「ミルフィーユ・ドーター」
「しばらく出られない!?」
「しょうがねえだろ、あんな事になっちゃ。明日からしばらくキャスト変えないと」
伊藤貴子が亡くなってから三時間後、遠く離れた都会のオフィスではアラサーの男たちが頭を抱えていた。
数十億単位のプロジェクトの中核人物の一人が、しばらく出られないと言うのだ。
幸い代わりがいない訳ではないが、同じ方向の人間はいない。
あと三日ほど、各都市を回るための人間を早急に確保するか穴が空くのを承知でやるかしかない。
何とも厳しいかじ取りを、彼らは迫られる事になった。
※※※※※※
パティシエの格好をした女性が、男女問わず熱い声援を受けている。
隣にはトレンチコートを着たイケメン、もう一方にはシスター服を着た女性。
そして少し離れて、還暦一歩手前のエプロン姿の女性と割烹着姿の二十歳ほどの
女性。
カメラの光が銀幕を照らす。
この上なく華々しいはずのこの場は、どこか不釣り合いだった。
昨日まで彼女らの端に立っていたはずの男性の姿が、ここにはなかったからだ。
「さて今回実写映画版と言う事ですがまずは主役の」
実写映画化と言う、極めて輝かしい文字。無論ああこれはダメだと言う代物が多いのも事実ではあるがそれでもその存在がそこまで大きな商業的価値を持ったと言う意味でもあり成功の証である事に間違いはないからだ。
そう、この場には本来ここにいるべき全ての生みの親である存在が、欠如していた。
その事が意図せずして本来一番大事にされるべき存在がないがしろにされているような感触を与え、声援を機械音声じみさせフラッシュの光を電気の無駄遣いにさせていた。
ファンの間でも極めて人気の高いエピソードの実写化だと言うのに、だ。こんな事になる前に挨拶を実行できた会場は幸運であり、この後の会場は不運である。
そんな風に片づけられるには、この空間は不自然過ぎた。
名無しの千葉さん
この事件で誰がはしゃいでるってオタ嫌いの連中だろうな
名無しの千葉さん
元から叩きたくて叩きたくてしょうがない奴らがヨダレ垂らしてるんだろ
名無しの千葉さん
昔っから残虐なシロモノは山とあったのに鬼の首を取ったようにはしゃぐなんて、どっちがガキだか
そんな匿名掲示板の声が反映されるかのように、次なる射撃は発生した。
※※※※※※
「本日6時43分、我々は…」
「母さん行って来る」
「ちゃんと顔洗ったの」
「もちろん」
幾度目かのハッピー・テロリストの狙撃がニュースになる中、田辺真由子の楽曲を楽しみにし、もう十年以上続くシリーズの新作の発売を待ち望むごく普通の女子高生の朝は始まる。電子書籍も最近は多いが、彼女は単行本派だった。既に単行本は三十巻を越え、本棚には一巻から最新刊までずらっと並んでいる。
(でもよく考えればミルフィーユって名前ももう通じないかもしれないよね…私ももう、しばらく見てないから…でもミルフィーユ娘はミルフィーユ娘だよ)
「ミルフィーユ娘」。
あるパティスリーの特別メニューとして存在する、「ミルフィーユ」。
そのメニューを注文した客は、隣の教会に通される。
そこでミルフィーユ、つまり「千」人の樋口一「葉」こと五百万円を払う事によりどんな相手でも秘かに殺させる事が出来る、と言うのが「ミルフィーユ娘」と言う漫画だった。
いわゆる復讐ものであるが少女漫画らしい絵柄とのミスマッチ、更に人物描写の精巧なそれ、さらに主人公の最強ぶりや彼女の親友で依頼者の身の上を聞くシスターと事実上の窓口であるパティシエの男性のキャラも良く、単行本は日本だけで一千万部を突破。レギュラーアニメ化されアニメ映画も三度放映され、興行収入は三作合わせて四十億円越え、その上ミルフィーユが作中にほとんど出ないのに「ミルフィーユ娘のミルフィーユ」とか言うメニューまでコラボ商品として出されており、一年間の市場規模はトータルで十ケタ単位と言う文字通りの怪物コンテンツだった。
それでもなお、と言うかなればこそ教育によろしくないとか言う理由でケチを付ける人間はいるし、実際今朝ハッピー・テロリストによって射殺された人間はミルフィーユ娘の大元の出版社に殺害予告を行ったアラフォー独身女だった。
その漫画の作者である、イッキー先生の自宅がテレビに映った時には思わず呆れた時もあった。
築三十年越えの中古マンション、一応3LDKあるが家賃は年百万円。
毎月ずつの引き落としに比べ少しだけ安くなると言う契約を結んでいるとは言え、年収億単位のはずなのにそんな所に住んでいるのは明らかにおかしい。本人は出不精とこの仕事が当たらなくなったらと言う二つの言葉を楯にしているが、中高生はともかく大人たちもその言葉をいぶかしんでいた。
そして、彼女たちより恵まれない人間たちも。




