ブラック・ダイアリー
「●月●日
あのドラ息子はほどなく四十になると言うのに未だに1円も稼いでいない。少しばかりあぶく銭を稼いでいい気になっているのかもしれないが所詮地に足の付いた仕事じゃない。一体何様のつもりだろうか。
もしそれがあんな男から引き剥がした結果だと言うなら、私の人生は一体何だったのか!」
ドラ息子と罵る存在と、おそらくはその父親で元々夫婦であった存在への憤懣。
この言い草からするとそのドラ息子とやらはいわゆるニートかと思ったが、日付は去年だ。さすがに完全な引きこもりと言う事もあるまいと思って家を探しても、伊藤貴子以外の人間が暮らしている痕跡はない。
「●月●日
思えばあんなうだつが上がらない男のせいで、私は本来楽しむべき生活を楽しむ事が出来なかった。ちっとも売れない漫画ばかり描いて、収入はよそ様の半分以下。旅行にも行けないし宝石も飾れないしブランド品だって身に付けられない。いつもいつもご近所の皆様にバカにされる。だから、息子には漫画家にだけは絶対になるなと言い聞かせて来たのに。ああ、漫画を楽しんでいる子どもたちの将来を思うとそれだけで不安になって来る、その事を明日言い聞かせねばならない」
次はかなり前の日記だ。きょうび漫画家など珍しくもないし、どんな仕事にも一流と三流はある。その三流を夫に持ってしまった彼女の生活はかなり苦しく、まともな生活を送れていなかったらしい。
「じゃあこれは何でしょうか」
そんな中、警察官と一緒に別の職員がスマホを見せて来た。
△△銀行、伊藤貴子様預金額————————————————十億円。
十億。
一千万や一億ではない、十億。一体どうすればこんな金が手に入るのか。
そして十億も持っているのになぜ店を改修しようとさえしないでいたのか。
これはとばかりに、次の日記に手をかける。
「●月●日
「新番組、ミルフィーユ娘」
ああ、なんて忌々しい話だ!あんな人殺しを堂々と描いた代物によってあぶく銭を得てしまうだなんて、どこまで性根が腐っているのか!
いや、それを嬉々として取り上げる企業も企業なら、もてはやす連中も連中だ。
しかも何だ、新刊が五十万部発行?まったく、社会全てが図に乗らせようと言うのか。逆風をまともに吹かせずに過ごさせ、持ち上げるだけ持ち上げて落とそうとしている事に気付かないなどまったく愚にも付かないとはこの事だ。今からでも漫画家などやめて私の跡を継げ!」
あまりにも憎しみに満ちたその一文が、真相を物語っていた。
「これって…」
「ああ、間違いなくイッキー先生は…」
イッキー先生こと、伊藤貴也。
彼こそ、彼女の息子—————。
十八歳で上京して住み込みバイトで金を稼ぎ、三年かけてアシスタントとして漫画界に入り込み、二十八歳の時にミルフィーユ娘の連載を開始して大ブレイクした—————。
「●月●日
漫画なんかやめろ、返信はそれだけで十分だ。
あんなにご立派に包装された代物を送って来るから何かと思ったら漫画の単行本だった時のこっちの怒りを何だと思っている。あんなのは焼却炉の肥やしで十分だ。尻を拭く価値もない」
「●月●日
また今月もあぶく銭が入って来ている。
どうせどうかお願いします漫画を描く事を許してくださいとか言うつもりだろう、夏炉冬扇とか言う言葉も知らずに何のつもりだ。いつまで続くか楽しみだ」
「●月●日
—————とうとう、五億円。
五億円だ。
あーあ、私をそんなにも大富豪にしたいのか。職業に貴賎なしとか言うごもっともな事を唱え、こっちの口を塞ぎたいのか。どうしてもって言うんならそのミルフィーユ娘とかで私を殺してみろ」
「●月●日
まったく、純粋な子どもたちにすら侵食しきっているらしい。
この前児童養護施設で、ミルフィーユ娘とか言う見たくもない文字を見つけた。私が目一杯眉をひそめるのを我慢しながら聞くと、学校どころか世間的に超大人気なんだよって小学生の子がはしゃいでいた。あまりにもその声が圧倒的過ぎてこれは人を殺す悪い物なんだよって言う事も出来なかった。
なるほど、要するにあんな物でも子どもたちのご機嫌取りぐらいには使えるらしいと言う事だ。今度から新刊を送り付けて来るならばその度にあの子たちのガラガラの代わりぐらいには使ってやる。
でももしこのせいであの子らが犯罪に手を染めるような事になったらそれは漫画のせいだ。もちろんこちらが引き剥がしきれなかった罪でもあるが、それにしても遺伝子とは罪深い。ああ、胃が痛む…」
その後の日記に書かれた彼女の文は、どのミルフィーユ娘に殺された悪党よりも闇が深かった。
「全ての真相が、これですか…」
伊藤貴也が、あんな古ぼけたマンションに住んでいた理由。
それは、母親にミルフィーユ娘の収益のほとんどを渡していたから。
母親の反対を押し切り漫画で生きると決めた自身なりの、親孝行。
だが彼女は、ついにこの時が来るまで手を付けなかった。
十億を超える金を、一円たりとも。
漫画家と言う自分から全てを奪った存在により、与えられた金を。
「だから、か……」
「だから?」
「子どもは正直ですからね」
そして彼女を子どもたちが、いや若い社員たちも尊敬しなかったのは残念ながら自然な流れであったと思わせるには、十分な要素があり過ぎた。
この食事をするため以外に必要な物など何もない食堂こそ、それこそミルフィーユ娘を含むエンターテイメントを排除しきった、彼女にとって最も理想的な城であったのは間違いなかった。




