冷蔵庫の中のコーヒー
微糖です。
「ふんっ・・・!ふんっ・・・!」
日の光差し込む部屋の中に、曇った声が響く。床には汗の水溜りが出来ており、室内の空気は湿っている。他人が入ってくれば、まず良い顔はしないであろう部屋の中で、この室内環境を作り出している当人であるダイゴは、依然として腕立て伏せを続けていた。
「ふんっ・・・!ふんっ・・・!」
ゆっくり、ゆっくり。一回ずつ丁寧に、ダイゴは己の体を押し上げる。彼の全身には汗が滲み、少しばかり湯気も出ていた。それもそのはず、彼は不安からくる激しい動悸によって通常より早く起床してから現在まで、この運動を一時間近くしている。腕と胸の筋肉は盛り上がり、太い血管が何本も浮き出ていた。肉体的な限界はとっくの昔にきており、彼自身も少なからず痛みを感じている。しかし、それでも彼は鍛錬を止めようとはしない。己の体を苛んでいる内は、心に生じた迷いを忘れられるからである。
「ふっぐぅぅぅう・・・!」
しかし、それでもいつかは精神ではどうにもならない限界が、肉体には訪れる。それが今だった。ダイゴは、最後にもう一度だけ己の体を押し上げた後、汗だまりの中に身を沈めた。荒い呼吸が水気を帯びた大気を揺らす。
「はぁっ・・・!はぁっ・・・!はぁ・・・、はぁ・・・。・・・ふぅ」
呼吸を整え、ダイゴは身を起こす。その眼が時計を捉えた。針は朝の六時を示している。立ち上がり、汗だまりから少し離れたところに置いてある、着替え袋に手を伸ばす。開ければ、中にはピンク色のタオルが入っていた。ダイゴが死者の家でコピーしてもらった物ではない。恐らく、昨日マリオが追加で袋の中に入れてくれたのであろう。ダイゴはそう考え、今自分の住むところからは離れたところに住んでいるマリオに感謝し、それから全身に伝う汗を拭った。
白いTシャツに、黒く『乙』と染め抜いてある服へと着替えを済ませ、冷蔵庫を見る。中には、昨日お隣さんであるレンに貰ったコーヒーの缶が、一本しかなかった。
「外で食うか」
ぼそりと呟く。落ち込んでいようと、動揺していようと、減る時は減る。腹とはそういうものだ。朝食が液体のみでは、とてもではないが今日一日持たない。ぐぅと鳴いた腹の虫を忌々しく思いながら、ダイゴは取りあえず缶コーヒーの賞味期限をチェックする。
「あと一週間はもつな」
冷蔵庫に缶を戻して、ダイゴは床に無造作に置いてある汗で濡れた服に近付き、これを手に取る。このままではカビ臭くなってしまう。いや、そもそも死後の世界にカビっているのか?流れるように二つの思考を終えた後、ダイゴは服を持ってバルコニーに出た。ダイゴの心情など毛ほども気にしない太陽は、今日も明るく街を照らしている。これならば、ダイゴの心はともかくとして、服はそのうっとうしい湿り気から解放されるであろう。前の住人であるバロックが置いていってくれたらしいハンガーに服を掛けながら、ダイゴはそう思った。
バルコニーから戻ってきてから、様々な出勤のための支度をした後、ダイゴは部屋を見回した。
「えーっと、DPは・・・あった」
畳んである布団の傍に光るコイン状の物体を見つけ、それを拾い上げる。これが無ければ、一人暮らしをしている今、飯を食べることは出来ない。本来ならばこういったものは財布にでも入れておくべきなのだろうが、今のダイゴはそのような物は持っていない。仕方なくDPをズボンのポケットに突っ込み、ダイゴは部屋を再び見回す。すると、DPとは違う、鈍い光を放つものが目に留まった。
「・・・念のため、これも持っていっとこう。ゼインの時みてぇに、飛び道具として使うかもしれねぇし」
そう呟き、ダイゴはことわざメダルを拾い上げた。しかし、その視線は無意識のうちに“愚者にも一得”の文字から外れていた。
「よし、行くか」
DPの入っているところとは別のポケットにことわざメダルを突っ込み、部屋を出る。まだ朝の六時半であるが、朝食を外で食べるためにはこのくらいの時間に出た方が良いだろう。空きっ腹が再び鳴くのを無視しながら、ダイゴが扉に鍵を掛けている時であった。
「おはようダイゴ」
背後から聞こえてきた男の声に、ダイゴは振り向く。するとそこには、昨日彼にコーヒーをくれたレンが立っていた。その姿に、ダイゴはすぐに頭を下げて昨日の礼を口にした。
「おはようございますっス、レンさん。昨日はありがとうございました。コーヒー、今夜あたりに飲ませていただきますっス」
「あはは、律儀だね君は。まあ、じゃあ明日にでも味の感想を聞かせてよ。・・・ところで、こんな朝早くにどうしたんだい?ジョギング?」
「ああ、いや。そういう訳じゃないっス。昨日弁当とか買ってきてなかったんで、今日の朝飯が家に無いんスよ。だからコンビニでおにぎりでも買って、それから獄番の方に向かおうと思って」
ダイゴのその言葉に、レンは少しだけ考える素振りを見せた後、口を開いた。
「あのさ。もし良かったら、おにぎりでも作ろうか?その方が食費も浮くでしょ」
「え、良いんスか!?」
願ってもいない申し出に、ダイゴは目を輝かせる。確かに、そうして貰えれば非常にありがたい。だが、流石にそれは図々しいことなのではないかと考え、ダイゴは眉尻を下げてレンに言った。
「でも、ご迷惑じゃないっスか?」
「良いよ良いよ。ご飯も出勤までの時間も、まだ沢山残ってるからさ。君の分のおにぎりを作ることくらい、訳無いって」
「れ、レンさん・・・」
レンの言葉に、ダイゴは猛烈に感動して涙を流した。今日も今日とてこのハゲの涙腺は脆い。
「ま、少し待っててよ。四十秒で出来るから」
そう言い残して、レンは自分の部屋に引っ込んでしまった。そしてその言葉通り、レンはすぐにおにぎりが入っているであろう箱を携えて、部屋から出てきた。
「お待たせ。中に入ってるおにぎりは五個だけど・・・足りる?」
レンの視線が、ダイゴの無駄に大きい図体に向く。ダイゴは頭を掻きながら笑った。
「スゲェ足りるっス!いやあ、昨日に引き続いてレンさんには借りが出来ちまいましたっスね」
「気にしなくて良いさ。俺は俺のやりたいようにやっただけだから」
レンは笑って答える。良い隣人を持ったと、ダイゴは心の底から思った。
「ああは言われたけど、でもいつかレンさんには恩返ししねぇとなぁ」
そう言いながら、ダイゴは箱を持って街を歩く。既に彼はMARIのある繁華街に居た。ここまで来れば、獄番は近い。
「でも、恩返しってどんなことすりゃあ良いんだろ?やっぱ、飯のおすそ分けとかかな。でも、俺おむすびかおにぎりしか作れねえし」
おむすびもおにぎりも同じものではないのか。
「・・・どっかで買うかな」
実質一品しか料理レパートリーがないダイゴは、自分の力ではレンに渡せるような品は作れないと考え、市販の食べ物などをおすそ分けすることにした。
「・・・今手持ちはいくらだっけか」
おすそ分けのための費用を確認しようと、ポケットに手を伸ばすダイゴ。いくらも何も、お前の手持ちは一万Pワンコインだろ。それくらい覚えておけよ。
「えーっと・・・」
ポケットからコインを出すダイゴ。しかし、その色は鈍色であった。間違えてことわざメダルの方を出してしまったらしい。“愚者にも一得”の文字が瞳に映る。
『信念は鎧にもなるけど、拘束具にもなるのよ』
『お前の信念って親父の猿真似ってことか』
ダイゴの無意識が抑え込もうとしていた言葉の記憶が、束になって蘇る。
(・・・俺の信念は、鎧として機能してんのかな)
いや、機能してはないだろう。逃げてはいけないという、ある種の強迫観念として、拘束具になってはいるが。
(・・・使いこなせてねえよな。自分のもんになってねえから)
そういう意味で、やはり猿真似だ。ダイゴはそんなことを、今日もまたうじうじ考え始めてしまっていた。
それがいけなかった。考え事のせいで視野が狭くなり、周りの状況が見えなくなっていたダイゴは、誰かの肩にぶつかってしまった。
「あっ!す、スンマセン!」
咄嗟に肩が当たった相手の方に頭を下げるダイゴ。謝りながら、彼は自分の不注意を恥じた。
(いい加減うじうじすんのやめろよ俺。他の人に迷惑かけちまったじゃねぇか)
己を責めながら、ダイゴは面を上げる。すると、上から降りてきた世界の中に、一人の男の姿があった。その眉間には皺が寄っており、不機嫌そうな印象をダイゴに与えた。
(やっべ、怒らせちまったか!?)「あの、マジで申し訳ないっス!何とお詫びして良いのやら・・・あ、そうだ!」
何を思ったのか、彼は手に持った箱を開けて、中に入っているおにぎりを男に二個差し出した。おにぎりの色は焦げ茶だ。焼きおにぎりだろうか。
「どうかお納めくださいっス!」
どうやら、食べ物を献上することで許してもらおうという魂胆らしい。しかし、いくらなんでもそれは無理があるだろう。それで許してくれるのは余程の聖人か、余程の食いしん坊である。
「・・・チッ。次からは気を付けろよゴミハゲ」
だが、どうやら男はそのどちらかだったようだ。彼は低い声でそう言った後、ダイゴの掌からおにぎりを取り、朝の街に消えてしまった。
「ご、ゴミハゲ・・・」
幸運なダイゴは、しかし男の自分に対する呼称に少しばかりショックを受けていた。ハゲとは呼ばれ慣れているが、ゴミは初めてだ。どちらも蔑称には変わりないのだが。
「・・・ま、良いか。てか、レンさんに感謝しねえと」
ぶつぶつと呟きながら、ダイゴは再び一歩踏み出した。しかし、その一歩はどこか重かった。手の中にあることわざメダルと、胸の中にある悩みのせいである。
(・・・さっき、自戒したばっかなのに、もう気が重たくなってやがる。・・・悩みやすいのも、俺の弱さだな)
今日もまた、自分の弱さに気付いた。何だか、最近かなりの頻度で己の弱さに直面している気がする。しかも、弱さとの対面は悩みに変わるばかりで、糧にはなっていない。澱のように重なっていく悩みでずっしりと重くなった溜め息が、ダイゴの口から落ちた。
「お早うございまーすっス」
「あ、ダイゴさん。お早うございます」
待機室に入ると、そこには既に先客が居た。サレムである。
「あれ、まだマリオさんやニゾウさんは来られてないんスか?」
部屋を見回して、ダイゴは問う。すると、サレムは笑って言った。
「ええ。ニゾウさんは『賽の河原』での仕事がありますから、朝は忙しいんですよ。マリオさんは・・・ええと、夜のお仕事の都合上、早起きが苦手みたいで」
「なーるへそ。・・・ところで、前から気になってたんスけど「賽の河原は、児童養護施設のようなものです。幼くして亡くなった子ども達を、死後の世界でも生きていけるような精神年齢になるまで育てるための。死界には、この賽の河原のような施設が沢山あるんですよ」もう驚かないっスからね!」
いつもの如く心を読まれて動揺するダイゴであったが、流石に何度もやられてはリカバリーも早くなるらしい。サレムに聞く。
「ってことは、ニゾウさんは賽の河原ってとこの職員として働いてるってことっスか?」
「はい。まあ、職員というよりも、創始者ですけどね」
「マジっスか!?」
ポカンと口を開けるダイゴに、サレムは笑う。
「ええ。まあ、死界の路頭に子どもが迷うのを見たくなかったんでしょう。ニゾウさん、子どもが好きですから」
「なーるへそ」
そう呟きながら、ダイゴはユダの顔を思い浮かべる。そういえば、彼も子どもが好きだった。
「そういう意味じゃないです!」
サレムが鋭い突っ込みを入れた。心が読める彼女だからこそ出来る芸当だ。このやり取りを他人が見たら、奇怪に思うだろう。そんなことをダイゴが考えた時であった。ぐぅ、と彼の腹が鳴った。
「・・・貰ったおにぎり食おっと」
そう呟いて、ダイゴは手に持っている箱を開けた。中には、サランラップに包まれた茶色のおにぎりが三個入っていた。
「焼きおにぎりですか。良いお隣さんを持ちましたね」
箱を見ることなく、サレムが言った。ダイゴの思考を読み、箱の中身と、その箱をくれた人物を知ったようだ。便利な心象だなぁ、と改めて感心しながら、ダイゴは口を開いた。
「そういやあ、サレムさん今日はもう朝飯食ったっスか?」
「え?・・・いやあ、実はまだ食べてないんですよ。さっきまで調べものしてて」
何を調べていたのだろう。そう思いながらも、ダイゴは二の句を継いだ。
「んじゃあ、サレムさんも食います?」
「え?い、良いんですか?」
「サレムさんには世話になったっスから」
そう言いながら、ダイゴはおにぎりを一個取り出し、サレムに差し出した。
「す、すみません」
ぺこりと頭を下げてから、サレムはそのおにぎりを受け取る。それから、貴重品を扱うかのようにおずおずとサランラップを外して、一口かじった。
「どうっスか」
ダイゴが問う。その表情は少し得意げだ。お前が作ったわけじゃないだろうに。
「・・・えーっと」
しかし、そんなダイゴの問いに対して、サレムは目を泳がせるばかりで答えようとしない。
(はて、こりゃあ一体どういうこった)
サレムの反応に首を傾げながら、ダイゴは箱を机の上に置き、そこからおにぎりを取って食べた。刹那、ダイゴの全身に脂汗が浮いた。
(何これ苦い)
レンが作ってくれた茶色いおにぎり。さぞかし醤油の良い匂いと味がするだろうと思いきや、そこに内在していたのは苦みであった。それに加えて、醤油とは少し違った香ばしさが鼻腔を通り抜ける。この二つの要素が示すものとは。
「・・・コーヒー?」
ダイゴよりも先に、サレムが口を開いた。その言葉に、ダイゴは納得すると同時に疑問を抱いた。何故、おにぎりからコーヒーの匂いと味がするのだ。その思いを読み取ったのか、サレムが再び言葉を紡ぐ。
「もしかしたら、コーヒーで炊いたご飯でおにぎりを作ったのかもしれませんね。その、レンさんという人は」
(レンさん is crazy.)
ダイゴは戦慄した。レンさんに限って、コーヒーおにぎりを使って嫌がらせをしてきたとは考えられない。ということは、彼は善意でコーヒーおにぎりをダイゴにくれたということだろう。そういえば、レンさんは昨日もダイゴにコーヒーを進めてきてくれた。もしや、レンさんはコーヒーに対し並々ならぬ信頼と愛情を持っているのかもしれない。
「愛と狂気は紙一重ですね」
サレムの言葉に、ダイゴは神妙な顔で頷いた。と同時に、ダイゴは朝自分がコーヒーおにぎりを奉った男に対して、心の中で謝罪した。
「香ばしくて美味いなこれ」
その頃、男は路地裏でコーヒーおにぎりを頬張りながら、そんなことを呟いていた。どうやら彼は、後者であったらしい。
「ところで、サレムさんは何を調べられてたんスか」
そう問うダイゴの口の端には、コーヒーで濁った米粒が付いていた。貰った手前残すのも失礼だろうと考え、残った一個も含めて、二個のコーヒーおにぎりを胃の中に収めたのである。そのお陰か、ダイゴの腹の虫はもう大人しくなっていた。コーヒーおにぎりの味に、食欲が減退したということも無関係ではないだろうが。
「ラムドレーが言っていた、少女についてです」
サレムが答えた。一個のコーヒーおにぎりを完食した彼女の、その口元に米粒はない。まあ、当たり前っちゃあ当たり前だが。
「少女ってえと、あれっスよね。ラムドレーさん達を襲ったっていう」
ダイゴは昨日ラムドレーに聞いた話を思い出す。彼の話によれば、その少女は舌を伸ばす心象を持っており、恐らくそれを駆使してレンブとクララを殺した。また、ローレンという人物を探しているらしい。
ダイゴの問いに、サレムは頷く。
「その少女について、私は昨日、獄牢にいるラムドレーとレンブに話を聞いたんです。クララは、・・・殺されたショックで、少女についてに話せる精神状態では無かったですけど」
やはり、レンブとクララは既に獄牢に収監されていたらしい。ダイゴはサレムの話の続きを聞こうと、耳を傾ける。
「それで、二人の証言や記憶から分かったんです。彼ら二人が少女の“今まで貴方のお仲間を殺してきた組織の一員ってところかな”という言葉を聞いていたということが」
確かに、昨日ラムドレーは少女がそう言っていたということも、ダイゴに話していた。その言葉は、やはり嘘では無かったのだ。
「そんなに高い頻度では無いのですが、以前から犯罪者が何者かによって殺されるという事件はありました。私達は、それらの事件がそれぞれ別個の、無関係のものだと今まで思っていたんですけど。・・・でも、昨日ラムドレー達から話を聞いて、少しだけ思ったんです。実は、それらの事件の何件かは、同じ加害者によって引き起こされたものなのではないか。つまり、今回レンブ達を殺した少女が所属しているという、組織の人間によって引き起こされたものなのではないか。って」
成る程。言われてみれば、そういう考え方もありなのかもしれない。すると、サレムが少女を調べていたのは、少女を通して彼女の所属している組織について、何か情報を得るためだったのだろうか。ダイゴがそう思っていると、サレムが微笑んだ。
「その通りです。冴えてますね、ダイゴさん」
「グヘヘ、それ程でも」
ゲス笑いと照れ笑いの融合した笑顔を浮かべるダイゴ。今日も今日とて気持ち悪い。そんなダイゴに対し、サレムがこう言った。
「ところで、ダイゴさん。ダイゴさんは、昨日イットクの死体に遭遇しているんですよね」
その言葉に、一瞬ダイゴの体が強張る。思えば、昨日のショッキングな出来事は、イットクの骸との邂逅から始まった。その後胸に抱いた決意も、簡単に瓦解した。そこまで考えて、ダイゴは頭を横に振った。このままでは先程の様に再びうじうじ悩み始めてしまう。そんな弱い自分を否定するために、ダイゴは悩みの種を頭から追い出して、サレムに聞いた。
「確かに、昨日俺はイットクを見たっスけど・・・それがどうかしたんスか?」
「その、イットクを殺した犯人も、件の組織の一員ではないかと私は睨んでいるんです。だけど、そうは言っても確証はない。ですから、手始めにその時の死体の状態を知ることで、何か分かることがあるのではないかと思ったんです」
サレムは死体の状態をダイゴに聞くことで、というよりダイゴの心の中を読むことで、イットクを殺した犯人を少しでも絞り込むつもりなのだ。そのことを理解したダイゴは、しかしサレムにこう聞いた。
「でも、そんなことは俺に聞くよりも、イットク本人に聞いた方が良いんじゃないっスか?」
その言葉に、しかしサレムはかぶりを振る。
「イットクは、・・・今天番に居ます」
「え?これまたどうして」
「分かりません。ただ、昇る太陽の構成員と、犯罪組織のリーダーなどの危険度の高い悪人は、天番が引き取ることになってるんです」
ダイゴは首を傾げた。疑問に思ったのだ。天番のそのシステムに対してだけではない。イットクが危険度の高い悪人であると判断されていることにである。ラムドレーの話を聞くに、イットクはそこまで危険な人間のようには感じなかったのだが。そう考えていると、サレムが少々俯いて言葉を紡いだ。
「天番が犯罪者を引き取る基準は、私にもよく分かりません。犯罪組織のリーダーは全てが引き取られることはないのに、どうして今回イットクが引き取られたのか。加えて、どうして昇る太陽の構成員だけは、幹部も下っ端も関係なく、全員引き取られるのか、ということも。・・・多分、多くの獄犬隊員たちが私と同じことを考えていると思います。口には、あまり出しませんけど」
「・・・そうっスか」
そう言えば、自分が獄番に初めて来た時も、サレムは天番に呼び出された際に、今のような沈んだ顔をしていた。彼女は、天番に対して良いイメージを持っていないようだった。そうダイゴが考えていると、サレムが顔を上げて、苦笑いを浮かべた。
「・・・私が今言ったことは、天番の職員には言わないでくださいね。特に、シュワルトさんには」
(シュワルトさん?)「了解したっス!この大山大悟、命に代えてもサレムさんの今の言葉を隠し通すっス!!」
「そ、それは少し大げさですけど・・・」
口ではそう言いながらも、サレムの笑顔は少しだけ柔らかくなった。そんな気がして、ダイゴもぐへへと口角を吊り上げた。
マリオが待機室へ入ってきたのは、それから一時間後であった。マリオはサレムとダイゴに挨拶をした。昨日のことについては触れてこない。ダイゴにはそれがありがたく思えたが、しかし申し訳なさも感じていた。マリオに、気をつかわせているようだったから。
そんなダイゴの複雑な心境を感じたからなのか、マリオはにこりと笑みを浮かべて口を開いた。
「そう言えば、ダイゴちゃん。ダイゴちゃんに、今日はプレゼントがあるのよ」
「へ?ぷ、プレゼントっスか?」
まだ研修は終わっていない。獄犬に就職したことへのお祝い、という訳では無いだろう。ならば、一体何故マリオは自分にプレゼントを。そう考えていると、マリオがポケットから何かを取り出した。
それは、治癒香辛料であった。戦闘を行うごとに毎回傷だらけになるダイゴにとって、これ程嬉しいプレゼントはない。ダイゴは朝の悩みを忘却の彼方へと置き去りにして、破顔しながら頭を下げる。
「ありがとうございますっス!これで心置きなく思う存分全力で戦えるっス!」
今までも全力で戦っていただろう。だからいつも満身創痍になるのではないか。マリオは苦笑した。
「ほどほどにね?本当は、治癒香辛料なんて使わないで済むくらいの軽傷で勝つのが一番なんだから」
「いやあ、実力がないうちはそうもいかないっスよ」
そう言った時、ダイゴは気付いた。毎回ボロボロになるのは、自分が弱いからなのだと。思わずまたうじうじしかけるが、その前にマリオが再び口を開いた。
「実はね!プレゼントはこれだけじゃないのよ!」
そう言いながら、マリオがポケットから取り出した物体。それは、黒い手錠の形をしていた。
「捕縛機・・・」
「あら、知ってたの?」
ダイゴの呟きに、マリオは意外そうに目を丸くする。そんなマリオに対し、ダイゴは再び頭を下げて礼を言った。
「ありがとうございますっス!これが使いたかったんスよ!」
あの時も、という言葉の続きを、ダイゴは慌てて呑みこむ。そして、目前にある黒い手錠をまじまじと見つめた。銀の銃よりも、この道具が欲しかった。そう思いながら。
手錠に目が釘付けになっているダイゴに、マリオは笑った。
「これが使いたかった、か。だったら、使い方も教えてあげなちゃね!」
「オス!ぜひご指導ご鞭撻のほど、お願いしますっス!」
みたび頭を下げるダイゴに、マリオは言った。
「分かったわ。じゃあ取りあえずこの道具を使った犯人の捕まえ方から教えるわね」
「ウス!」
返事と共に、ダイゴは自らの両手首を差し出した。
「え、何この手首は」
困惑するマリオに、ダイゴはあっけらからんと言った。
「やっぱこういうのって、体で覚えた方が良いと思うんスよ!」
その理論で行くと、お前が今から覚えようとしているのは、捕まえられ方になると思うのだが。しかし、そう指摘するのは憚られたのか、マリオは苦笑いを浮かべながらも、頷いた。
「わ、分かったわ。じゃあ、やってみせるわね」
黒い手錠を持つと、マリオはとても滑らかな動きで、ゆっくりとダイゴの手首を拘束した。カチャリ、という音と共に、ダイゴの両手の自由が奪われる。ダイゴはマリオに言った。
「成る程、やり方は何となく分かったっス。でも、これってどうやって外すんスか?」
「ボタンを押せば外れるわ。ほら、そこにあるでしょ。白いボタン」
マリオの言う通り、手錠には白いボタンが付いていた。これを押すことで、手錠が解除されるらしい。
「でも、それじゃあ犯罪者がこのボタン押して勝手に解除して、そんでもってとんずらする可能性もあるってことっスよね」
しかし、マリオは首を横に振った。
「心配は無用よ。そのボタンを押してロックを外すことが出来るのは、捕縛機を犯人に掛けた人間だけだから。指紋、体温、それに加えて捕縛機から発せられる電波によって、使用した人間を正確に把握するから、違う人間によってロックが外されることはないわ。あ、でも獄牢にはその捕縛機を外すための専用の機械があるから、違う人間によってロックが外されることがない、というのは少し語弊があるかしら」
そんなマリオの言葉を聞きながら、ダイゴは自らの腕に掛かっている捕縛機を眺める。すると、その白いボタンの他に、灰色のボタンがあることに気が付いた。ボタンがある位置を見るに、どうやら現在進行形で捕らえられているダイゴでも、それを押すことは可能らしい。ダイゴは聞いた。
「マリオさん、この灰色のボタンってなんスか?」
「ああ、それ?それはこの捕縛機において最も重要な役目を持つボタンよ」
「なるほど!」
そう言って、ダイゴはぽちっとそのボタンを押してみた。
「あっ、ちょっ、待っ」
マリオの慌てた声がダイゴの鼓膜を揺らした。その振動が消えてしまうよりも早く、ダイゴの周囲の世界が音も無く変わった。
「へ?」
マリオも、サレムも、待機室さえも、ダイゴの眼前から消えていた。その代わりに、ダイゴの前に現れたのは。
「こんな朝早くから捕り物か。獄犬の仕事の速さに感心するべきなのか、死界の治安の悪化に溜め息を吐くべきなのか」
黄色い壁と天井に包まれた広い空間に立つ、身長170㎝程の少女であった。その腰まで伸びたプラチナブロンドの髪は、電灯の光を反射して星屑の様に煌めいている。どこか幻想的な美しさを感じさせる目前の少女に、しかしダイゴは見とれることはしなかった。それどころではなかった。非常に嫌な予感がした。
「・・・もしかしてアンタ、俺のこと犯罪者だと思ってらっしゃいますっスか?」
「当たり前だろう。ここは獄牢の犯罪者を引き取る部屋で、かつお前の手にはめられてるそれは捕縛機だ。これでお前が善良な市民だったら、私は昨日ウォッカを浴びる程呑んだ自分を恨む」
成る程、確かに彼女は酷い二日酔いで夢うつつな状態ではないように思われる。しかし、かといってダイゴは犯罪者では無い。ダイゴは必死に食い下がった。
「いや、これは違うんスよ!今俺が置かれてる状況には、山よりも深く海よりも高い訳が!!」
「逆だぞダイゴ」
その時、ダイゴの背後から声が聞こえた。男の声だ。ダイゴの名前を呼んだその声に、彼は確かに聞き覚えがあった。
振り向けば、そこには浅黒い肌の眼鏡を掛けた少年、カンタが立っていた。
「か、カンタさん!!」
「よう。まさか、こんな形で再会することになるとはな。・・・取りあえず、理由を聞かせてもらおうか」
かくかくしかじかまるまるうまうま。ダイゴは藁にも縋る思いで、自分の腕に捕縛機が掛かっている理由をカンタに話した。すると、カンタは呆れた顔で口を開く。
「お前な、そりゃ流石に無鉄砲すぎるぞ。坊ちゃんかよ」
「確かに、爺ちゃんは割と無鉄砲なところもあったって、父ちゃんも言ってたっスけど」
自分の無鉄砲は親譲りではなく隔世遺伝だと弁明するダイゴに、カンタは苦笑する。
「まあ、理由はどうであれ、お前が犯罪を犯したわけではないことは分かった。ヤプラスさん、こいつの捕縛機を外してやっても宜しいですか」
カンタの言葉を受け、それまで二人のやり取りを見守っていた少女は頷いた。
「そういった事情があるのなら、このままにしておく理由は無い」
「ありがとうございます」
カンタは少女に頭を下げてから、獄牢の黒い制服ズボンに携えられている、白い筒状のスイッチを押した。すると、ガチャリという音がして、捕縛機が外れた。ダイゴは驚きながらも、カンタに礼を言う。
「ありがとうございますっス!この御恩は一生忘れないっス!」
「オーバーなやつだな。まあ、今回の様なアクシデントがまた発生したら、俺がこの『解縛機』で助けてやるさ」
どうやら、彼の持つ白いスイッチが、捕縛機を解除できる道具であるらしい。見れば、少女の来ている黒い制服にも、その白いスイッチは取り付けられている。獄牢職員の標準装備なのだろう。そうダイゴは思った。
「しかし、災難だったな。手錠をした人間が、獄牢のこの部屋に一瞬で転送されるスイッチを、その機能を知らずに押してしまうなんて」
「災難というより、自業自得ですけどね」
カンタが少女に言う。全くもってその通りなので、ダイゴは反論することが出来ない。そんなダイゴに、そう言えばと少女が口を開いた。
「カンタ。お前とこの男は、一体どういう関係なんだ?面識があるようだが」
「こいつが一昨日獄牢に見学に来ましてね。その時会ったんですよ。そう言えばあの時、ヤプラスさんは休みでしたから、あの場に居ませんでしたね」
「ああ、おかげで朝から酒が飲めたよ。しかし、一昨日は仕事で疲れてるところ済まなかったな。夜酒に付き合わせてしまって」
「上司の酒に付き合うのも、部下の務めですから」
苦笑いをするカンタを前に、ダイゴは首をかしげる。
「あれ、ヤプラスさんって、カンタさんの上司なんスか?」
その問いに、カンタが頷く。
「ああ。まあ、上司というよりは先輩かな。業務内容自体は変わらないが、ここに務めてる年数はヤプラスさんの方が上だ。というより、獄牢職員の中で、ヤプラスさんよりも長く勤めてる人は看守長だけだ」
「ま、マジっスか」
成る程。そう言えば、死後の世界では人間の肉体は時間が止まっており、年を取らないと聞いた。目の前の少女も外見こそ若いが、実年齢はかなりのものなのだろう。ダイゴがその事実に少なからず衝撃を受けていると、少女が口を開いた。
「自己紹介がまだだったな。私の名前はプラスコ―ヴィヤというんだ。ヤプラスと呼んでくれ。堅苦しいのは肩が凝るんでな」
プラスコ―ヴィヤ。そう言えば、今までも何回かその名前を聞いた気がする。成る程、それは彼女の事だったのか。
「ちなみに国籍は帝国時代のロシアだ」
「・・・て、帝国時代?・・・な、成る程」
日本史選択であり、加えて世界史に関する一般常識がことごとく欠けているダイゴには、彼女の言葉がぴんと来ない。まあ、帝国時代と念を押しているということは、今のロシアとは違うのだろう。そんなことをぼんやりと考えながら、ダイゴは取りあえず理解したふりをした。
それから五分も経たずに、マリオが獄牢に迎えに来た。ダイゴはカンタとプラスコ―ヴィヤに改めて礼を言ってから、その部屋を後にした。
「おはようダイ坊~」
待機室に入ると、そこにはニゾウの姿があった。ダイゴが予定外の職場見学を行っている間に出勤してきたのだ。ダイゴはぺこりと頭を下げる。
「おはようございますっス、ニゾウさん!今日も一日よろしくお願いしますっス!」
「こちらこそよろしく~。ま~、気楽にいこうよ~」
ニゾウが微笑みながら言う。瞬間、ダイゴの心臓がドキリと蠢く。その間延びした言葉に、ダイゴは己の内に渦巻いている動揺を看破されているような気がしたから。
「・・・オス」
動揺を、なるべく顔には出さないようにして、ダイゴは短くそう言った。
「それじゃ~、朝の挨拶はこれくらいにして、見回りの担当を決めようか~」
「見回りの担当?パトロールのことっスか?」
一昨日、ショウタロウとドキルクが町を回っていた。それと同じことをするということなのだろうか。ダイゴの問いに、サレムが頷く。
「はい、そうです。犯罪を未然に防ぐために、獄犬では毎日一部隊につき二人の隊員を動員して、パトロールをしているんですよ」
「な、成る程。・・・で、そのパトロールの担当の二人組ってのは、どうやって決めるんスか?」
「普通に、バディの組み合わせで行くわよ。ちなみに、出動するグループは曜日によって決まっているわ。」
「今日は儂とマリ坊がパトロールだね~。じゃ~、行ってくるよ~」
「ダイゴちゃん。流石に、三日連続でダイゴちゃんが駆り出されることはないとは思うけど、もしも犯罪者と戦闘ということになったら、今日私があげた二つのものを活用してね。絶対ダイゴちゃんの役に立ってくれると思うから」
「ウス!じゃあお言葉に甘えて、大切に使わせてただくっス!」
ダイゴの返答に微笑んで、マリオがニゾウに続く形で待機室を出る。部屋には、再びサレムとダイゴだけが残された。今までいた人間が二人抜けて、いくらか賑やかだった室内に、沈黙が訪れる。
(いや、抜けてんのは二人じゃねぇ)
ダイゴはソファーに目を向ける。いつぞやの銀髪が瞼をよぎった。彼女と過ごした時間は長くないはずなのに、ダイゴは欠落を感じた。
(・・・まあ、直ぐに戻ってくるさ)
誰も居ないソファーから目を逸らし、ダイゴは思った。アッシュを許すと、昨日決意したのだ。今日に至るまで、幾度となく揺るぎまくっているダイゴであったが、その決意だけは曲げたくなかった。
(何で曲げたくねぇんだろ)
その時、ふとそんな思いがダイゴの頭を掠める。
(父ちゃんが、逃げることは良くないことだって言ってたからか)
しかし、そこまで考えて、ダイゴは頭を横に振った。
(いかんいかん。考えるのは止めよう。何だか、今はどんなこと考えても後ろ向きになりそうだ)
しかし、それは逃げることではないのか。父親の教えであり、そこに自分の紆余曲折は入っていないと頭では分かっていても、逃げることに対する罪悪感がダイゴの頭に浮かんだ。
(ああ、畜生。全然割り切れねえ。・・・やっぱ俺って、弱)「ダイゴさん」
バックを開始したダイゴの思考は、サレムの言葉により動きを止めた。ダイゴはサレムの方を向く。サレムの表情が、とても心配そうなものであることに気付いた時、ダイゴの表情は硬くなった。今の自分の心境が、全てサレムに筒抜けであったと、そう理解したからである。
「・・・すみません。・・・勝手に心を覗くのは、悪いことだって分かってるんですけど。・・・でも、ダイゴさんの様子を見ていたら」
そこで、サレムは言葉を呑みこんだ。心を読まなくても、心の中で反吐吐き散らしてることが理解できるくらいに、ダイゴは分かりやすい人間だったのである。
「・・・どこまで、読んだんスか」
「・・・全部、です。ゴッツのことも、マリオさんのことも、キーオさんのことも、ダイゴさんのお父さんのことも。・・・ごめんなさい」
サレムは頭を下げた。ダイゴは沈黙して、首の裏に掌を置いた。それから、苦笑いを浮かべて言った。
「・・・謝ることはないっスよ。心配して下さったことは、スゲェ嬉しいっスから。・・・サレムさん。俺は」
これからどうすりゃあ良いんスかね、という言葉の続き。それを、ダイゴは噛み砕いて呑みこんだ。それをサレムに聞くことは、ずるいと思った。これからの自分の生き方を他者に決めてもらうことは、間違っていると思った。
そんなダイゴの内心も丸聞こえである筈のサレムは、顔を上げてから言った。
「・・・ごめんなさい。私には、分かりません。でも、・・・うまく言えませんけど・・・、ダイゴさんは・・・」
そのままじゃ嫌なんですか。そう続けるサレムの顔は、何故か泣いているように見えた。
ダイゴが何かを言うよりも早く、サレムのズボンのポケットから振動音が聞こえてきた。
「・・・すみません」
一言謝り、サレムはズボンから黄色い携帯を取り出した。それから、更に表情を曇らせてダイゴの方を向く。
「・・・天番から、呼び出しです。・・・ダイゴさんを、一人取り残す形になってしまうんですけど・・・」
「・・・ぐへへ、心配しないでくださいっス!サレムさん!!俺はもういい歳っスから、留守番くらい出来るっスよ!」
明るい声で、努めて明るい声でそう言うダイゴ。その笑顔の向こうに隠れている迷いも気遣いも、全てサレムにはお見通しなのにも拘わらず。サレムは一層辛そうな顔をして、しかしダイゴに頭を下げてから、背を向けた。その背中は小さく、どこか頼りない。しかし、そんな彼女よりも、今のダイゴの方がもっと頼りなく、弱い。ダイゴがそう思っていると、サレムは背中を向けたまま言った。
「・・・ダイゴさんはそのままで良いと、・・・私は思います」
次の瞬間には、扉の閉まる音と共に、その小さな背中はダイゴの眼前から消えていた。待機室に一人ぼっちになったのを認識してから、ダイゴは一度ぼんやりと天井を見上げ、息を吐いた。それから、どっかとソファーの上に座り、下を向いた。重力に任せて、血液が顔に集まって来るような感じがした。それと共に、サレムの言葉が彼の脳味噌に蘇ってきた。その言葉はどれも、ダイゴを責めるものでは無かった。彼女の精一杯の気遣いが、その言葉の全てに含まれていた。
「このままで、良いわけねえじゃねえかよ・・・」
それを重々承知した上で、ダイゴは嘔吐するように呟いた。
それから三十分後。ダイゴは鍛錬室で、自分の限界重量のバーベルを持って、スクワットを行っていた。漢大武の踏み込みを強化するために、下半身を鍛えているのである。
「ふっ・・・ぐぅ・・・!ぬぅっ・・・がぁ・・・!」
力む声に連鎖する形で、液体が床を打つ音が響く。心象を使っていないため、肉体的な疲労は大きかった。しかし、鍛錬室で心象の使用が許されていない以上、それも仕方の無いことだ。それに、基礎の身体能力を鍛えた方が、心象を用いた際の筋力の伸びしろも大きくなる。そう自分に言い聞かせて、ダイゴは足場が汗の湖に沈むまで鍛錬を続けていた。
(強く、ならねえと・・・!)
歯を食いしばりながら、それだけを頭に置く。強さへの執着。弱さへの憎悪。ダイゴの両足は、筋力への渇望によって支えられている。昨日から続くうじうじした思いは、筋肉の発する熱によって蒸発し、再び凝縮することはなかった。死後、彼の筋肉トレーニングは、現実逃避の役割も担うようになっていた。
その時、ピリリリという電子音が、ダイゴの熱に浮かされた意識を、現実へと引き戻した。
「んぇ?」
辺りを見回し、電子音の出所を探すダイゴ。すると、音の発信元は直ぐに見つかった。
(ありゃあ・・・、電話か?)
鍛錬室の壁に設置されている赤黒い色をした受話器の様なもの。ダイゴが前々から気になっているそれが、今日は鳴いていた。バーベルを下して、ダイゴは受話器を取る。
「もしもし、大山ですけど」
『ダイゴ研修生、事件です。ここから北に1㎞ほど離れたところにある廃倉庫で、身長192㎝程の茶髪の男性が、身長185㎝程の赤髪の男に襲われているとの通報がありました。今すぐに出動して下さい』
受話器の向こうから聞こえてきた声は、電子音声であった。ダイゴは戸惑う。
「いや、あんた誰っスか!?何で俺の名前知ってんスか!?」
すると、電子音声は捲し立てるように言葉を連ねてきた。
『私の名前は“脳と舌”。獄牢に設置されている人工知能付き通話機です。市民からの通報と死界中に仕掛けられている監視カメラの情報を元にして、犯罪者側の戦力の分析を行い、その上で獄犬に居る最も適当な隊員を現場に向かわせることが、私の義務であり存在理由です。また、貴方のデータは、貴方がボブ組織長に情報端末を渡した時から、私のアーカイブの中に保存されています。故に、私は貴方の名前を知っているのです』
「い、いや、でも!俺で大丈夫っスか!?」
研修生の自分が一人で職務を全うできるかどうか、ダイゴは不安だった。それに。
「へ、獄犬には今俺以上に頼りになる隊員の方が沢山居るでしょうよ!だのにどうして俺なんスか!!」
『廃工場に仕掛けられている監視カメラの映像を元に、加害者側の戦闘力を分析したところ、貴方の力でも紙一重で対応可能だと判断したからです』
「ぎりぎりぃ!?だったら、やっぱ俺じゃない方が」
『うるさいわね!強力な戦力は最大限獄番に残しておいて、動員する戦力は最小限に抑えたいのよ!そんなことも分からないのかハゲ!!』
唐突に豹変した電子音声に絶句するダイゴ。しかし、そんな彼に対して電子音声、もとい『脳と舌』は続けた。
『そうと分かったなら、つべこべ言わずに現場に行きなさい!犠牲者が出ても良いのか!・・・それに、このギリギリの戦いに勝ったら、貴方は今よりも強くなれるかもしれないわよ』
その言葉に、ダイゴははっとした。確かに、紙一重の戦闘に勝利したならば、戦闘力はともかく、自信は付くようにも思えた。そうなれば、今までの様な弱い自分から少しずつ決別できるかもしれない。そんな思いを胸に、ダイゴは受話器に声を通した。
「了解したっス!大山大悟、出動するっス!」
『健闘を祈ります』
電子音声はその事務的な言葉を最後に聞こえなくなった。ダイゴは、受話器を元の場所に戻した。
「・・・ふぅ・・・!!」
その場で深呼吸をして、気を鎮めようとするダイゴ。初となる単独での出動に、彼の心臓は狂ったように脈打っていた。
「大丈夫だ・・・俺ならいける・・・俺ならいける・・・」
繰り返し呟くことで、己を鼓舞する。その言葉に何の根拠が無くとも、何もしないよりはマシであった。
そして、彼は治癒香辛料と捕縛機と机に置いてあった地図、それから自らの成長への期待を携えて、獄番を後にした。
心象によって強化された脚と地図は、ダイゴを目的地へ迅速に導いた。
「ここか」
濁った水色をした四角い建造物の前で、ダイゴは地図を見て場所を確認する。目前の倉庫と地図上の倉庫は、確かに一致しているようであった。
「うし、行くぞ・・・!気合い入れろ俺ぇ・・・!」
高鳴る心臓を胸の中に、ダイゴは倉庫に踏み込もうとした。その時。
「ああ、良かった!来てくれたんですね!獄犬隊員さん!」
横から声を掛けられた。驚いてその方向に目を向ければ、そこには黄灰色の髪をした、身長170㎝程の人間が立っていた。その容貌は非常に中性的で、馬鹿のダイゴにはその人物の性別を判断することは出来ない。
目をパチクリさせているダイゴに、人間は言った。
「通報したのは僕です。あの倉庫の中で男性同士の争うような声が聞こえてきて」
僕、という一人称を使った人物は、中性的な声でそう言ってから廃倉庫の方を指さした。一人称からして目の前の人物は男性なんだろうか、と考えながらダイゴは問う。
「今んところ、変化とかは無かったっスか?」
その問いに対し、男性は口を開いて何かを言おうとした。しかし、その時。ダイゴがさっき開こうとした廃倉庫の扉から、人が出てきた。
「うぉっ!?」
思わず身構えるダイゴだったが、その人物の髪の色を見て、すぐに構えを解いた。その人物の髪色は、焦げ茶色だった。
「あぁ、助けに来てくれたのか。あんた」
ダイゴの方を見て、その人物もとい身長192㎝程の短髪の男性が言った。その服装は、上が黒いシャツに薄い緑のコートで、下が灰色の太いズボンというものであった。その太い首には小型の付いたブレスレッドがぶら下がっている。コートの袖は捲られており、そこから鋼の様な腕の筋肉が露出していた。
(・・・俺が来なくても、この人なら大丈夫そうな気がすんだけど)
見るからに屈強な男を前に、ダイゴはそんなことを思った。
「こういうのって、名前とか教えといた方が良いのか」
男の声によって、ダイゴの意識が再び現実に戻る。ダイゴは少し考えてから、言った。
「そっちの方が、後々話を聞くってなった時に、楽になるかもしんないっス」
男は頷いて、口を開いた。
「俺の名前はジウラだ。趣味は廃倉庫巡りで、今日も良さげな倉庫を見つけて忍び込んだんだが、そこでよく分からん赤髪野郎に襲われちまった。んで、さっきまで命からがら逃げ回ってたんだが、何とか赤髪の隙を突いて倉庫から逃げだしたら、あんた等が通報がどうのこうの話してるのに出くわしたんだ」
「て、丁寧な状況説明、感謝しますっス」
廃倉庫に忍び込むのって、死界の法律的にOKなのだろうか。そもそも、死界に法律ってあるのか。そんな疑問を抱きながらも、取り敢えずダイゴはそう言った。そんな彼に、今度は黄灰髪の男が言った。
「僕はヘルマと言います。さっき偶然ここの前を通りがかった時に、男同士の争う声を聞いて、通報しました。って、これはもうさっき隊員さんには言いましたよね」
「分かったっス。・・・ってことは、まだこの中には赤髪がいるってことっスか?」
ジウラが頷く。それを見て、ダイゴは再び扉の方を向いた。
「了解しましたっス。じゃあ、この大山大悟、必ずやジウラさんの仇を取ってみせるっス!」
「・・・仇ってのは、少し大げさじゃねえか?」
しかし、ジウラのその言葉が聞こえるよりも早く、ダイゴは廃倉庫へとつながる扉を蹴破り、中に突っ込んでいった。
「・・・獄犬の隊員って、結構アグレッシブルなんですね」
「・・・ああ、そうだな」
暗闇に消えたダイゴの背中を見送ってから、ジウラとヘルマはそんな会話を交わした。
苦いのか甘いのか微妙です。




