ススマミレスイート
一か月ぐらい間が空いてしまいましたね。本当にすみません。
「おし、突入成功!」
そんなことを言いながら周囲を見れば、そこには広々とした空間が広がっていた。廃工場と聞いて、機材でごちゃごちゃした空間を想像していたダイゴは、心の中でほっと溜息を吐く。スペースが確保されている分、のびのびと戦闘を行うことが出来る。そう考えたのだ。
(で、赤髪の奴は何処だ?)
雨風にさらされてボロボロになった天井からは、ところどころ光の筋が差し込んでいる。そのお陰で、建物の中は電灯が無くても、十分に明るい。それなのに、ダイゴの視界には人影一つ入らなかった。
逃げたか。彼はそう思った。ジウラが外に出たことにより、赤髪は此処に留まっている意味も無くなった筈だ。ならば、逃げるという選択肢も、十分にありだと感じた。
(でも、ジウラさんがここから出てきて、まだあんま時間は経ってねえぞ。こんな短時間で逃げ切れるもんなのかな)
周りを見れば、先程自分が使用した扉以外に、出入り口は存在していないようであった。ならば、犯人はまだこの中に居る筈である。なのに、どうして姿が見えない。首を傾げながら、ダイゴはなんとはなしに、視線を上へと移動させた。すると、あるものが彼の目に飛び込んできた。
(ありゃあ、……梯子か? ……ああ、上にあるギャラリーに繋がってんのか)
そこまで考えて、ダイゴは総毛立つ。犯人がどこに居るのか、理解したからだ。そして、自分が今どのような現状に置かれているのかも、理解したからだ。
しかし、それに気付いた時には既に、彼の肩に熱い何かが、めり込んでいた。Tシャツの焦げる臭いが鼻をくすぐり、肌の焼ける感覚で脳が痺れる。
「ぎゃあっ!?」
悲鳴を上げながらも、ダイゴは咄嗟に背後に向かって肘を放つ。しかしそれは空気を貫くばかりで、今しがた彼を焼いた者に突き刺さることはなかった。
「くそっ!!」
ひじ打ちの勢いをそのまま利用し、体を半回転させる。するとそこには、身長185センチほどの少年が立っていた。その髪は赤く、炎のように逆立っている。それが件の犯人であることに、疑問は生じなかった。
「テメェか……! うぐっ!」
赤髪を睨む目を、痛みで細めながら、ダイゴは左肩を押える。指の隙間から、黒く焦げたTシャツの白地と、赤黒い焼けた皮膚が覗いていた。
(火傷……だけじゃねえな。今の一撃で、骨に罅が入ったみてえだ。がんがんと痛みやがるぜ、畜生)
心の中で愚痴を零しながら、少年を見る。その全身は、しなやかな筋肉に覆われていた。見るからに、徒手格闘に秀でている。そう感じた。そう感じはしたが、しかしダイゴは少年の筋肉よりも、その肘に意識を集中させた。
「……心象、隠す気は無ぇんだな」
橙色の火炎が、そこで煌々と燃えていた。温かい光の向こうにある肌は焦げていない。少年は自身の炎によるダメージは、負わないらしい。
一方で火傷を負っているダイゴが、痛みにくすぶる脳味噌で、少年の分析をしている最中。火炎が横に弧を描いて、彼の方に向かって来た。少年が肘鉄を用いて、ダイゴを抉ろうとしてきたのだ。
「ぬぉっ!」
ギリギリのところで心象を認識し、それによって強化された両足を用いて、バックステップを行う。だが、それでも完全回避には至らなかった。少年の燃え盛る肘が、ダイゴの胸を切り裂く。
「ぎっ……!」
横一文字に焦げ跡の付いた『乙』を庇いながら、何とか距離を取る。激痛が走るが、出血は軽い。血管を、焼き塞がれたのだろう。
(こいつ、動きがヤベェ。なんつーか、戦い慣れてやがる)
額から汗が滲む。思えば、今までダイゴが戦った犯罪者で、武器を持たずに単純な肉弾戦を行う者は、この少年が初めてである。そして、武器を持たないに値するほどの格闘能力を、彼は持っているようであった。
「……へっ。……だが、素手ならそうそう負けねえぞ。俺は」
それでも、ダイゴは少年が近距離型であることに、安堵した。武器を使わぬ単純な殴り合いならば、肉体強化系の心象を持っている自分の方が有利。そう考えたからだ。
(全身に力を滾らせる!)
ダイゴは足だけではなく全身を、心象により強化した。瞬間、彼の体に大きな力が漲る。それが、彼の持っている心象が、今出来る最大限のことであった。
「っし! じゃあ次はこっちの番だぜチューリップ野郎!」
気合を発して、少年目掛けて飛び掛かる。脚を強化しているために、その動きは俊敏だ。そして、勢いそのままに、彼は強化された腕でもって、少年に向けて拳を放った。
しかし、その攻撃を少年は、体を少し横に動かすことでかわした。動作こそ速いが、攻撃が大ぶりなため、軌道を読まれてしまったのである。
「まだまだぁ!」
だが、それでもダイゴは諦めない。強化された脚力で地面に踏み留まり、これまた強化された背筋を捩じって、その場で裏拳を放ったのである。風を起こしながら、力任せの拳が少年の顔面に迫った。
ゴッ、という音が廃工場に響く。続いて、ダイゴの頬が焼ける音が、空気を震わせた。その右頬には、少年の左拳が、深く突き刺さっていた。
「あ……が………!!」
ダイゴが放った裏拳を、少年は僅かに身を屈めることでかわしていた。それだけに留まらず、それによって発生したダイゴの勢いを利用して、左カウンターを顔面に打ち込んだのである。その拳に湧いた火炎とは反対に、少年の瞳には冷静が滲んでいた。
「このっ……!!」
焼かれる痛みに歯を食いしばりながら、ダイゴは体に力を入れる。まだ彼は折れてはいない。否、折れる訳にはいかない。
(この戦いで)
肩、胸、頬。それぞれの肉が焼けて発生する痛みも、今の彼には最大の苦しみではなかった。その痛みよりも彼を苦しめるものが、既に存在していた。それは、己の弱さであった。痛みが発生するたびに、脳に強く認識されるそれが、皮肉にもダイゴを支えていた。
(この戦いで、俺は強くならなきゃいけねぇんだ! 苦戦して、歯噛みしてる場合じゃねえんだよ!!)
瞳に闘志が灯る。そして、ダイゴは少年を打ち倒さんと、左フックの体勢に入った。
次の瞬間、少年の左拳が開いた。
(え?)
拳と掌、どちらが表面積が広いか。考えるまでもなかった。そして、少年の手は、ダイゴの右頬から右目にかけて覆う程には、大きかった。
ジュワリ。涙の蒸発する音と共に、ダイゴの世界の右半分が焼失した。
「あぎゃあああああ!!?」
絶叫しながら仰け反るダイゴ。その瞳の白は赤に、黒は白に変化している。無論、右目に視力など残ってはいない。
「くそっ……!!」
前方を睨めつけるが、そこに少年の姿は無い。それを探すために首を回そうとした瞬間、右に広がる闇の中から、彼の右横腹目掛けて、熱と衝撃が襲い掛かった。
ズドン。硬いものを打ったような、鈍い音が轟く。炎を纏った少年の左拳は、ダイゴの腹に僅かばかりもめり込むことはなかった。心象によって強化された腹筋を、全力で固めたからだ。しかし、打撃は無効化できても、火炎はそうもいかなかった。じゅう、と彼の腹の筋肉が焦げる。最大の苦しみとは言わないまでも、かなりの激痛である。このまま喰らい続けていたのでは、命が危ないだろう。
(早く勝負を、決めちまわねえと……!)
そう考えて、ダイゴは己の右拳を、闇目掛けて打ち込む。しかし、手応えはない。それもそうだ。少年はこの時既に、ダイゴの背後に立っていたのだから。
「畜生! どこにいやがる!」
そうとは知らないダイゴは、見えない少年に対して怒鳴る。そんな彼の後頭部に、火炎を伴った右の手刀が直撃した。
「がはあ!!?」
凄まじい衝撃。心象で首を強化していなければ、確実に今の一撃で骨を折られ、昇天していただろう。後頭部を焼かれながら、しかしダイゴはそのような攻撃の分析を、行うことは出来なかった。脳が揺れて、思考能力を失っていたからだ。
「うぅ……」
目がちかちかして、脚がふらつく。心象で全身を強化し、それに伴いそれなりの耐久力を得ているとはいえ、脳が揺れてしまうと、やはり相応の支障が出るらしい。右側に広がっていた闇が、全てを侵食する。殆ど無防備になっているダイゴを、少年がそのままにしておく筈もなく。
がきゃっ。オレンジ色に輝く右アッパーが、ダイゴの顎をかち上げた。その威力は凄まじく、顎が割れて、その傷口を炎が焼き繋いだ。坊主頭が体ごと浮き上がり、物凄い勢いで床に叩きつけられる。
「ぎゃっ!!」
目から火花が飛び散るが、同時に彼の左側の世界が戻ってきた。しかし、それを喜ぶ暇は無い。目前に、拳を振り上げて己に止めを刺そうとしている、少年の姿が存在していたからだ。
「くぅっ……!」
心臓を跳ね上がらせながら、ダイゴは体を回転させて、右横に移動する。次の瞬間、それまで彼の顔があったところに、鋭い下段突きが突き刺さった。嫌な臭いを発生させながら、床が焦げる。
「ぬぉお!!」
冷たい汗を掻きながら、急いで立ち上がる。依然として足はがくがくしていたが、それでも被弾直後よりはマシであった。そんなダイゴを見つめながら、少年が立ち上がる。その青い瞳は、やはり冷たい。獲物を前にした狩人の様に静かに、ダイゴを観察しているようであった。
(……畜生。やっぱり、右目が使えないってのは、かなりの痛手だ。死角が広くなって、まともに相手が見えやしねえ。おまけに、この野郎はその死角に、ばんばん潜り込んできやがる。俺の死角がどこなのか、完全に把握してるみてえだ。んな芸当、俺には出来ねえぜ)
そんなことを考えていると、再び少年が闇に隠れた。ダイゴは歯ぎしりする。これではサンドバックだ。こちらの攻撃は、全く当たらないのだから。
「くそっ! 汚えぞ! ちょこまかと逃げやがって!」
悔し紛れに吠えるダイゴ。しかし、即座に死角から、彼の脇腹に拳がめり込む。べきりという音と共に、彼の体が吹っ飛んだ。口から血が溢れる。あばら骨が、何本か臓器に刺さったらしい。
「ぐぅ……!」
粘性のある赤い汁を垂らしながら、ダイゴは少年の方を見ようとする。しかしその時、彼の鼻が異変を探知した。何かの焦げる臭いだ。それも、かなり近くに発生源がある。
服に炎が燃え移っているのにダイゴが気づくのは、わき腹から発生している熱が、だんだんと広がってきてからであった。
「ぎゃあああ!?」
直ぐに上半身の服を脱いで、地面に叩き付ける。しかし、勿論それぐらいでは火は消えない。依然として煙を発している。
「はぁ……はぁ……。うぐっ……」
ずきりと、わき腹が痛む。同時に、口から更に血が溢れた。今の慌ただしい動きで骨が動いて、更に深く臓器に突き刺さったのかもしれない。そう考えると、一層痛みがひどくなるように感じた。たまらず、両腕を地面に手を着く。それでもダイゴは、そうしている間に攻撃されてはたまらないと、少年の方を見上げた。
青い二つの光が見下ろした。そこに慈悲の輝きなど微塵も無い。少年は殺す気なのだ。躊躇なく、目前にいる敵を。
(畜生。何で、こいつはこんなに強ぇ。何で、俺はこんなに弱ぇ)
ダイゴと少年。何が違うのだ。どこが違うのだ。それは、格闘技術だ。それは、戦闘経験だ。この二つは、いきなりこの場で得るのは不可能である。しかし、もう一つの異なる点。これは、その気になれば解消することが出来る代物であった。それは。
(……殺意かよ。畜生)
その青い光に滲むもの。それを手に入れれば、自分は強くなれるのだろうか。ダイゴは考えた。しかし、直ぐにその思考を棄てようとした。そういう形で、強さを手に入れたいとは思わなかったからだ。
今までの彼なら、思わなかったのだが。
(……でも、それじゃあこの世界では、やっていけねえのかな)
殺しを良しとしない考え方。それを基盤とした己の正義。それらは、現世由来のものだ。死界では、その限りではないのかもしれない。現に、悪人の殺害を肯定しているアッシュは、あんなにも強い。現に、悪人の殺害を否定しているダイゴは、こんなにも弱い。それは、戦いに対する覚悟の違いから、発生する差では無いのか。現世と死界。この間にある正義のギャップから、生じている差では無いのか。
俺の甘い正義は、一体何を成せるのか。
(……強く、なりてえな。目の前のこいつを、倒せるぐらいには)
薄汚れた床に爪を立てる。がりがりと引っかいて、痕を残しながら立ち上がる。
その時、彼の左目には、少年と同じものが、うっすらと宿っていた。と同時に、今まで以上の力が、彼の全身に付加されていた。殺意という名の覚悟は、彼の中に発生する魂気を、より上質なそれに昇華させたらしい。
「……今まで通りには、いかないか」
その時、ダイゴの前で少年が初めて声を発した。それを耳で拾うよりも早く、坊主頭は今まで以上の速さで、赤髪目掛けて突っ込んだ。その両腕は広げられており、より多くの空間を引き裂いている。
「だが、直線的だな」
しかし、少年はそんなタックルを、ダッキングによって避ける。と同時に、ダイゴの膝裏目掛けて手刀を放ち、彼を転ばせた。速さだけでは、少年を捉えることは出来ないらしい。
「がはっ!」
再び後頭部を強かに床に打ち付けて、ダイゴは呻く。そんな彼の頭部に、少年は燃え盛る右肘を落とした。その一撃を喰らえば、頭蓋骨に罅が入るだろう。同時に、脳が損傷するだろう。つまり、その橙色の流星は、死を運んでいるのだ。
それをダイゴは、己の右掌でもって掴み取った。肉の焦げる臭いが鼻を突く。それでも、流星は手の中に存在し続けた。
「なっ……」
少年の目に焦りが混じる。と同時に、彼の肘がべきりと砕けた。強化されたダイゴの握力によってだ。瞬間、少年の顔が歪む。
それでも彼は直ぐに冷静になり、次の一手を考えて、それを行使するだろう。
「だから、やるなら今だ」
そう呟いて、ダイゴは少年の脇腹に、左フックを叩き込んだ。ベキベキベキ、という嫌な音と共に、体が右に数メートル吹き飛ぶ。
「ごはっ!?」
今度は少年が血を吐いて、倒れ伏す番であった。それを見ながら、ダイゴが水音交じりの言葉を呟く。
「……さっきの下段突きと言い、今の肘鉄と言い、……テメエはあれだよな。止めが刺せるって思った時は、迷わず死角から出てくるよな。……慢心しすぎだぜ、糞チューリップ野郎……」
脇腹を押えながら、ゆっくりと立ち上がる。その右手は、黒く焦げていた。先程の肘鉄を止めるために払った、代償である。
ぶすぶすと煙を吐きながら、白い服が炭化していく。それを背にして、ダイゴは言った。
「……なあ、オイ。もう良いだろうが。……テメエの右腕は、もう使えねえ。……あくまで推測だがよ。テメエの心象は、“自分の腕に火を纏わせる”ってもんなんじゃねえか。だから、……左腕しか使えねえ今、テメェはスゲエ不利になってる筈だ。……これ以上はよ、もう良いだろうが」
要は降伏しろ、ということである。これ以上やっても、傷つくだけだから。これ以上やったら、本当に死ぬかもしれないから。
「……断る」
しかし少年は立ち上がり、左腕だけでファイティングポーズをとった。その青い瞳には、闘志が宿っていた。殺意が宿っていた。
「……そうかよ」
ダイゴは目を一度伏せてから、少年を睨みつけた。背後にある『乙Tシャツ』は、既に真っ黒に炭化していた。
「じゃあ、覚悟しやがれ!」
叫ぶ。と同時に、ダイゴは飛び掛かった。キナ臭い空気が裂け、少年への道を作る。宙にて拳を握りしめて、振りかぶる。その動きは非常に大ぶりだ。気負っているため、力み過ぎているのだ。着地の寸前でスイング。しかしそれを、少年はスウェーで躱した。同時に、左拳がダイゴのこめかみにめり込む。冷静な対応だ。少年は続いて右前蹴りをダイゴの腹に突き立てた。服を着ていないため、直に。
「ごふぉおっ!?」
重い。そして鋭い。炎を纏っていないにしても、喰らいたくない代物だ。ダイゴはそう思った。衝撃で骨が更に深く突き刺さったのか、その口から夥しい量の血を垂れ流しながら。
それでも。
「……安いもんだぜ。勝つためならよ」
ダイゴはそう呟いて、少年の右足を掴んだ。両腕だ。片手ですら凄まじい握力なのだ。況や両手をや。とにもかくにも、少年の脚がミシミシと悲鳴を上げた。
「ぐぅ……!」
痛みゆえか、少年の額に血管が浮かぶ。それでも彼は、血に濡れた歯を食いしばり、ダイゴに向かって左脚を繰り出した。延髄切りだ。
しかし、それが当たることはなかった。ダイゴが右足を持ったまま、強引に少年の体を振り回したからである。ジャイアントスイングの要領だ。その勢いは凄まじく、大きな風切り音を辺りに撒き散らしていた。
(このまま地面に叩き付ける!)
そうすれば、少年を倒すことが出来るだろう。速度は既に手に入れている。右手が焦げているとはいえ、まだ握力は持つ。後は、軌道を力任せに変えて、ハンマーの様にその体を振り下ろすだけ。
それなのに。
(でも、そうしたら)
少年は死ぬ。当たり前だ。床がふかふかの綿で出来ているならまだしも、下に広がるのは固い平面。そこにこのような速さで叩き付ければ、人体はただでは済まない。頭部から落ちれば、まず命は無い。ダイゴは馬鹿だが、それぐらいは分かった。分かったから、躊躇した。殺意を瞳に浮かべた筈なのに。それ程までに勝ちたい筈なのに。強くなりたい筈なのに。
(……俺は)
左目の中で、混ぜられてドロドロになった世界。それに合わせるように、彼の心に波紋が広がる。たった一動作を、迷いが止める。覚悟の無さが阻む。
それがいけなかった。
「……っ!?」
ダイゴは我を取り戻した。同時に彼の視界が現実と重なる。一瞬の無意識の中で、それまでの景色も感覚も消えていた。彼の目に入ったのは眩いオレンジ。彼の両手に伝わったのは、爆熱。
少年の足が、燃えていた。
「うわぁ!?」
熱さのあまり、手が離れる。勢い任せに宙に飛び出した少年は、軽やかな受け身をとって、地面に立った。その右足には、炎が灯っている。
「……あまり、物を無駄にはしたくないんだがな」
そう呟く少年の靴は、無残な燃えカスと化していた。嫌な臭いを含んだ煙が昇る。ダイゴは理解した。少年は、身に纏っている物を黒焦げにしたくないから、今の今まで腕にしか炎を灯していなかったのだと。
「……なめやがって」
呟きと共に、両腕を構える。しかし、その右手は殆ど炭だ。自力で握り込むことすら出来ず、僅かな空間が手中に存在している。対して左腕の火傷は軽い。直ぐに脚を離したことが、功を奏したらしい。
黒焦げの腕を盾に、ダイゴは突っ込んだ。その突進は早く、しかし直線的であった。
「学習しないな」
少年が姿勢を極限まで低くする。瞬間、炎の陣が地を這った。水面蹴りだ。喰らいたくない代物が、モロに足首の後ろに叩きつけられる。焼ける音。軋む音。たまらず、彼は地面に倒れ込んだ。後頭部が再び音を鳴らす。混濁する世界の中で、しかしダイゴは体を転がす。炎のストンピングが裸の脇腹を掠めた。
「クソッ!!」
瞬時に立ち上がるが、体がふらつく。右のアキレス腱が、焼き潰されていた。激痛が全身を這うが、しかしダイゴは倒れない。そんな彼に、少年が言った。
「……お前、どうしてさっき俺を殺さなかった。あと数コンマ早く行動していれば、俺は今頃地面で動かなくなっていた筈なのに」
「……俺が聞きてえよ。……まあ、単純に俺の常識のせいだがよ」
しかし、それのせいで彼は勝ちを逃した。同時に、窮地に立たされた。それもこれも、彼の持つ生命倫理のせいだ。目を塞ぎ、腕を押え、脚に纏わりつき、魂を鈍らせる。この世界じゃ何の役にも立たない代物だ。分かっているのだ。分かっているから、未だにダイゴの体には力が湧いているのだ。死に瀕するにつれて湧く、少年への殺意のおかげで。
「……でも、大丈夫だ。きっと、そのうち吹っ切れるからよ」
極限状態に陥れば、自分も狂気に囚われるだろう。そうなれば、彼を束縛している常識など、全て消え去ってしまうに違いない。そうすれば、この弱い自分から抜け出せる。半端者の殻を、破れる。ダイゴはそう期待していた。既に彼は、半分狂っていたのだ。
半端な狂気で瞳を浸しながら、ダイゴは構えた。姿勢は低い。両足に、力を溜めるようなフォームだ。
「……その前に、見せてやるよ。俺の、もう一つのオリジナル」
瞬間、全身から力が爆発した。闘気が彼を包み、筋肉の弾丸を形成する。
≪漢大武≫
左脚一本が、吠えた。刹那、少年の青い瞳に映る坊主頭が、巨大化する。およそ人体が単独で発生させることは出来ないほどの風切り音を響かせながら、ダイゴは真っ直ぐ突っ込んだ。
「前もって、右足を潰しておいて良かった」
炎熱に輝く左中段蹴り。その光がダイゴの闇を照らした時、既に彼の体は真横に吹き飛んでいた。
「がっ……!!」
転がる体を、壁がキャッチする。幸い、最初に接触した部分は右腕で、頭部を強かに打ち付けるようなことにはならなかった。そのお陰で、意識の暗転している時間は、僅かで済んだ。
「ぐぅ……」
漏れている光の下で、ダイゴは右頬を押える。焼け焦げた皮膚の、ざらざらとした感触が指を這う。血は出ていないが、肉が抉れている。頬骨が砕けているのか、激痛が襲った。同時に、口の中に異物感。床に吐き捨てれば、それは白い欠片であった。今の攻撃で、奥歯が損傷したらしい。
「……糞がぁ……!!」
瞳の獰猛な輝きが増す。それと同時に強くなっていく力に、ダイゴは一種の喜びを覚えていた。もう少しだ。もう少しで俺は変われるのだ。痛みと同時に狂気が侵食する。その狂気は、ダイゴの足りない脳味噌を補った。
(今の俺にはスピードがねえ。その分、カウンターを貰いやすくなっちまう。それを阻止するためには、搦め手を使うしかねえ。……よし)
立ち上がると共に、左脚一本で床を蹴って、少年目掛けて低く飛ぶ。漢大武だ。その速度は先程よりも少し早い。先程よりも、彼が少年を殺してやりたいと、強く思っているからだ。
「それでも足りない」
しかし、そんなダイゴに対して、少年はポツリとそう言った。と同時に、先程よりも少し早いタイミングで、左中段。その攻撃の軌道と速度は、確かにダイゴの側頭部を再び捉えることが可能なものであった。速度の差を技術で補う。どこまでも少年は冷静であった。
熱で揺らめく空気に、だんだんとダイゴの頭が近付いていく。もう一度同じところに喰らえば、まず助からないであろう攻撃は。
しかし、空振りした。
「なっ!?」
何が起こったのか分からないという様子で、少年は目を見開く。その青い瞳に、ダイゴの体が映り込む。瞬間、少年は全てを理解したように呟いた。
「お前、急ブレーキを……!!」
彼の眼前。そこに存在しているダイゴの体が、天を仰いでいた。その左足は足裏を見せながら、踵で地面を擦っている。どうやら彼は、少年の間合いに入る直前で、己の進んでいた方向とは逆に左足を打ち込み、速度を殺したようであった。そうすることで少年のタイミングをずらし、カウンターを回避したのだ。
「くっ……!」
急いで体を捩じり、坊主頭の方へと顔を向ける。しかし、続けて彼が拳を振りかぶるよりも早く。ダイゴの天を仰いだ状態でのアッパーカットが、少年の顎を捉えた。赤い髪が揺らめき、白い体が舞い上がる。その真下を、スライディングで滑り抜けた。
「……」
落下音を背に受けて、ダイゴが立ち上がる。その体には、赤い斑点が浮かんでいた。少年の血によるものだ。スライディングの最中、吐き出された血液が降り注いできた時に、付着したのであろう。他人の血が体に付着していて、良い気持ちはしない。ダイゴはそれを拭おうとした。
「……痛っ」
瞬間、ダイゴは膝に鋭い痛みを感じた。やはり、先程の急ブレーキは無理があったのだろう。嫌な感触が残っている左手で摩れば、何とか痛みが引いた。立っている分には、問題ないらしい。
「……はあ、終わった」
溜息を漏らす。極限状態から脱したことで、ダイゴから狂気が抜けていく。同時に、彼は安堵した。完全に殺意に支配される前に、勝負を決めることが出来て良かった、と。流石に、今の腰の入っていないアッパーで、命を奪ったということはないだろう。そんなことを考えながら、ダイゴは振り返った。少年が生きているのを、確認するために。
「まだ……終わってない……」
瞬間彼の右足に、少年の左下段蹴りがめり込んだ。ごきり、という音が中に響く。同時に、彼のズボンに火が移った。
「……っ!!」
何度目になるか分からない、甘さゆえのピンチ。学習しない己に、これまた何度目になるか分からない自己嫌悪を抱きながら、ダイゴは左脚一本でバックステップを行う。だが、着地に失敗して床に倒れてしまう。少年は追撃しない。彼も彼で、ダメージは大きいらしかった。
「はぁ……はぁ……」
ズボンを見れば、既にかなり炎が侵食している。火だるまになってはかなわないと、ダイゴはそれを脱ぎ棄てた。すると、布に隠れて見えなかった脚の、その全容が目に入った。同時に、吐き気を覚える。折れた骨が、焦げた皮膚を突き破っていたのだ。
「畜生……!!」
これではまともに走ることが出来ない。ダイゴは急いで打開策を考える。直ぐに彼の脳裏に浮かんだのは、マリオに貰った治癒香辛料の存在であった。しかし、それは現在進行形で燃えている、ズボンの中に入っている。これでは、治癒香辛料を用いて回復を図ることは出来ないだろう。ならばどうするべきか。妙案は浮かばない。苦肉の策一つが、頭の中に横たわる。ダイゴは、皮膚から覗く骨に手を当てて、それを無理やり押し込んだ。激痛に涙が浮かぶ。しかし、どうにか脚は真っ直ぐになった。そのおかげで、ダイゴは呻きながらも、二本足で立ち上がることが出来た。
そんな彼の一部始終を、少年はじっと見つめていた。口から流れ出ている血によって、赤く塗れているその体は、小刻みに震えるばかりで動かない。体力が回復するのを待っているようだ。ダイゴは考える。
(……どうやら、相手も満身創痍みてえだ。……これなら、もう一回漢大武をぶち込めば勝てるだろ)
今のダイゴは少なからず慢心していた。その慢心は、ダイゴの瞳から殺意を奪っていた。同時に、彼の力は弱くなっていた。本人もそれに気付いてはいたが、しかし気には留めなかった。この程度の力でも、十分に勝てると踏んだからだ。
数秒後。ダイゴは、力を漲らせた。そして、先程と同じように、左脚一本でダイブする。左目に映る世界が、歪む。その歪んだ世界の片隅に、オレンジ色の光が左から右へと流線を描く。どうやら少年は、先程と同じように中段蹴りを放つらしい。まだそんな余力が残っていたのかと驚きながらも、しかしダイゴは左脚を地面に突き立てて、体に天を仰がせる。
「うぐっ!!」
刹那、彼の膝がこれまでにない悲鳴を上げた。当たり前だ。先程負担を掛けたばかりの膝を、更に酷使したのだから。あまりの激痛に、思わず顔が歪む。しかし、それでもちゃんとスピードは削ぎ落した。これで、カウンターは喰らわずに済むだろう。そんなことを考えるダイゴの視界の中で。
少年は脚の軌道を、変えた。
(え……)
まるで、演奏時の指揮棒の動きの様に。横から縦へと滑らかな光の曲線が描かれる。何という柔軟さだ。何という対応の速さだ。数多の驚愕が、ダイゴの頭の中に湧き上がる。そんな彼の脳の反応全てを断ち切ろうと、炎を纏った踵落としが迫る。
「くっ……!!」
左掌を顔の前に翳す。それが、ダイゴの出来る精一杯の抵抗だった。そんな彼の抵抗を、少年の爆炎の鉄槌が叩き潰す。左手の骨が完全に粉砕される感触と共に、ダイゴの後頭部は床に打ち付けられた。世界が蕩けて、奇妙な臭いが鼻に広がる。
(……畜生。……さっきの今にも倒れそうな感じは……演技だったって訳か……)
消し飛びそうになる意識の中、ダイゴの顔を冷たい何かが叩いた。少年の血液だった。攻撃しながら、彼は血を吐いていた。どうやら彼が満身創痍であるということは、事実であるらしい。それでも、あれほどの動きを見せたのは、ひとえに勝利への執念によるものであろうか。
(……ああ……俺は、……心で負けたのか)
もしも、勝ちを確信して慢心していなければ、こうはならなかっただろう。もしも、殺意を持ち続けていれば、こうはならなかっただろう。何もかも、何度も揺れて、何度も選択を誤る、自分の弱さのせいだ。死んでから今までに見つけた己の弱さが、この戦闘では何度も顔を出し、脚を引っ張っていた。このままでは駄目だ。そんなことは分かっていた。ならばどうすれば良い。簡単だ。この戦闘で変われば良いのだ。変わるためにはどうすれば良い。それも簡単だ。今まで自分を縛り付けていたものを、全てこの戦闘の中で棄てれば良いのだ。それはつまり、それはつまり。
むくり、とダイゴは起き上がる。右目は視力を失っている。肋骨は折れて、臓器に突き刺さっている。右手は黒焦げで、殆ど動かない。左手はぐちゃぐちゃで、こちらは全く動かない。右足は骨が見えており、アキレス腱が潰れている。左足だって既に膝は限界を迎えており、先程の急ブレーキの様な無茶は、あと一回しか出来ないだろう。そんな満身創痍の体に鞭を打ち、立ち上がる。
「殺す」
その左目は色以外、敵と同じになっていた。
炭の苦さか、彼の甘さか。




