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あなたの足元は、まだアスファルトですか?――幸福な悪夢夢里(むり)への招待状  作者: 都桜ゆう


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第1章:夢里(むり)への案内人

 その夢は、いつも同じ場所、同じ温度、同じ匂いから始まる。

 空は高く、どこまでも透き通っているが、太陽の光は磨りガラスを通したように白く濁っている。空気には、熟しすぎた果実が地面で潰れたような、甘ったるくもどこか腐敗を予感させる花の匂いが混じっていた。

 私は、その街の緩やかな坂道を歩いている。

 足元には、年月を経て角の取れた丸い石畳。その隙間からは、血管のように脈打つ紫色の苔が這い出し、私の歩みに合わせて小さく震えている。


「ねえ、アヤ。今日は少し歩くのが早いね」


 隣を歩く男が、私の手を取った。

 彼の指は驚くほど長く、そして火傷しそうなほどに熱い。その熱は私の掌から腕を伝い、心臓の奥深くまで浸透してくる。

 私は彼の顔を見上げる。名前は知らない。少なくとも、目覚めている時の私は彼の名を知らない。けれど、この世界にいる私は、彼の声の響きひとつで、彼が何を考え、何を求めているのかをすべて理解できた。


「ごめんなさい。この風が気持ちよくて、つい」


 自分の口から出た声に、私は驚く。それは、現実の私が持っている低く沈んだ声ではなく、鈴の音のように軽やかで、どこか幼さを残した響きだった。

 彼は満足そうに目を細め、私の指を絡め直す。


「いいんだ。君が楽しそうなら、僕も嬉しい。

 ……ああ、そうだ。次はあの角の店で、いつものお茶を飲もうか」


 彼は坂の上の、青い瓦屋根が見える建物を指差した。

 私は微笑み、彼に寄り添う。この世界こそが私の居場所であり、この男こそが私の半身である。その確信は、血の流れと同じくらい自然に私の中に流れていた。


 ――そこで、世界が裂ける。


 重い瞼を押し上げると、視界に入ってきたのは煤けた天井の染みだった。

 6畳1間の賃貸アパート。湿った布団の感触。窓の外からは、朝の通勤を急ぐ車のタイヤがアスファルトを削る不快な音が聞こえてくる。


「……はぁ」


 肺の奥に溜まった澱んだ空気を吐き出す。

 私の名前はサオリだ。都内の小さな出版社で、地味な校正の仕事をしている。誰かが書いた物語の誤字を探し、句読点の位置に悩み、事実関係を洗う。他人の人生を整えるだけの、無味乾燥な毎日。それが、私の現実という名の牢獄だった。


 枕元に放り出していたスマホを手に取る。SNSを確認するのが、呪われた朝のルーティンだ。

 画面を叩くと、液晶の無機質な光が網膜を刺すように痛んだ。

 流れてくるのは、見知らぬ他人の幸福な食事の報告や、政治に対する匿名の罵詈雑言。

 しかし、今朝のタイムラインはどこか様子が違った。


『昨日の夜、空が██████。すごく綺麗だった』

『[エラー] 昨日の夕飯は、紫色の苔の……』

『01:00:15:アヤ、アヤ、アヤ、アヤ、アヤ、アヤ』


 スクロールする指が止まる。文字化けした投稿や、意味をなさない文字列の羅列。

 ただのシステムエラーか、それとも誰かの悪質な悪戯か。

 けれど、そのバグのような言葉の中に混じるアヤという文字列に、心臓が嫌な跳ね方をした。


「……アヤ」


 自分の口から、夢の中の名前が漏れた。サオリという名前に比べ、アヤという響きの方がずっと、自分の魂に馴染んでいるような気がした。

 けれど、世界は残酷に、私にサオリであることを強要してくる。這い出すようにしてベッドを降り、冷めた洗面台の前に立った。


 鏡の中の女は、夢の中の瑞々しいアヤに比べて、ひどく色褪せて見えた。私はファンデーションを厚めに塗り、隈を隠し、作り物のサオリを完成させていく。


 その日の午前中、昼休憩まであと少しという時刻。私は職場のデスクで、ある歴史小説のゲラ(校正刷り)と向き合っていた。

 タイトルは『豊饒の箱庭』。戦国時代末期、ある地方の領主が理想郷を目指して築いたとされる幻の隠れ里、夢里(むり)に関する記述を追っていた。


「……其の里の石畳は丸く、紫の苔が生い茂り、民は皆、陽光の下で腐敗した果実の香る茶を啜りて、永劫の安らぎを得たという。されど、その平穏は一滴の不純物によって……」


 ペンを持つ手が震えた。

 丸い石畳。紫の苔。腐敗した果実の匂い。

 これは、私が毎晩見ている夢そのものではないか。

 校正者として、私はこの記述の出典を洗わなければならない。しかし、手元の資料のどこにも夢里なんて地名は存在しなかった。著者の創作か、あるいは忘れ去られた異説か。


「サオリさん、顔色が悪いわよ。大丈夫?」


 声をかけてきたのは、向かいの席の木村さんだった。彼女は30代後半で、いつも少し疲れたような、けれど穏やかな笑みを浮かべている。


「……いえ、少し寝不足なだけで。木村さん、この夢里っていう地名、聞いたことありますか?」


 木村さんは小首を傾げた。


「さあ、聞いたことないわね。でも、なんだか素敵な名前じゃない。夢の里、か。もし本当にあるなら、行ってみたいわね」


 彼女の屈託のない言葉に、私は曖昧に頷くことしかできなかった。

その時、デスクの上でスマホが短く震えた。SNSの通知だ。

 無意識に画面を覗き込むと、見知らぬアカウントから一通のリプライが届いていた。


『[バグ修正] 頁54、12行目。不純物は、まだ混じっていない。』


 意味の分からない文字列だ。

 不純物? バグ? 困惑しながらも、私はその奇妙なリプライを送ってきた主――アヤという名前を無意識に検索欄に打ち込んでいた。


 胃の底が、すとんと冷たくなる。

 検索結果に表示された画面の中では、得体の知れないアヤという存在を称える数多の言葉が、今この瞬間も絶え間なく流れ続けている。


『アヤ様、更新ありがとうございます!』

『救われました。アヤ様の言葉だけが、この世界の真実です』

『アヤ様こそが、私たちの望んだ唯一の語り部』


 その熱狂的なうねりに当てられ、指先から急速に体温が奪われていく。逃げるようにスマホから視線を外すと、目の前にはチェック中の校正刷りが広げられていた。


 ――頁54、12行目。


 先ほどのリプライに記されていた不気味な数字が、呪文のように脳裏にこびりついて離れない。私は吸い寄せられるように、今まさに読んでいた原稿の54ページ目、その12行目を指でなぞった。


『――かつてサオリという名の不要な下書きがあった。だが、その書き損じは、アヤという完璧な真実によって正しく校正されたのだ』


 心臓が、嫌な音を立てて跳ねた。

 私という存在を、まるで書き損じのゴミのように扱う言葉が、現実に仕事で扱っている原稿の中に紛れ込んでいる。スマホを握る手が小刻みに震えだした。

 

 私は狂ったように、先ほどのリプライの発信元をもう一度表示しようとした。だが、何度タップしても、画面は非情な白さを返すだけだった。


『404 Not Found』


 それは、私のこれまでの人生そのものが、最初から存在しなかったのだと告げられているような拒絶だった。


「サオリさん?」


 唐突に降ってきた声に、心臓が跳ねた。

 顔を上げると、そこにはいつものように穏やかな微笑を浮かべた木村さんが立っていた。彼女の瞳は、私の焦燥など一塵も映していない。


「今日のランチ、たまには外に出ない? 隣の駅の方に、最近古い商店街を再開発したエリアがあるんだけど、そこに気になるお店があるのよ」


 現実へと引き戻そうとする彼女の誘いに、私は逃げるように頷いた。

 スマホをポケットにねじ込む。

 液晶の熱が太ももに伝わってくるが、それは生温かい何かの死骸のように不快だった。

 この場所から、自分という存在が希薄になっていくこの文字の海から、一刻も早く離れたかった。


 頷きはしたものの、立ち上がるまでに数秒の時間を要した。

 デスクの上に広げられた校正刷りの紙が、さっきまでとは違う色に見えた。赤ペンで入れた修正の跡が、まるで紙の上を這い回るミミズのような、禍々しい生気を帯びているように感じられたのだ。

 私が今まで信じてきた言葉というものの確からしさが、ガラガラと崩れていく。


 デスクの隅に置かれた、飲みかけのペットボトルの水。

 隣の席の同僚が叩く、キーボードの規則正しい打鍵音。

 天井の蛍光灯が発する、微かなジーという羽音。

 

 そのすべてが、どこか遠い。

 私はふらつく足取りで、木村さんの背中を追って席を立った。

 オフィスのカーペットを歩く自分の足音が、妙に響く。まるで中身の空っぽな木箱の上を歩いているような、頼りない感触。


 エレベーターホールに向かう廊下で、私は壁に貼られた社内報のポスターに目を止めた。そこには、先月のMVPとして知らない女性の写真が載っていた。

 ――いや、違う。先月までは、確かに別の人が載っていたはずだ。

 だが、その写真の女性の顔は、驚くほど整っていて、まるでAIが生成した理想の容姿のように欠点がなかった。


「サオリさん、早く。エレベーターが来ちゃうわ」


 木村さんに促され、私は逃げるようにエレベーターに乗り込んだ。

 下降する際の浮遊感が、胃をさらに締め付ける。

 鏡張りのエレベーターの壁に、自分の姿が映った。

 地味なベージュのカーディガン、手入れの届いていない髪。

 けれど、その私の影が、一瞬だけ揺らいだ。

 鏡の中の私の瞳が、ほんのわずかだけ、現実の私よりも深い紫色を帯びたような気がしたのだ。


 私は強く目を閉じ、それから再び開いた。

 そこに映っているのは、相変わらず冴えないサオリのままだった。

 気のせいだ。疲れているだけだ。私は自分に言い聞かせた。


 会社を出ると、外は驚くほど白く濁った陽光に満ちていた。

 五月の風は爽やかであるはずなのに、肌に触れる空気は妙に粘り気があり、湿った温かさを持っている。木村さんの後をついて駅のホームへ向かう。

 アスファルトに反射する光が強すぎて、視界が白く飛びそうになる。

 新宿の喧騒は、いつも通りのはずだった。けれど、周囲を歩く人々の話し声が、私には文章として聞こえ始めていた。


『……というわけで、昨日のドラマは……』

『……今度のプロジェクトは成功させないと……』


 聞こえてくるすべての会話に、見えない校正記号が重なって見える。

 現実そのものが、誰かに書かれた下書きのように思えて、私は吐き気を覚えた。


 電車に乗り込み、一駅揺られる。

 ガタン、ゴトンという振動さえも、どこか遠い世界の音のように感じられた。車窓から見える景色は、見慣れた東京のビル群のはずなのに、光の加減のせいか、すべての輪郭がぼやけて、水彩画のように溶け始めている。

 やがて、アナウンスが流れた。


「次は、御里(みさと)。御里に停まります」


 降り立った駅のホームは、以前の面影を全く残していなかった。

 古いタイルは剥がされ、代わりに滑らかで光沢のある、真珠のような白い石材が敷き詰められている。埃っぽかった駅舎の匂いは消え、代わりに熟しすぎた果実のような、むせ返るような花の香りが漂っていた。


 駅を出て、木村さんの後をついて歩く。

 再開発されたばかりの街並みは清潔で、どこか作り物めいた明るさに満ちていた。けれど、角を曲がり、入り組んだ路地へと足を踏み入れた瞬間、風景の彩度が一段階落ちたような気がした。


 知らないはずの道の先、視界の端に映る景色の輪郭が、私の記憶と不気味に重なり始める。

 新しい看板の裏側、ビルの隙間に覗く古い煉瓦。それらが、脳内の地図とジグソーパズルのように噛み合っていく。


「……あ」


 思わず声が漏れた。

 商店街の脇に逸れる、細い坂道。

 そこには、夢の中で何度も踏みしめた、あの丸い石畳があった。

 現実の石畳に紫色の苔は生えていない。けれど、石の配置、角の削れ方、その隙間に詰まった黒い土。それらが、私の記憶にある景色と、恐ろしいほどの精度で一致している。


「サオリさん、どうかしたの?」


「……木村さん、この坂道、この先に何があるか分かりますか?」


「え? たしか、行き止まりか、古い住宅街だったと思うけど……。私もしっかり歩くのは初めてなのよ」


 木村さんの言葉は、もう私の耳には届かなかった。

 知らないはずの場所。初めて歩くはずの道。それなのに、次に何が見えるのかを、私の細胞が、脳髄が、恐ろしいほど明確に予見している。

 左手に現れたのは、古い煉瓦の壁。

 夢の中ではその壁に美しい蔦が這っていたが、現実の壁は落書きで汚され、ひび割れている。けれど、そのひびの形さえ、私の記憶と重なり合っていく。


 坂が緩やかになった角。

 そこには、一軒の小さな建物があった。

 青い、色褪せた瓦屋根。

 夢の中で、あの男が指差した店。


「……嘘でしょ」


 そこは、既に廃業したらしい古いパン屋だった。

 シャッターは下ろされ、入り口には貸物件の張り紙。けれど、軒先には、夢の中で見たのと全く同じ形の、真鍮の鈴が吊るされていた。

 風もないのに、その鈴がチリン、と小さく鳴った。


「サオリさん! 突然走り出すからびっくりしたわよ」


 追いついてきた木村さんが、肩で息をしながら私の隣に立った。彼女は目の前の廃屋を見て、不思議そうに首を傾げる。


「あら、ここ。なんだか不思議な雰囲気のお店ね。昔はパン屋さんだったのかしら。……なんだか、懐かしい匂いがするわね」


 懐かしい匂い。熟しすぎた果実。

 木村さんまでが、この狂気の影響を受け始めているのか。


「……木村さん、私、ここを知っています。夢で、何度も」


 木村さんは少し驚いたような顔をしたが、すぐに優しく微笑んだ。


「ああ、既視感デジャヴっていうやつね。よくあるわよ、脳が勘違いしちゃうの。

 さあ、お腹空いちゃった。お昼にしましょう」


 私たちは結局、そのパン屋の隣にある、小綺麗な定食屋に入ることにした。

 店内は清潔で、どこにでもある平和で退屈な日常の光景だ。

 出された冷たい麦茶を飲み、私は少しずつ呼吸を整えていった。

 そうだ、木村さんの言う通りだ。私は最近、仕事のストレスであの夢に執着しすぎていた。だから、脳が勝手に現実の風景を夢に結びつけてしまっただけだ。

 そう自分を納得させようと、目の前の鮭の塩焼きを機械的に口に運ぶ。


 しかし、一口食べた瞬間、私は喉を詰まらせそうになった。

 ポケットの中で太ももを焼いていたあの不気味なスマホの熱が、そのまま口の中にまで染み出してきたような気がしたのだ。

 美味しいはずの料理は砂を噛んでいるような無味乾燥な感触に変わり、熱にうなされたような鉄の生臭さが、喉の奥からせり上がってくる。

 私はたまらず、手元の冷えたお茶を流し込んだ。


「……っ、げほっ、げほっ!」


「大丈夫? 急いで食べなくてもいいわよ」


 木村さんが背中を擦ってくれる。その手の温度が、異常に高かった。

 夢の中のあの男と同じように。


 ふと視線を上げると、店内のテレビがニュースを報じていた。

 しかし、音声と字幕が噛み合っていない。

 アナウンサーは笑顔で本日の天気を伝えているが、画面下のテロップにはこう流れていた。


『[通知] 案内人は現れた。不純物は排除される。夢里への道順は以下の通り……』


 周囲の客は誰も気づいていない。皆、楽しそうに談笑し、箸を動かしている。

 震える手でポケットからスマホを取り出す。

 私はSNSの検索窓に、呪文のようにその地名を打ち込んだ。


『夢里』


 検索結果が表示される。

 表示されたのは、たった一つの投稿だった。


『夢里の入り口を見つけた。案内人は、もうすぐこっち側に来る』


 写真は、先ほど私たちがその前を通り過ぎた青い屋根の店を、少し離れた坂道から俯瞰で撮ったものだ。

 私はその写真を拡大した。

 パン屋の窓ガラスに、撮影者の姿が微かに映り込んでいる。

 背が高く、長い指を持ち、顔は光で潰れて見えない男。

 そして、その隣には、私と同じ格好をした、けれど顔がノイズで塗りつぶされた女が立っていた。


「ねえ、サオリさん」


 木村さんの声が、すぐ耳元で聞こえた。

 いつの間にか、彼女は私の隣に座っていた。


「次はあの角の店で、いつものお茶を飲もうか」


 血の気が引いた。

 言葉の抑揚、息を継ぐタイミング。それは今朝、夢の中であの彼が私に言った言葉と、完全に一致していた。


「……木村さん、今、なんて言いました?」


「え? だから、あそこのカフェでコーヒーでもどうかって」


 木村さんは確かに、短く「あそこのカフェでコーヒーでも」と言ったのだ。けれど、私の耳に届いたのは「あの角の店で、いつものお茶を飲もうか」という、もっと長くて、もっと重みのある一文だった。


 彼女の口の動きは、今の短い返答に合わせて終わっている。それなのに、私の脳内では彼女の動きを無視して、あの彼の声が残響のように鳴り止まない。口の形と、響いてくる言葉の長さが、残酷なほどに食い違っていた。

 現実が、誰かの手によってリアルタイムで校正されている。

 誤字を正すように、私の知る現実が、あの夢の形へと書き換えられているのだ。

 その思考に囚われ、身動きが取れなくなっていた私の肩を、不意に木村さんが叩いた。


「サオリさん、本当におかしいわよ。顔色が真っ青じゃない」


 心配そうに覗き込んでくるその声さえ、今は正しく校正された後の音に聞こえて、私はひどく怯えた。手の中のスマホを、その不快な熱ごとポケットの底へ力任せにねじ込む。そのまま逃げるように椅子を蹴って立ち上がった。

 何か、言葉を返そうとした。けれど私が口を開くより早く、木村さんは不自然なほど急に、壁の時計へと視線を飛ばした。


「……あ、もう休憩時間が終わっちゃうわね。行きましょうか」


 さっきまでの心配そうな表情は、最初からなかったかのように消えている。

 彼女は事も無げに身支度を整え、会計に向かって歩き出した。

 置いていかれないよう、私は震える足で、その正しすぎる背中を追った。


 オフィスに戻る道すがら、私は自分の手のひらをじっと見つめた。

 夢の中で彼に握られた場所が、仄赤く変色している。

 それはただの火照りではない。

 皮膚の奥で、何かが蠢いている。

 私は無意識に、右手の爪で左手の甲を強く掻いた。


 ――痛い。


 その痛みだけが、唯一の現実だった。

 ふと、午前中に校正していた『豊饒の箱庭』の続きが頭をよぎる。


「……理想郷を壊すのは、外敵ではない。内に紛れ込んだ、消えぬ痛みを持った不純物である。」


 もし、この世界が夢に飲み込まれようとしているなら。

 もし、私がアヤという完璧な人形に書き換えられようとしているなら。

 この痛みこそが、私が私であるための最後の楔になるのではないか。


 その夜、私は部屋の明かりをすべて点け、震えながらベッドに座っていた。

 スマホを更新するたび、タイムラインは崩壊していく。


『[自動返信] 眠ればすべて終わります』

『[重要] サオリという誤字は、アヤに修正されました』

『[広告] 永遠の安らぎ、夢里で待っています』


 カチ、と音がした。

 部屋の隅に置いてある、いつからそこにあったのかも分からない姿見。

 その鏡の中に、自分が映っている。

 いや、そこにいるのは、私が今朝丁寧に作り上げたサオリではなかった。


 鏡の中の私は、白いワンピースを着て、紫色の苔がついた靴を履き、鈴のような声で笑っていた。

 だが、その手元だけが、あまりに異様だった。

 鏡の中のアヤの手の甲には、私が先ほど掻きむしった、生々しい赤紫色の傷跡が、醜い汚れとして刻まれていた。


「おかえり、サオリ」


 鏡の中のアヤが、口角を吊り上げて囁いた。

 その声は美しいが、手の甲の傷跡だけが、映像のバグのように激しく明滅している。


「いいえ、おかえり、私」


 限界まで見開いた私の瞳に、鏡の中の現実が滲み、溶けていく。

 意識が遠のく中、私は確かに感じた。

 私の体という器の中に、別の、もっと強固な何かが、濁流のように流れ込んでくるのを。

 そして、その濁流に抗うように、左手の傷跡が、激しく熱く脈動し始めた。


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