犯罪者の前には
冬休みに入り、少しだけ時間が出来ました。忙しくないって、素敵。
殺す。その一言と共に、ダイゴの雰囲気が変わる。心象が発動される瞬間のそれ。それと同じように。今までの彼と、まるで異なったということなのだろう。いよいよ、狂気に染まったということなのだろう。
狂ったというには随分と冷めた頭で、ダイゴは考える。
(俺の身体の具合はどうだ。……ひいき目に見ても満身創痍だ。この状態で大武をかまして、果たしてあの野郎を殺せるのか)
出来るかもしれない。どろりとした殺意に身を浸した彼は、今までにない力を全身に漲らせていた。殺意と狂気という、人間の感情の中でもかなり異質なそれらは、しかし上質な魂気を生成するには、うってつけであったようだった。この上質な魂気で練り上げられた心象から生み出される、膨大な力。この力をもってすれば、今の満身創痍の状態でも、眼前の敵を殺すことは出来そうだった。
しかし、ダイゴはそんな分析に、心の中で待ったをかけた。
(それでも、この状態じゃ万が一があるとも限らない。なるべく、有利な状況を作り出してから、攻撃した方が良いだろう。例えば、物を投げて注意を逸らせるとか)
ダイゴは顔を動かさずに、目だけで辺りを伺う。焦げ切ったズボンが映った。
(……今回は、母ちゃんには助けて貰えねえみてえだ)
黒い炭の中から、どろりとした何かが、顔を覗かせている。炎で炙られたことわざメダルの、成れの果てだ。既に冷えて固まっているそれは、しかし投げることは出来なさそうであった。
(となれば、どうするか……)
ダイゴは己の状態を、上から見下ろした。生憎、パンツ一丁のボロボロの男の姿しか見えない。しかし、その殆ど裸一貫の己の装備で、彼には十分であった。
次の瞬間、彼は左足を振り上げて、少年目掛けて靴を飛ばした。凄まじい勢いで飛来したそれを、しかし少年は眉一つ動かさず避ける。
「大当たりだぜ!!」
そんな少年の、文字通り目と鼻の先に、靴が迫っていた。彼の避ける方向に、前もってダイゴが右のそれも放っていたのだ。そのせいで、彼の右足から流れている血は、その量を増していたが。
「ちっ」
舌打ちと共に、少年は燃え盛る平手でそれを弾き飛ばした。しかし、その瞬間。
「うっ!?」
靴から、何かが飛散した。それが少年の目に入り、彼を闇に誘う。
「……履き潰しといて良かったぜ」
ダイゴの靴は、彼の今までの力任せなダッシュに付き合わされ続けていたせいで、ボロボロになっていた。それが今こうやって弾かれたせいで、その欠片が四方八方に飛んだのである。
燃える靴の放物線から目を離し、ダイゴは思った。今がチャンスだと。瞬間、彼の体は動いていた。左脚一本に力を込めて、一気に解放したのである。
≪漢大武≫
今まで潰されに潰されてきたダイゴの愚直な必殺技が、少年目掛けて唸る。その体は宙に浮いていた。勢い任せの滞空である。地面に右脚を接触させることで、骨が再び皮膚を貫くのを避けるためだ。
「ぐっ……がああ!!」
だが、少年も負けてはいない。破片のせいで赤く血走った目を無理やり開けて、ミドルキックを繰り出したのである。その蹴りは、やはり計算されつくされていた。今のダイゴの速度ならば、少年の懐に飛び込む前に側頭部が吹き飛ばされるような、そんなタイミングで繰り出されていたのだ。
その紅蓮色の中段蹴りを前に、しかしダイゴは諦めない。再び左足を地面に向かわせる。あと一度だけ使える、バックステップのために。それと同時に行われる、アッパーカットのために。これを外せば、完全に膝は破壊されるだろう。そうなれば、もう後が無い。ダイゴは決死の殺意を以って、左脚を少年のいる方へ伸ばす。
「大当たりだ」
その瞬間、少年は中段蹴りの軌道を変え、再び踵落としの体勢になっていた。漏れた言葉通り、その口元には確信めいた笑みが浮かんでいる。どうやら、ダイゴが大武を仕掛けてきた時点で、こうなることを予想していたようであった。
燃え盛る踵。死神の鎌の様な軌道で、それがダイゴの顔面に迫る。
「っ……!!」
目前に迫る熱を持った点。しかし、もうバックステップのための準備は終えている。この状態から避けることは、不可能に思えた。また、前回と違って掌で防ぐことは出来なさそうであった。顔を覆うには、もう遅すぎたのだ。
しかし、ダイゴは掌を、それもぐちゃぐちゃになっている左掌を動かした。その向かう先は、顔ではない。
「おおおおおおおおおおおおおおお!!!」
がっ。骨を打つ、鈍い音が聞こえた。ダイゴの左掌が、ダイゴの左脛を、殴っていたのだ。べきゃっ、という音が響いた。ダイゴの左掌が、更にぐちゃぐちゃになった音だ。
勿論、少年は戸惑った。だが、直ぐにダイゴの真意を理解した。
ダイゴの左脚の向きが、後ろに変わっていた。今の殴打で、それまで少年の方を向いていた脚の軌道を、反対方向へと無理やり変えたのである。
「おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!!」
左掌を、痛む左膝に添える。同時に、折れ曲がっていたそれに溜められていた力が、一気に放出された。伸びた左足が、地面を蹴る。漢大武の、一瞬の加速。それは、少年が計算しつくしたタイミングを、真正面から打ち破った。
「う……がああああああ!!」
それでも、少年は足掻いた。動くほうの掌を、己の体の前に添えたのだ。先程のダイゴと同じように、攻撃に対するクッションにするつもりであろう。しかも、その掌は燃えていた。これならば漢大武を阻みながら、ダイゴの体の一部に火傷の一つでも負わせられるであろう。今の彼の負傷を考えるに、その火傷だけでも、案外勝負が決まるかもしれない。
そんな攻守一体の少年の対応に、ダイゴは加速しながら一瞬思考した。
(大武じゃ駄目だ。あの掌に当たらねえような、もっとピンポイントな攻撃をしねえと)
その一瞬の集中が一ミリ意思を強靭にし、魂気をより上質なものに仕上げたのであろう。心象は今までよりも、僅かばかり巨大な力を彼に与えた。黒く焦げ付いたダイゴの掌の筋肉に、力を渡したのである。
瞬間、ダイゴの真っ黒い掌は拳を象っていた。もう、やるべきことは一つであった。
肩に、力が漲っている。その部位の筋肉が伸縮し、上腕を加速させる。上腕に、力が漲っている。その部位の筋肉が伸縮し、拳を加速させる。全身の加速の中で行われた、二度の加速。それにより、一瞬の内にダイゴの大武は、進化した。
≪漢除留斗≫
加速に加速を重ねた、漆黒の右拳は矢となって。少年の左掌を横切り、彼の腹部にめり込んだ。ベキベキベキベキ。パキャッ。およそ人体から出てはいけないような音が、響き渡る。がらんどうな工場内に反響する、そんな破壊音をバックコーラスにして。少年は大量の血を吐きながら吹き飛んだ。
右のジョルトの勢いを殺しきれず、ダイゴはその体を転がす。深紅のラインが、幾線も床の上に描かれた。その直線状に、浮遊していた少年が落下する。と同時に、空中に尾を引いていた彼の血が、べしゃりと床を彩った。二体の血達磨が、蹲る。
「……うぅ」
そのうちの一つが、動いた。ダイゴだ。今の技で左脚もお釈迦になってしまったらしく、匍匐前進で少年へと近付く。何故近付くのか。決まっている。まだ息があるように思われる少年を、殺すためだ。
ジグザグの血痕を残して、ダイゴは直ぐに少年に辿り着いた。心象を用いて、腕の力を強化したのである。それから彼は、伏せている状態で、仰向けに転がっている少年の首に、黒い右手を掛けた。この際彼は、少年の顔が見えないように、視線を床に這わせ続けていた。
(殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す)
念仏の様に、心の中で繰り返し繰り返し唱える。自分に言い聞かせているのだ。そうしなければ、弱くて迷いやすい彼は、また自分に甘い選択をしてしまうから。
それなのに、彼の掌には力が入り切らない。焦げ付いた手の筋肉は、もうしっかり動くのに。
(何で迷ってんだよ俺。このまま少し手に力を入れるだけで、殺せるだろうが。それに)
ここで殺さなくては、俺は半端なままだ。半端な覚悟で戦闘を行い、半端な魂気で心象を稼働させ、半端な筋力しか発揮できない、そんな半端な俺のままだ。そんな体たらくで、果たして強くなることが出来るのか。何もかもが生前の甘ったるい常識では測れないこの世界で、生きていくことが出来るのか。
(出来る訳、ねえんだ。そんなこと、端から)
本当は、理解していたのかもしれない。血まみれのアッシュを見た瞬間から、この世界で非情になれないものは、生きてはいけないということを。それでも、今まで耳を塞ぎ、鍛錬に身を任せることで思考を停止し。本当はどこにも足を踏みだしていない状態で、甘い己の信念に陶酔していただけなのかもしれない。
そんな自分を変えるためには。本当の意味で、一歩踏み出すためには。
(殺す)
何度目になるか分からない、殺意の表明。それが終了した時、彼は自分の掌に力が入ることを確信した。このまま一気に握れば。迷う間もなく、少年の命を絶てる。俺は、強くなれる。
「うぅ……! ああああああああ!!!」
咆哮。絶叫。あるいは悲鳴。迷いを断ち切るように、血混じりの声を轟かす。頭の中が、真っ白になる。
「あ……あ?」
だが、その時。少年の周囲に、何かが散らばっているのが、ダイゴの小さな視界に入った。それは、白い破片だった。大小さまざまの、欠片。丸っこいもの。流線型のもの。角ばったもの。いくつか、血で汚れたものもある。それら全てが、元々何か一つの物体を構成していたことは、想像に難くなかった。その元々の物体が何なのか、ダイゴは無性に気になった。嫌なことを、先延ばしにしたいという欲求も、それには絡んでいただろう。
視線を動かす。何か手がかりがないか、探すために。すると、直ぐにそれは見つかった。
「……何だ、これ」
白く小さな、楕円形の紙。血に汚れた何かの残骸の中心部に、それは横たわっていた。手を伸ばす。それが一体何なのか、知るために。
「それに……触るな……」
その時、それまでぴくりとも動かなかった少年の右手が、ダイゴの手首を掴んだ。突然のことに、心臓が跳ね上がる。しかし、ダイゴの手首を、少年が焼くことはなかった。どうやら、もうそんな魂気は残っていないらしい。
「……大切な、もんなのか」
手首が焼かれることはないと思い、少し安心したのだろう。ダイゴは、少年に聞いた。
「……」
しかし、少年は答えることも、頷くこともしなかった。ただ、ダイゴの手首を握り続けていた。
「……そうか」
本気を出せば、簡単に振り払える程度の力しか、少年の右手には宿っていなかった。それなのに、ダイゴはそれを振り払うことはしない。ただ、力を抜いて、己の右手を地面に横たわらせた。
「……」
少年は黙ったまま、ダイゴの右手を離した。その口からは、未だに血が流れ続けている。
「……なあ」
ダイゴは口を開いた。その掌は、地面に横たわったままだ。
「何で、こんなことしたんだよ。お前」
「……」
「……大事な奴でも、養うためか」
「…………」
「………仮に、そうだとしたらよ。……俺は、……俺はよぉ……。……お前が憎くって仕方がねぇよ。何でお前、救いようのねえ糞ったれじゃないんだよって……恨み言を吐きたくて、仕方がねぇよ……」
ダイゴの瞳は、血で汚れた地面を向いていた。しかし、その瞳には何も映ってはいなかったし、宿ってもいなかった。ただただ、虚ろであった。
「……そうじゃないと言えば、……俺を殺してくれるか」
ダイゴの目が、少年を映す。赤髪の彼から発せられた言葉の真意が、理解できなかった。
「……殺してくれよ」
少年の二言目に、ダイゴの虚ろな目が見開かれた。身体が硬直する。薄紅色の汗が肌を伝う。そんな彼に、少年は続けた。
「……どうしたんだ。殺すって、息巻いてただろ。お前にとって、何もかも好都合な筈だろ」
ダイゴは息を呑む。少年の言う通りだ。自分は少年を殺さなければ、半端者のままだ。それに加えて、少年が自ら死を望んでいる。利害は一致していた。だが。
「……こ、このまま殺したんじゃよ。夢見が悪くなんだよ、俺の。お前にどういう事情があったのか、気になってよ」
ダイゴは手を横たえたまま、言った。その声は震えている。
そんな彼の言葉に、少年は血生臭い溜め息を吐いた。それから、その青い瞳を閉じて、言った。
「……すまない」
直後、少年が取った行動は、ダイゴを再び驚愕させた。何と彼は、右手でもって自らの首を、締め上げたのである。自殺する気だ。それも、ロープでは無く己の肉体を使って。そんな無茶を行う程に、少年は追い詰められているのか。坊主頭の内側の脳に、そんな思いが浮かんでは消える。
「お、お前!!」
とにもかくにも、ダイゴは叫ぶ。しかしその瞬間。
「や……め……」
彼の意識が輪郭を失い、揺らぎだした。肉体の酷使に次ぐ酷使。血液の浪費に次ぐ浪費。それによって蓄積された疲労が、ここにきて彼を蝕み始めたのである。
(畜生……! これじゃあ……!!)
仄暗くなっていく視界の中で、少年の顔が血の色に染まっていく。そんな有様を目の前にしても、ダイゴの体からは力が抜けていく一方であった。きつけに己の顔をビンタでもすれば、少しは動けるようになるかもしれない。しかし、今のダイゴには自分を殴る力すら、残ってはいなかった。
(これじゃあ……チューリップ野郎が死んじまう……)
意志が萎びていく。精神が枯れていく。ほんの少しの心地よさを感じさせる微睡が、ダイゴを包み始める。赤子にとっての、母の腕の中の様に。その意識の混濁は、ダイゴに安寧を与えた。
(……もう、良いか。……俺は端からこいつを殺すつもりだったんだ。ここで、こいつを助けることは、……結局ぬるま湯へと逃げることに過ぎねえんだ。ここで選択しておかねえと、きっと俺は何時まで経っても足踏みを続けるんだ。……そうだ、これが正解だ。……これで、良いんだ)
そこで、彼の思考は完結した。彼の理性は、見捨てることを選択した。彼の脳は、強くなることを選択したのだ。
ダイゴの右目から、血が垂れた。ダイゴの左目から、涙が垂れた。
「……俺は、弱いなあ」
呟きと共に、ダイゴは心の中で安寧に唾を吐いた。彼の魂は、少年を見捨てることに恐怖し、拒絶したのである。
しかし、彼は動けない。それどころか、一瞬息を吹き返した精神が、再び闇に呑まれ始めた。意思が弱まっているために、心象さえ使えない。そうこうしているうちにも、眼前の少年は死へと向かっている。
(畜生……! 誰か……俺に活を入れてくれ……! 誰か……!)
それは、祈りであった。自分の力ではどうにもならなくなった末の、他力本願。しかし、都合よく『誰か』が駆けつけてくれることは、ついぞなかった。
彼の裸の足に、熱い『何か』が触れた。それは本当に、とんでもない熱を発していた。ダイゴの消えかかった意識を、一瞬で現実に引き戻すほどの熱を。
「おおおおおおおおお!!!」
唾と血を吐き散らしながら、涙と血を流しながら、ダイゴは少年の右手首を握り、引きはがした。瞬間、激しい咳音が工場内に木霊する。ひとしきりせき込んだ後、少年はダイゴの方を見た。その青い瞳からは、もう殺意は感じられない。ただ、揺れているのみだ。
「……何で助けた。……なんてことは、聞くなよ。……俺も、言い訳を探してる最中だからよ」
ダイゴが笑う。その意識は、未だはっきりとしていた。脚に依然としてへばりついている、熱い『何か』のおかげである。
「……何で泣いてるんだ」
しばしの無言の後、少年が口を開く。その瞳は、揺れている。真っ直ぐに。透明に。
「……弱いから、かなぁ」
すぐ泣く癖を治さなければと、昨日誓ったばかりだ。にも拘らず、もう彼は涙を流している。つくづく、俺は駄目な奴だ。心の中で自嘲しながら、ダイゴは問い返す。
「……何で、死のうとしたんだよ」
「……」
「……答えたくねえなら、別に良いぜ」
「……妹が」
「え?」
「……妹が殺されることが、確定したからだ。……俺が動けなくなった、その瞬間からな。……妹だけに、死の恐怖と苦痛を味合わせたくはなかった。だから……死にたかったんだ。……可能な限り、苦しんでな」
やはり、俺はこいつを恨まねばならないようだ。そう思いながら、ダイゴは問う。
「……誰にだよ」
「……『昇る太陽』」
瞬間、ダイゴの脳裏にスミオやメアルの姿が蘇る。
「……犯罪を起こさねえと妹を殺すって、昇る太陽の奴らに脅されたのかよ」
「……厳密には違う。……いや、まあ同じようなものか」
「獄犬に、通報すりゃあ良かったじゃねえか。そうすりゃあ、妹を助けてやることだって……」
少年は首を横に振る。その瞳には、うっすらと悲しみのようなものが滲んでいた。
「それは、出来なかったんだ。……それをすると、今度は別の組織に妹は殺される」
「……そう……か」
少年には、犯罪を起こす以外に、選択肢は無かったようだ。そう考えた時、ダイゴは無性に悲しくなった。と同時に、どうにかして少年を、この哀れな兄貴を、助けてやりたいと思った。
「……お前の妹って、まだ生きてるか」
「え? あ、ああ。少なくとも、今日のうちは無事だ」
「……昇る太陽の連中に、捕まってたりはしないか」
「……ああ」
少年の肯定に、ダイゴは続けた。
「……妹の居場所、分かるか」
「……ああ。この地区の端にある、古いアパートの202号室だ。俺と妹は、そこで雨風を凌いでるんだ。……家賃は、滞納してしまっているが」
「アパートの名前は」
「……『はごろも荘』。……お前、もしかして」
ダイゴは真っ直ぐと少年を見据えて、言った。
「……今から速攻で向かえば、その昇る太陽とは別の組織に妹が殺される前に、救い出せるかもしんねーからな」
その言葉に、少年は目を見開く。それから、その視線をダイゴの右目、左腕、左脚に、順番に向けた。
「……何でだ。何で、そこまでしてくれる」
「……情に絆されやすいんだよ、俺。……馬鹿だからよぉ」
少年はまだしも、その妹は一般市民である。故に、そんな妹を守ることは、獄犬としての当然の義務である。そんな理路整然とした受け答えを、しかしダイゴは出来なかった。結局彼は、甘ったるく青臭い感情に、身を任せただけなのだ。
「……そうか」
少年は一言、呟いて。そして黙った。その瞳は、もう揺れていない。ただ、今の彼の瞳はどことなく。ダイゴのそれに似ていた。そしてその瞳の方が、なんとなく少年には合うように、ダイゴには思われた。ひょっとすると、元々の彼の瞳は、殺意を宿すような、そんな代物ではないのかもしれない。
「なあ」
「んあ? どうした」
ダイゴが問う。すると、少年は言った。
「……お前、名前は何て言うんだ」
「……大山大悟。……お前は?」
少年は一呼吸置いてから、答えた。
「……ミディーだ。ミディー・レッドマン。……まあ、俺の名前は憶えなくても良い。もう、会うことはないかもしれないからな。でも、妹の名前と、顔は覚えておいてくれ」
ミディーは、床に置いてある紙を手に取ると、それをダイゴに見せて言った。
「これが俺の妹の、レアだ」
その紙は、写真であった。どうやら、先程地面に散らばっていた白い破片は、写真入れの残骸だったようだ。除留斗の時に、砕けたのであろう。
しかし、そんなことは、今のダイゴにはどうでもよかった。その写真に、彼の目は釘付けになっていた。
「こ、この子は……」
ダイゴは息を呑んで呟いた。そこに映っているレアの顔に、見覚えがあったからだ。
(昨日……、ゴッツに人質になってた子じゃねえか……)
チューリップを逆さまにしたような、赤い髪。澄んだ空を思わせる、青い瞳。確かに、あの時の少女の身体的特徴は、ミディーのそれとことごとく合致していた。
目を丸くしているダイゴに、しかしミディーは気付かない。少しばかり憂いを帯びた顔で、言った。
「……じゃあ、そろそろ連行してくれ。そうしないと、お前もレアを助けにいけないだろう」
「……ああ」
妹のためとはいえ、罪は罪である。ならば、逮捕しなくてはならない。ダイゴは涙を拭って、後ろを向く。黒く焦げたズボンから捕縛機とDP、それからアパートの鍵が見えていた。どれもこれも、炎程度ではびくともしないらしい。ことわざメダルとは大違いだ。そして、そのことわざメダルといえば。
ダイゴは足元を見た。そこには、溶けて液状化したことわざメダルが、流れてきていた。見れば、ズボンのポケットの中から、その鉛色の小川は続いている。どうやら、先程弾き返された靴が、床にへばりついて固まったことわざメダルを、再び溶かしたらしい。ズボンの近くに転がっている、焦げて更にボロボロになった靴を見て、ダイゴはそう思った。
匍匐前進でズボンに辿り着いた時、ダイゴはそこに治癒香辛料の燃え残りがあることに気付いた。それを呑みこめば、喉が焼けるような感覚に襲われた。どうやら、錠剤の形をしている治癒香辛料は、身を損なうと、粉末時の辛さをその全身に纏うようだ。それに加えて、効力も悪くなるらしい。ダイゴの全身の、特に負傷が酷い部分は、完全に治癒はしていなかった。
うっ血している右足を摩りながら、ダイゴは立ち上がり、ミディーの方へと歩く。その左手には、捕縛機が握られていた。
「なあ、ミディー」
両手に錠を掛けながら、ダイゴが言う。ミディーが何だと問い返せば、彼はこう続けた。
「また、会おうぜ。今度は、互いに綺麗な身体でよ」
「……ああ。そうだな」
ミディーは微笑んだ。その口からは、もう血は流れていない。血の跡がべったりとこびり付いているだけだ。それでも、やはり傍から見れば、その顔は痛々しい。それでも、その笑顔は穏やかであった。
ダイゴも笑い返す。拳を交えた後、彼はミディーに対して友情の様なものを感じていた。ひどく単純な思考回路である。
カチャリ。軽くて固い音が響く。ミディーの両手を捕らえている捕縛機の、そのスイッチに指を乗せる。そんなダイゴに、ミディーが言った。
「……ダイゴ。レアを、頼むぞ」
「……ああ。獄番に任せろ」
ダイゴが頷く。それから彼は、スイッチを押した。ミディーの姿が、消える。服や床の焦げた臭いだけが、後には残った。
振り返る。ズボンと服は、もう着ることは出来ない。ここからしばらく、パンツ一丁で行動しなくてはならないようだ。若干憂鬱になりながら、ダイゴはふと足の裏を見た。そこには、ことわざメダルが溶けたものがへばりついている。鉛色に光る足裏から、ズボンの方へ視線を移す。液体となったことわざメダルは、近くにある乙Tシャツに染みついていた。天井から注ぐ淡い光に反射して、その部分が白く輝いていた。
「また助けられちまったなあ、母ちゃん」
ポツリと溢す。母への感謝と同時に、自分の不甲斐なさを感じた。結局、俺はこの戦いを通して強くなれたのだろうか。漢除留斗という、新必殺技は手に入れた。しかし、それ以外は。
「やっぱ、半端なままだ。弱いままだ」
ミディーを殺さなかったことを、後悔はしていない。しかし、今日と同じことが起きた時。誰かの命の与奪を、その手の中に握り込んだ時。今回と同じように悩んでいては、今度こそ殺されてしまうだろう。
「……今までしてきた選択の中に、どれか一つでも俺を強くしてくれるものが、あんのかな」
結局、今までの命に関する己の行動は、その全てが場の勢い任せだ。だからこそ、後に何も残らないのではないか。財産にはならないのではないか。炭と化したボロ靴を見ながら、ダイゴはそう考えた。
DPと鍵を持って工場から出た時、ジウラとヘルマの姿は無かった。既にどこかに行ってしまったようだ。取り調べとか、しなくていいんだろうか。首を傾げるダイゴであったが、しかし悩んだところでどうすることも出来ない。それより、レアの保護の方が先だ。はごろも荘、というのがどこにあるのか分からないから、一度獄番に戻って、マリオ辺りに場所を聞いた方が良いだろう。ダイゴは、工場から離れようとする。その時。
「あれ?」
三メートルほど離れた地点に、彼はあるものを見つけた。公衆電話だ。直方体のガラスの中に、生前に街や学校で見かけた機械が存在している。ダイゴは思った。一刻も早くレアを保護するためなら、獄番の床を踏むよりも先に、事の次第を電話で伝えた方が良いのではないか、と。
早速、電話ボックスの中に入る。そこでダイゴは気付いた。自分が、誰の電話番号も知らないということに。しかし、彼は焦らずに済んだ。ガラスの内側に、獄番の電話番号が、書いてあったからだ。公衆電話を用いて通報しようとした時、電話番号が分からずに途方に暮れるということを、防ぐための処置であろう。取りあえず、ダイゴは受話器を取って、数字の刻まれたボタンを押す。電話をする先が獄番だからか、DPは入れなくても良いらしかった。
一度のコール音も無しに、電話がつながる。お相手は、例の機械音声であった。
『こちら獄番。どうされました』
「あ、すんません。助けてほしい人がいるんですけど」
『その声は、ダイゴ研修生ですか。たった今、獄牢からミディー確保の報告があったところです。お疲れさまでした。それで、助けてほしい人というのは』
「そのミディーの、妹です。この地区のはごろも荘ってところの、202号室に住んでるらしくって。このままじゃ、命が危ないって……。その、急いで保護してあげて下さい! いつ何が起こるか、分かったもんじゃないんで!」
『……成る程。確かに私の中に存在しているデータによると、そこにはミディーの妹であるレアさんが居住していますね。了解しました。今すぐ、獄犬隊員を向かわせます』
「お願いします! では!」
そう言って、ダイゴは受話器を置いた。同時に、安堵が押し寄せてくる。これで、一先ず安心だろう。そう考えて、ダイゴは電話ボックスから出た。その時である。
「おーい、そこの坊主頭の兄ちゃん」
男の声が聞こえてきた。その方を向けば、そこには作務衣を着た男が居た。彼もまた坊主頭であった。その頭から右目を経由し顎にかけて、一本の刃傷が刻まれている。その姿に、ダイゴは見覚えがあった。死者の家に居た、獄犬隊員である。ということは、彼は自分の先輩にあたる人だ。そう思い、ダイゴは慌ててお辞儀をした。
「あ、お疲れさまです! パトロールッスか?」
「いや、今日はプライベートだがよ。ってかテメェ、俺が犬っころだって知ってんのかよ。じゃあ話は早ぇわな。……兄ちゃん、何でテメェパンツ一丁なんだコラ」
その時、ダイゴは気付いた。自分に対する男の視線が、変態を見るそれであるということに。同時に、周囲から視線が突き刺さっているのを感じた。これはいけない。ダイゴは汗を垂らして頬を掻く。
「い、いやあ。あのですね、これには山よりも深く海よりも高い訳が」
「逆だこの野郎。で、何で脱ぎやがった。あれか、開放感を求めた結果か。クールビズの最終形態かコラ」
「分かってないッスねぇ。外で人間が裸になる時、その理由の殆どは『他人に見られると興奮するから』ですよ」
男の獄犬での今後の活動において、少しでも糧になればと思っての発言であった。今自分が凄まじい勢いで墓穴を掘ったということに、馬鹿なダイゴは気付かない。それどころかその表情には、良いことをしたという達成感が滲んでいる。
カチャリ。
聞き覚えのある音に、見覚えのある感触。ダイゴは己の両手首を見る。黒い手錠が、そこには掛けられていた。
「え、ちょっ。……え?」
「えーっと、公然わいせつだっけか。そんな感じの罪で逮捕」
「えええええええ!? 嘘!? まだ最終形態になってないッスよ俺!!?」
「残念だったなメインディッシュを堪能できなくてよ。代わりに臭い飯でも食ってこい変態」
鼻をほじりながらそう言って、男は捕縛機のボタンを押す。ダイゴの弁明が、ブツ切れた。
この章のタイトルは、このオチのために存在していた……?




