていた場所――に逃げ帰った。

 幾重にも鍵を閉め、ドアに背中を預けて座り込む。

 呼吸を整え、部屋の中を見渡す。

 絶望が、そこにあった。


 そこには、私が昨日まで使っていたパソコンも、テレビも、プラスチックの家電も、何一つなかった。

 代わりに置いてあるのは、真鍮のランプ、木製の頑丈な机、そして、羊皮紙のような質感の紙が束ねられた一冊の大きなファイル。


 震える手で、そのファイルを開く。

 そこには、私の文字に似ているが、より力強く整った書き癖で、恐ろしい記述が並んでいた。


氏名:アヤ

職業:夢里の記録官

特記事項:幼少期よりサオリという架空の異世界の人格を夢想する精神疾患あり。現在は快方に向かっている。彼女の体に残る傷跡は、その狂気の最後の残滓である。


「違う……違う! 私はサオリよ!」


 私は叫び、ファイルを床に投げ捨てた。

 ふと、手の甲の痛みが強くなった。

 長袖を捲り上げると、ファンデーションの下から、あの傷跡が赤黒く、まるで拒絶反応を起こす不純物のように腫れ上がっていた。

 この痛み。これだけが、書き換え不可能なサオリの証。


 だが、その歪んだ意識の隙間に、スマートフォンの通知音が突き刺さる。

 画面には、流れてくる言葉の端々に、私のアパートの住所と、今の私の惨めな姿が、まるで生け贄を観察するように実況されていた。


『アヤが、また発作を起こしているみたいだ』

『[位置情報共有] 彼女の部屋の前に到着。みんな、お祝いの準備はいい?』

『可哀想に。早く完全な記憶で上書きしてあげないと、彼女が壊れてしまう』


 建物の外で、ざわめきが聞こえる。

 それは、優しくて、慈愛に満ちた、恐ろしい隣人たちの足音だった。

 石畳を叩く、何百もの靴の音。

 彼らは私を助けに来る。私をアヤにするために。私から、サオリという記憶の一片すら残さず剥ぎ取るために。


 私はベッドに潜り込み、耳を塞いだ。

 けれど、頭の中で、あの男の声が、今までで一番はっきりと響く。


『ねえ、アヤ。もういいんだよ。あの暗くて狭い世界に、無理に留まる必要はないんだ。……ほら、お茶を淹れたよ。いつもの場所で、待っているからね』


 壁が、床が、私の指先が。

 現実という皮が、パリパリと音を立てて剥がれ落ちていく。

 剥がれた皮の下から覗くのは、紫色の苔。


 私は、自分の手の甲の傷跡を、狂ったように爪で立て直した。

 肉を裂き、鮮血が飛び散る。

 熱い痛みだけが、私をこの美しい地獄に引き留めてくれる唯一の錨だった。

 私が消えてしまわないための、最後の一線だった。

 だが、その悲鳴のような抗いさえ、無慈悲な金属音によって掻き消される。


 カチャリ、と。

 立て籠もっていたドアの鍵が、外からゆっくりと回る音がした。

ゆっくりと開いた扉の隙間から、あの不自然な熱を孕んだ空気が流れ込み、私の意識を白く塗り潰していった。


 ――やめて、私はアヤじゃない。サオリなの。


 必死の抵抗も虚しく、私の体は強引に抑え込まれる。あの火傷しそうな熱い手が、私の額を、首筋を、逃がさないように覆った。

 やがて、逃げ場のない密室内で、意識は重たい泥の中へと沈められていった。


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