愚者よお前はどこへ行く
約束を守らない奴はオタンコナスです。そうです、僕のことです。
晩飯を食べ終えると、ダイゴ、マイティ、ナックルの三人は喰多張から出た。
「じゃあな、ダイゴ。また明日会おうぜ」
「ウス。ご馳走様でしたっス。じゃあ、また明日」
マイティの言葉に、ダイゴがお礼を返す。あの後、最初は断ったものの、半ば押し切られる形で、ダイゴは結局マイティに奢ってもらったのだ。ちなみに頼んだのはカレーライスである。
ダイゴがマイティに感謝の言葉を述べていると、近くからぶつぶつと声が聞こえてきた。
「パイナップルパフェを奢ってもらうどころか、通常よりも多く支払うことになってしまった・・・。ふざけんな・・・ふざけんな・・・」
その声の主はナックルであった。その光が消えた瞳は、真っ直ぐマイティを見据えており、端にパフェのクリームが付いている口からは、マイティに対する呪詛の言葉が延々と垂れ流されていた。
「仕方ねぇだろ。治癒香辛料まとめ買いすんのに、財布の中身あらかた使っちまってたんだから」
ナックルに対し、マイティが眉を顰めながら言う。実はあの後、勘定をする際にマイティの財布に入って居るDPが残り僅かであることが発覚し、そのせいでナックルはパフェを奢ってもらうどころか、割り勘する羽目になったのである。
そんなことがあったせいで、今のナックルの財布からはDPが、瞳からはハイライトがグッバイしていた。が、そのうちの瞳の方に、炎が灯った。
「じゃあ何でダイゴには奢ったんだこの野郎!見栄か!?見栄なのか!!?」
「五月蠅いな、夜中に騒ぐな。大体、いつもお前にしてやってることをダイゴにしてやっただけで、どうしてそんなに怒るんだよ。嫉妬か?」
「嫉妬じゃねえよ!単純にお前がダイゴに奢った分の半分もアタシが負担することになったからだよ!お前脳味噌シットか!?」
「誰の脳味噌が糞だこの野郎」
「痛い痛い痛い!」
いつも通り髪の毛を上に引っ張られて悲鳴を上げるナックル。そんな彼女を前にして、ダイゴは申し訳なさそうに言った。
「いや、マジすんませんでした奢ってもらっちゃって」
しかし、そんなダイゴにナックルが髪を引っ張られながら言う。
「気にするな!お前に罪は無い!悪いのは配給された分の治癒香辛料を湯水のように浪費した挙句金欠になるこの馬鹿だ!」
ずびしっとマイティの方を指さすナックル。そんなナックルに対し、マイティが言う。
「あー先輩に向かって馬鹿って言ったー。これにはさすがの俺も立腹だわー。もう二度とパフェ奢らねー。てか飯連れてかねー」
「良いですー!他の隊員と行きますー!」
ぎゃいぎゃい騒ぐ二人を前に、ダイゴは一人おろおろとしていた。その時である。
「コラ!!!!何を騒いでるんだ二人とも!!!!夜中に五月蠅くしてはいかんだろ!!!!」
地鳴りのような大声が、三人の耳をつんざいた。ビックリしてダイゴが声の聞こえる方を向けば、そこには髭を生やした筋肉達磨、ヒクソンが居た。
「あ、ヒクソン隊長。お疲れ様です。それはさておき、そんな大声を出している隊長に夜中に五月蠅く云々とか言われたくないです」
マイティがヒクソンの方を向いて言う。しかし、その両手は依然として、ナックルの頬と髪の毛を掴んだままであった。たまらずナックルは、涙目でヒクソンに助けを求める。
「たいひょぉ!まいひがあたひにぼうほうをふわえへふるんれふ!はふへへふらはい!!」
「コラマイティ!ナックルとて一応女だ!女に手を上げるのは良くないぞ!」
(ヒクソンさんって、声の音量下げれるんだ)
声のボリュームを小さくしたヒクソンに、ダイゴは少しだけ驚いた。
「・・・すみません」
マイティはそう言いつつ、大人しくナックルから手を離した。晴れて自由の身になったナックルが、頬を摩りながら言う。
「あ、隊長。報告したいことがあるんですけど」
「ん!?何だ!」
ボリュームが下がったとはいえ、やはり常人のそれよりも大きい声でヒクソンが問う。すると、マイティが言った。
「街の往来で話すような内容じゃないです。場所を変えましょう」
(・・・さっきの捕り物のことか)
マイティの言葉を聞いて、ダイゴはそう察した。だから、彼はマイティ達に改めて挨拶をしてから、脚をMARIの方に向けたのである。
「ただいま戻りましたっス」
「あ、ダイゴちゃん。お帰りなさい」
MARIの扉を開ければ、店の中にはマリオ一人しか居なかった。
「あれ、他の人達は」
「他の子達は買い出しに行ってるわ」
マリオが答える。その言葉に、ダイゴは納得して頷いた。その後、こう続けた。
「あの、来ていきなりで悪いんスけど」
「予備の服かしら?」
「ファッ!?マリオさん、もしかして心が読めるんスか!!?」
「ええ、女の勘よ」
「マジスか!!?」
「嘘よ」
「もう何も信じない!!」
いつかどこかでやったようなやり取りの後で、マリオが言った。
「本当は、サレムちゃんから連絡が来たのよ。ダイゴちゃんの服が駄目になっちゃったから、予備の服を取りにダイゴちゃんがここに来るかもしれないって。まあその連絡が無くても、病床の服を着てここに来てる時点で、大体予想は付くけどね」
「な、なるへそ」
ダイゴが掌を拳でポンと打つ。すると、それによって脳が刺激されたのか、ダイゴはあることを思い出した。
「あ、そうだ!マリオさんに渡さねぇといけないもんがあるんだった!」
そう言って、ダイゴは履いている白いズボンのポケットから紫色のコインを取り出して、マリオに差し出した。
「今まで色々とお世話になりました!つまらないものっスけど、お納めくださいっス!」
それを見て、マリオは笑って言った。
「あら、ありがとう。でも、気持ちだけ受け取っておくわ。だからこのDPは、今後のダイゴちゃんの生活費にしなさい。というより、そうしないとダイゴちゃん無一文になっちゃうし」
その言葉に、ダイゴは少し戸惑うが、しかし頭を下げて言った。
「スンマセン!じゃあ、お言葉に甘えさせていただくっス!!」
ダイゴの応対に、マリオは笑って頷き、口を開く。
「ええ、そうしなさいな。・・・さて、じゃあこの件はもう終わったとして、ダイゴちゃんお腹減ってるでしょ。何か食べていきなさいよ」
その言葉に、ダイゴは頬を掻きながら苦笑した。
「あの、お気持ちはすっげえ嬉しいんスけど、実はさっき喰多張でマイティさんとナックルさんに奢ってもらっちゃってまして・・・」
「あら、そうなの。じゃああの二人には、明日にでも何かお礼しとかなきゃいけないわね」
マリオは笑ってそう言った後、「じゃ、服を取って来るわ」という言葉を残して、部屋の向こうに引っ込んだ。そして、直ぐに片手に服の入った袋を携えてダイゴの方へ戻ってくると、言った。
「はい、どうぞ」
「ありがとうございますっス!」
袋を受け取り、ダイゴは頭を下げる。それから、「じゃあ俺はこれにて」と言い、直ぐに店を後にしようとした。何故なら。
「・・・アッシュの件、聞いたわよ」
たった今マリオによって放たれた言葉を、聞きたくなかったからである。
「・・・そうっスか」
しかし、聞いてしまったものは仕方が無い。ダイゴは体の向きをマリオの方へと戻した。
「・・・サレムさんから、っスか」
先程、サレムからメールが有ったとマリオが言った時点で、ダイゴはアッシュの件も伝えられているだろうと予想していた。
「ええ」
マリオが頷く。それを見て、ダイゴは目を伏せた。何故か、マリオの方を見ることさえ申し訳なく感じられたからである。
「アッシュの事、許してくれる気でいるのね、ダイゴちゃんは」
俯いているダイゴに、マリオが言う。その口調は優しい。ダイゴは顔を上げ、頷いた。
「・・・ここで、アッシュさんの復帰を許さねぇってのは、アッシュさんから逃げることと同じだと思うんス。そんなのは嫌なんスよ、俺。逃げたくは、無いんスよ」
そう言いながら、ダイゴは朝に固めた決意を瞳に宿す。しかし、その視線をマリオに向けることは出来なかった。だが、そのことをダイゴが自覚する前に、マリオが問う。
「どうして、逃げたくないの?」
その問いを受け、ダイゴは己の思考が一瞬固まるのを感じた。今まで、彼は何度も逃げてはいけないのだと自分に言い聞かせてきた。しかし、ならば何故逃げてはいけないのかということを、じっくり考えたことは無かった。逃げてはいけないから逃げてはいけないのだ。そんな無茶苦茶な理論でダイゴは今まで自分の退路を断ってきていた。マリオの問いで、ダイゴは初めてそのことを自覚した。
「・・・分かんないっス」
故に、ダイゴは明確な答えを出すことは出来なかった。だが、ダイゴはこう続けた。
「分かんないっスけど、でも父ちゃんは俺がガキの頃から言ってたんス。『男なら諦めたらいけない』って」
振り返れば、彼の信念の後ろにはいつも父が居た。だから、彼は死んでからも父親の教えが夢に出てくるのだろう。目を開いていても、たびたび父の言葉が脳裏に浮かぶのだろう。それほどまでに、ダイゴにとって父親の存在は大きかった。
「・・・俺の父ちゃんも、昔結構辛いことがあったんスよ。でも、父ちゃんはその時、辛い現実から逃げるような真似はしなかったんス。婆ちゃんを支えるために、必死に努力しまくって、強くなったんスよ。・・・俺も、父ちゃんみたいに強くなりたいんス。だから、逃げたくないんス」
父の様に強くなれば、少なくとも今自分が置かれている状況の中で、四苦八苦することは無くなるだろう。ダイゴは、そう信じていた。そう信じることで、自分を保っていた。
「それに、父ちゃんも俺がそうなることを、何事からも逃げねぇ強い男になることを、望んでるっスから」
幼少期から、父が自分に男としての在り方を説いていたのは、そういう意図があったからだ。ダイゴはそう信じることで、自分が逃げてはいけない理由を作り出そうとした。『つまり俺は、父ちゃんの期待に応えるために逃げたらいけねぇんだ』という、泣かせる理由を。
「ダイゴちゃんが、ダイゴちゃんのパパを尊敬しているってことは、よく分かったわ」
もっともらしい理由で自らを納得させようとしているダイゴに、マリオが言った。どうやら、自分の思いは伝わったらしい。ダイゴは咄嗟にそう思った。
「でも、ダイゴちゃんが一人で背負い込んで傷ついているのを見ても、多分ダイゴちゃんのパパは喜ばないわ」
だが、次にマリオによって紡がれた言葉は、いともたやすくダイゴの理由を揺らがせた。
(父ちゃんが、喜ばない?)
何故だ。俺はしっかりと父ちゃんの教え通り、真っ直ぐ生きているじゃないか。なのに、どうして父ちゃんが今の俺を見て喜ばないなんて言えるんだ。そうダイゴが思っていると、マリオが再び口を開いた。
「親って言うのはね、・・・自分の子どもが傷付いているのを見るのは、無条件で辛いものなのよ。だから・・・、ダイゴちゃんがパパを喜ばせるために逃げないっていうのは、ナンセンスだと思うわ」
その言葉に、ダイゴは言いようのない感情が込み上げてきた。怒りでは無い。ただ、その言葉を認めてしまっては、今自分が作り上げた理由が破定してしまう。それは、避けたかった。だから、ダイゴは震える声でマリオに言った。
「じゃあ、逃げないことが間違ってるってことっスか。逃げることが正しいってことっスか」
「そ、そうは言ってないわよ。・・・でも」
そこで言葉を切ってから、マリオはダイゴの顔を見下ろす。その視線から逃れるように、ダイゴは再び俯いた。そんなダイゴに、マリオは言った。
「それでも、ダイゴちゃんが苦しいのなら、逃げても良いんじゃない?」
その言葉を受けて、ダイゴはしばし無言で床を見つめた。それから、こう言った。
「マリオさんは、俺にアッシュさんを許さないで欲しいんスか」
その言葉を口から出す際、少なからずダイゴの心には残酷な意思が混ざった。だが、それを自覚してダイゴが後悔するよりも先に、マリオは首を横に振った。
「アッシュを許してくれたら、私は凄く嬉しい」
「っ!!だったら!!」
「でも、そのせいでダイゴちゃんが苦しむのは、私は凄く辛いのよ」
ダイゴは、顔を上げてマリオの方を見た。その視界には、いつものような逞しい筋肉無双のオネエの姿は無かった。ただ、腹に抱えた矛盾と向き合いながら苦しんでいる、一人の男の姿があるだけであった。
「・・・すいませんでした」
ダイゴは頭を下げて、詫びを一つ入れた。それ以外の選択肢を、ダイゴの貧相な脳味噌で見つけるのは不可能であった。
そんなダイゴに対し、マリオは申し訳なさそうに言った。
「・・・ダイゴちゃんが謝ること無いわ。・・・こっちこそごめんね。個人的な感情で、ダイゴちゃんの意思を否定したりして」
その言葉に、ダイゴは何も答えなかった。マリオが自分を心の底から心配してくれていることが、痛いほど分かったからである。
それから、しばしの沈黙が流れた。その沈黙を破るように、マリオが明るい声を出した。
「・・・はいっ、気まずい空気はここらでぽしゃっちゃいましょう。ダイゴちゃんも、いつまでも俯いてちゃ駄目よ。ダイゴちゃんに非は無いんだから」
「・・・」
マリオの言葉を受けて、ダイゴは顔を上げた。その表情はうかない。逃げてはならない理由が酷く揺らいでいる今、それもまた仕方の無いことだ。そんなダイゴに対して、マリオが思い出したように掌を拳で叩いて言った。
「あ、そうだ!ダイゴちゃんに、渡さなきゃいけないものがあるんだったわ!ちょっと取って来るわね!」
そう言って再び店の奥に引っ込み、それから数秒経たないうちにマリオが戻って来る。その手に、コイン状の何かを携えて。
「私がダイゴちゃんを初めて見つけた時に、近くに落ちてたのよ。これって、ダイゴちゃんのものでしょ?」
その言葉を受け、ダイゴはマリオの手の中に有るコイン状の物体を見た。そのコインに、ダイゴは見覚えがあった。
それは、表面に『愚者にも一得』と書かれた、ことわざメダルであった。
地図を持ち、着替えを持ち、アパートの鍵も持って、ダイゴは夜の帳の下りた街を歩く。携えたいずれもがこれからのダイゴには必要なものだ。しかし、ダイゴの意識は彼の手の中にあるメダルにばかり向かっていた。
「まさか、またこいつを見ることになるとは」
ある時はナイフから身を守る盾になり、あるときはナイフを砕く矛となったそれを見つめながら、ダイゴは呟く。ゼインとの戦闘の後、このメダルはダイゴの手元から消えた。もう二度と見ることは無いだろうと頭の片隅で諦めていた分、マリオに手渡された時の喜びは大きかった。
月光に照らして表面の文字を読む。あの時と変わらないことわざが、ダイゴの目を通して頭に入ってきた。歩きながら、ダイゴは呟く。
「愚者にも一得、か」
俺は何か良いことを思いついたのだろうか。意味のあることを成したのだろうか。千慮までとは言わずとも、それなりに多くの事を今まで考えてきた。その中で、俺は。あの日ダイゴを救ったメダルが、今は霧となり彼を迷わせ苛んだ。
「母ちゃん、俺は」
靄のかかる思考を抱えながら、ダイゴはポツリと溢した。無色透明の言葉は光を放つことはせず、即座に闇に溶けて消える。だが、消える間際に、その言葉は彼に少年時代の記憶を浮かばせた。
※
大悟が小学校に入学し、三度目の冬休みを迎えた時のことである。その日は記録的な大雪か何かで交通が完全に麻痺し、人々はどこにも行けないという状況に陥っていた。そのため駆をはじめとする友人を家に呼べず、ダイゴは仕方なく母親の仕事場兼部屋で漫画を読んでいた。
「大悟ー、あんた冬休みの宿題は終わったのー?」
己の鼻毛を抜きながら深子が問う。既に仕事は全て終わっており、その姿からは余裕が滲み出ていた。そうでなければ、まだ冬休みが開始して三日しか経っていない息子に宿題が終わったかどうかなどという割とどうでもいいことなど聞かないだろう。
「日記と書初め以外は終わったー」
大悟が漫画から目を離すことなく答える。
「早っ。大悟あんた、さてはズルしたね。答え丸写しとかしたんでしょ」
深子が言った。この母親、息子の事を全く信用していない。
「んなことしてねーよ。俺はちゃんと真面目にやったぞ。そうしねーと自分の為になんねーからな」
大悟がむっとして答える。その太く幼い眉の間には、皺と憤りが刻まれていた。
しかし、そんな大悟の表情を見て、深子は拍子抜けとでもいったような顔をする。
「なーに良い子ぶってんのよ。それでもあんた私の子なの?」
「父ちゃんの子だ」
「ああ、納得」
息子の返答に合点がいったらしく、深子はぽんと手を叩いた。そんな母親の態度に、大悟は頬を膨らませる。
「何だよー。だったら母ちゃんは子どもの頃真面目に宿題やってなかったのかよー」
「当たり前じゃない。冬休みの宿題とか、最後の日にまとめてやったわ」
抜いた鼻毛を手元にある漫画に張り付けながら深子は言う。母親としてどうなんだ。
そんな母親の姿に少しばかり情けなさを覚えながら、ダイゴは口を開いた。
「母ちゃんよくそんなんで父ちゃんと結婚できたな。父ちゃん、頑張り屋が好きだってこの前言ってたぞ」
「ラブとライクは違うのよ大悟。日本語の奥ゆかしさを知りなさい」
深子がにやけながらそう答える。母の言いたいことも日本語の奥ゆかしさも分からない幼い大悟は、混乱で自分の頭が熱くなるのを感じた。息子の頬が紅潮していくのを見ながら、深子は笑う。
「ふっふっふ、悩め悩め。脳味噌が回転しすぎてバターになってしまうが良い」
えらく猟奇的な台詞である。しかし混乱している大悟には、その台詞に構っている余裕は無かった。
「そ、それでも俺は頑張り続けるぞ!」
「ふーん、それまたどうして」
深子が食い付く。どうやら息子の台詞全てを拾い上げて難癖をつけるつもりであるようだ。余程暇を持て余しているのだろう。
「どうしてって、・・・えーと。・・・うーん。・・・あっ!それが俺の信念だからだ!」
少し考えてからダイゴは胸を張って言った。その小鼻は蠢いている。それを見て、深子の意地悪な笑みが深くなった。
「どうして信念を貫かなくちゃいけないのよ」
「うぇ?」
ポカンとする大悟。しかし、直ぐにうんうん唸って思考する。それから十秒後、彼は言った。
「信念だからだ!」
これで文句はあるまい。そう言いたげに、再び胸を張る大悟。今度は深子がポカンとする番であった。しかし、直ぐに口角を吊り上げると、彼女は言葉を紡いだ。
「ま、今のところはそれで良いわ。ところで、そんな言葉どこで習ったのよ?」
「父ちゃんが言ってた!」
「ああ、納得」
そう言って再び掌をポンと叩いてから、深子は続けた。
「あの人、そういう熱血なの大好きだもんね。努力とか根性とかさ。大人の癖に、全くスレてないというか何というか。ま、そんなところを私も好きになったんだけどね」
そう言って深子はポッと頬を染める。年を考えろ。大悟は小首を傾げながら言う。
「そーいう場合の好きって、ラブなのか?それともライク?」
「ラブよ、って何言わせるの恥ずかしい。それではご唱和ください月が綺麗ですね」
「は、はあ?」
首を傾げる大悟。目の前に居る母親が、彼にはいよいよ理解できない。いっそ、ここで会話を切ってしまおうか。そう考え、大悟が漫画に視線を戻そうとした時である。
「でもね大悟、これだけは覚えておいて」
先程とはうってかわって真剣な口調で、深子が言葉を紡ぎ始めた。大悟は素直に耳を傾ける。いきなり口調を変えてどうするつもりなのかと、茶化す感性は彼にはまだ備わっていなかった。
深子は続けた。
「信念は鎧にもなるけど、拘束具にもなるのよ」
その言葉の意味は、大悟には分からなかった。しかし、それでも彼は心に母の言葉を留めた。留めなければならないような気がしたのである。
真剣な表情で自分を見てくる大悟に、そこで深子は少しばかり照れくささを覚えたのであろう。その言葉の後、直ぐに彼女は声のトーンをおちゃらけたものに変えた。
「信念を貫こうとしすぎて、ノイローゼになってもママ知らないぞ☆」
「うわキツ」
「何だとおにぎり坊主」
そう言って、深子はダイゴの青々とした坊主頭を指圧した。部屋に少年の悲鳴が響いた。
※
「拘束具、か」
そう呟いて、ダイゴはメダルを握りしめる。久しぶりに思い出した父以外の家族との会話。それが彼に与えたのは、少なくとも希望では無かった。言いようのないもやもやとした気持ちが彼の脚に絡み付き、一歩一歩を重くさせる。と同時に、彼の視野も狭くなっていたらしい。気が付けば、周囲は既に明るい繁華街ではなくなっていた。
「あれ、ここどこ?」
そんなことをほざきながら、ダイゴはバロックが住んでいたアパートへの道が記してある地図を見る。しかし、つい先程まで徒然なるままに歩いていたダイゴには、現在自分が居る場所が分からなかった。
「ま、迷子ったああああああぁぁぁぁ!!!?」
ダイゴは頭を抱えた。急いで周囲を見渡すも、かなり後ろの方に妖しいネオンが輝くばかりで、それ以外についてはてんで分からない。
完全にパニック状態に陥っている今のダイゴでは、後ろのネオンから現在自分が居る位置を割り出すという考えを、脳に浮かばせることは出来なかった。
「困ったな。近くに交番とかねぇのかな。いや、そもそも死界に交番って存在するのかしら」
根本的な疑問にぶち当たるダイゴ。その問いに答えてくれるものは、今この場には居ない。ところどころに家やアパートの様な建造物は存在していたが、しかし人間はどこにも歩いていなかった。
「畜生、どうしよう。これじゃあ道行く人に尋ねることも出来やしねえ」
いっそのこと、ネオンの光を道しるべにして、もう一度マリオの店へ戻ろうかとダイゴが考えた、その時であった。
「おっ、ダイゴじゃねえか!」
彼の後ろから男の声が聞こえてきた。
「その声は・・・」
ダイゴはすぐさま後ろを振り返る。するとそこには、深緑色をしたバイクと、それに乗った人間。バイクに付いた紺色のサイドカーと、それに乗った人間が、それぞれ存在していた。二人ともヘルメットを被っているため、顔は分からない。
(死後の世界にバイクってあるんだ)
そんなことをダイゴが考えていると、バイクに乗っている方の人間がサイドカーに乗ってる人間に向かって、くぐもった声を出した。
「知り合いか?」
その声は先程ダイゴを呼んだ男の声では無い、別の男のものであった。どうやら、先程ダイゴの名を呼んだのは、サイドカーに乗っている人物らしい。すると、サイドカーに乗っている男が言った。
「知り合いも何も、こいつが件のダチ公よ!」
「ああ、お前が昨日の朝に出会ったっていう奴か」
バイクに乗っている男がくぐもった声で言う。その言葉に頷いてから、サイドカーに乗ってる男はヘルメットを取った。
「ようダイゴ!夜中に一人でふらふらするとは、相変わらずロックじゃねえか!」
「き、キーオ!?」
ヘルメットから出てきたオールバックの少年の姿に、ダイゴは目を丸くした。しかし、直ぐにこれはチャンスだと考え、ダイゴはキーオに言う。
「丁度良かった!実は道に迷っちまっててよ!ちょっと道教えてくんねぇか?」
「良いぜ良いぜぇ!ガンガン教えてやらぁ!」
声高らかにキーオは己の胸を叩く。そんなキーオの姿に、ダイゴは何故か安堵を覚えた。しかし、それを口に出すことなく、ダイゴは質問した。
「あのよ。この『アパート・サリヴァン』ってのはどこにあんだ?」
そう言って、ダイゴは地図に記してある己の目的地を指さした。すると、キーオと男が顔を見合わせた。それを見て疑問に思うダイゴであったが、しかしそれについて何か言う前に、キーオが面白そうに笑いながら口を開いた。
「こっから直ぐだぜ。何なら、そこまで案内してやろうか?」
「えぇ!?良いのかよ!?」
キーオの提案にダイゴはおったまげる。しかし、キーオは笑顔で頷いた。
「良いぜ。だって、このアパートって俺とこいつが住んでるとこだしな」
「ファッ!?」
衝撃の事実に口をあんぐりと開けるダイゴ。あまりにも勢いよく開けた為か、顎が外れる。数十秒後、キーオの『楽園の布団』によって治してもらってから、ダイゴは言った。
「そういうことなら遠慮する理由も無ぇわな!んじゃあいっちょ案内してくれ!」
「合点だ!ってことでディンゴ、出発してくれ!」
「あいよ」
そう言って、バイクに跨っている男もといディンゴは、エンジンを静かに吹かした。
「よし、到着だぜダイゴ!ここが俺達の家だ!」
「はぇー、すっごく立派・・・」
二人の乗るバイクを走って追いかけること二分。ダイゴは『アパート・サリヴァン』の前に立っていた。二階建てのその白い建物は、ダイゴが想像していたよりも遥かに大きく綺麗であった。
「これでいて意外と家賃も安いんだぜ」
そう言いながらディンゴがヘルメットを取る。中から現れたその素顔は、ダイゴと同年代位に見えた。薄茶けた髪が、ヘルメットを被っていたせいか、ぺちゃんと寝ている。
「マジっスか!だったら助かるっス!俺、今日からここに住むことになるっスから!」
「ってことは、バロックさんが言ってた新しい入居者ってのは、お前のことだったのか!」
ダイゴの言葉にキーオが驚いた顔をする。どうやら、バロックは住人にダイゴが今日からここに住むということを伝えていたようである。
「ってことなら、まず大家のレイモンドさんに挨拶しねぇとな!」
キーオがダイゴの背中を押し、ある扉の前に立たせた。扉には、101と刻んである。その隣には102、103、104という数字が彫ってある扉が等間隔で並んでいた。見たところ、一階の部屋はそれで全部らしい。
「ここがレイモンドさんの部屋だぜ!さあインターホンを鳴らせ!」
「お、おう!」
ダイゴは少し汗の滲んだ指で、インターホンを押した。ピンポーンという間延びした音が鳴る。
「はい」
すると、直ぐに扉向こうから男の低い声が聞こえてきた。と同時に、ガチャリという音が響く。開いた扉から出てきたのは、身長190㎝超はあるかと思われる、筋肉質な強面の男であった。その顎には無精髭が生えている。
「何かご用事ですか」
鋭い眼光でダイゴを射貫きながら、男が言う。先程のキーオが言っていたことを鑑みるに、この男が大家のレイモンドだろう。
「あ、あの!俺、今日からここに住みたいんスけど!」
レイモンドの威圧感たっぷりな外見に気圧されながら、ダイゴは震える声で言う。すると、レイモンドは少し考える素振りを見せた後、納得したように手を叩いた。
「ああ、あんたがバロックが言ってた新しい入居者か。名前は確かダイゴだっけ」
「そ、そうっス!」
ダイゴはそう返事をしながら、内心ほっとしていた。レイモンドの受け答えが、思いのほか優しかったからだ。その強面を笑顔で緩ませながら、レイモンドは続ける。
「鍵は既に渡してあるってバロックは言ってたけど」
「あ、はい!あるっス!」
ダイゴはポケットの中から部屋の鍵を取り出した。よく見れば、鍵には103と記してある。どうやらバロックが今まで住んでいた部屋は、103と刻まれた扉の向こうにあるらしい。
レイモンドはダイゴが出した鍵を見て、その黒い短髪を掻いて言った。
「んじゃあ後は簡単だ。この契約書にサインしてくれ」
レイモンドが懐から紙を取り出しダイゴに渡す。見れば、それは何の変哲も無い白紙であった。ダイゴは白紙片手に問う。
「えっと、契約書ってこれっスか?もっと何かごちゃごちゃ書いてるもんじゃないんスかね、こう言うのって」
「他所はそうかもしれんがな。だけど、うちは基本的にここに名前書いて貰えば、あとは家賃払って貰えばOKってシステムなんだ」
「け、結構ルーズなんスね」
ダイゴの言葉に、レイモンドが笑う。
「確かにな。だが、セキュリティなら問題ない。何せ、このアパートには天下の獄犬隊員が二人も住んでるんだからな」
「え?二人っスか?俺とキーオを合わせて?」
ダイゴの言葉に、レイモンドは「え、あんたも獄犬なの?」という顔をするが、すぐに首を横に振る。
「いや、うちに住んでる獄犬隊員は、キーオとディンゴの二人だ。ま、あんたも獄犬ってことなら、このアパートのセキュリティは更に盤石になるな」
嬉しそうに笑うレイモンドを他所にダイゴは目を丸くしてディンゴの方を見た。すると、ディンゴは少しはにかんで答えた。
「獄犬第二部隊所属、ディンゴだ」
「えっと、獄犬研修生の大山大悟っス。よろしくお願いしますっス」
ダイゴは頭を下げて、何故かフルネームで自己紹介した。生前の習慣が、まだ抜けきっていないようである。
サインを済ませた後、ダイゴはレイモンドに自分の部屋を聞いた。案の定、彼の部屋は103号室だった。そのことをレイモンドが告げた時、キーオがハイテンションで「俺は102号室なんだ!気軽に遊びに来いよ!」と言った。それに続く形で、ディンゴも自分の住んでいる部屋が201号室であると教えてくれた。「お前の部屋の隣の104号室にも人が住んでるから、しっかり挨拶しとけよ。優しい人だから、新居祝いに何か手土産をくれるかもしれないぜ」という言葉を付け加えながら。
103号室に入ると、そこにはまだ生活感が残っていた。正確には、生活用品が残っていた。バロックが残してくれたものだ。キッチンに置いてある上等なコンロや冷蔵庫を前にして、ダイゴはバロックに感謝した。
「さて、ディンゴさんも言ってたし、挨拶に行かねえとな」
一息ついてから、ダイゴは部屋を出て隣の104号室の前に立った。しかし、そこでダイゴはようやくあることに思い至った。
(待てよ。こんな夜中に挨拶すんのは、いくら何でも迷惑じゃねぇか?)
「どうかされました?」
「うぼぁあ!!?」
扉の前で立ち往生してる最中に、背後からいきなり声を掛けられてダイゴはびっくりしてしまった。びっくりしすぎて、叫んでしまった。夜中の挨拶よりも迷惑である。このままご近所トラブル発生か。冷や汗を垂らしながらダイゴがそんなことを考えていると、再び背後から声を掛けられた。
「もしかして、君がバロックさんの部屋に新しく住むことになっていう子?」
「えっ?」
そこでようやくダイゴは声の方へ振り返った。するとそこには、身長180㎝程の眼鏡を掛けた青年が立っていた。青年の肌は浅黒いが、顔立ちを見るに東洋人のようであった。ダイゴはそんなことを考えながら、恐る恐る頷く。すると、目の前の青年は笑顔を浮かべた。
「成る程ね。じゃあこれからは君が俺のお隣さんになるわけだ」
「お隣さん?ってことは」
青年は頷いて、こう言った。
「俺はこの104号室に住んでる、レンだ。普段は図書館で司書をしてるよ。君は?」
レンの問いに、ダイゴは答える。
「お、俺は大山大悟って言いますっス!今は獄犬で研修生やってるっス!ええっと、至らない点もあるっスけど、どうかこれから先よろしくお願いしますっス!」
「あはは、まあそんなに硬くならないでよ。でも、そうか。君も獄犬か。ってことは、これでこのアパートに住む人間の半分が獄犬隊員になったってことになるな」
「え。ってことは、このアパートには今のところ六人しか住んでないってことっスか?」
「レイモンドさんも含めてね。って、もうキーオやディンゴのことは知ってるんだ。じゃあ、もしかしてもうマコトのことも知ってる?」
レンの問いかけに対し、ダイゴは首を横に振った。
「いや、キーオとディンゴさんのことは知ってるっスけど、そのマコトさんって人の事は知らないっス」
「ああ、そうなんだ。まあ、折角だしまた機会があったら挨拶してみるのも良いかもね。ところでダイゴ、君コーヒー好き?」
「甘いやつなら」
ダイゴの答えに、レンはほんの少しだけ眉尻を下げるが、直ぐに気を取り直して言った。
「んじゃあ、ちょっと待っててよ。今、部屋から甘いやつ持ってくるから」
そのまま直ぐに部屋に引っ込んで数十秒後、レンは扉を開けて缶コーヒー片手に出てきた。
「微糖しか無かったけど、大丈夫?」
「いえいえ、十分っスよ!いや、本当にありがとうございますっス!」
ダイゴは頭を下げてそう言った後、レンと別れた。何だか、これならばこれから先このアパートで上手くやっていけるような気がした。
部屋に戻り、冷蔵庫に缶コーヒーと電源を入れる。直ぐに飲まなかったのは、今が夜だからだ。カフェインのせいで眠れなくなってはいけないと、ダイゴは判断したのである。
「お、敷布団が置いてある」
キッチンから離れたダイゴは、そこで初めて部屋の隅に畳まれた布団があることに気付いた。生来の視野の狭さを嘆きながら、ダイゴはそれの前に立ち再びバロックに感謝する。そして、これまたバロックが残していってくれたのであろう黒い時計を見て、呟いた。
「もうこんな時間か。そろそろ寝ようっと」
時計は夜の十一時を示している。通りで眠い筈だと目を擦った後、ダイゴはマリオが渡してくれた着替え袋を漁った。そして、中から全身に白い文字で『乙』と書かれた趣味の悪いパジャマを取り出すと、それを着る為に今纏っている服を脱ぎ始める。その最中、彼はズボンのポケットから件のことわざメダルを取り出した。
じっとそれを見た後、ダイゴはゆっくりとそれを床に置き、てきぱきとパジャマに着替えた。それから、そのメダルを持って、バルコニーへと出た。何となく、外の風に当たりたくなったのである。
「ようダイゴ!」
「おっ、キーオ」
隣の部屋のバルコニーには、キーオが居た。
「どうしたんだキーオ。こんな時間によ」
先客に対してそんな疑問を投げかけるダイゴ。すると、キーオはにかっと笑った。
「夜にこうやって風に当たってっとよ、何か新しい曲のアイディアが湧くような気がすんだよ。それに、夜更かしってロックじゃね?」
「成る程!確かにアイディア湧きそうだしロックだな!」
よく分からない理由にダイゴは目を輝かせて納得する。何故だ。そんなダイゴの対応に気を良くしたキーオは、続けて言った。
「お前、やっぱ話の分かる奴だな!ところで、お前は何しにここに出てきたんだ?作曲か?」
「いや、違ぇ。まあ、ちっと考え事だ」
手に持ったメダルを見つめる。この静かな夜の空気の中なら、何もかもの答えが見つかる気がした。そう思えるぐらいには、ダイゴの気分は回復していたのだ。アパートの住人との、のほほんとした触れ合いの中で。
「考え事か。そりゃあロックだな」
腕を組みながらうんうんと頷くキーオ。お前、ロックって言っときゃ万事オーケーとか考えてるだろ。
「で、その考え事ってのは何だ?新しい曲についてか」
それについてはさっき否定しただろ。お前さては、ダイゴ並みにお頭が弱いな。キーオの言葉に首を横に振ってから、ダイゴは答える。
「自分の信念についてだ。ちょっと、揺らいでてな。・・・なあ、キーオ。逃げないことってのは、間違ってると思うか?」
「思わねえけど?」
キーオが即答する。ダイゴは顔を綻ばせた。先程マリオに逃げないことへの疑問を提示されていたこともあり、キーオの言葉が余計に嬉しく感じたのである。途端にダイゴは饒舌になった。
「だよな!やっぱ、逃げねぇことの方が正しいよな!」
「正しいかは知らねぇけど、すっげぇロックだと思うぜ!ダイゴお前、やっぱ俺の見込んだ通りロックな男だぜ!!」
「グヘヘ、それほどでもねぇって!!」
下卑た笑いを浮かべながら謙遜するダイゴ。そんなダイゴに、キーオが「てかよ」と問いを口にした。
「何だって、んなこと聞くんだ?誰かに逃げないことは間違ってるとでも言われたのかよ?」
「いや、そこまでは言われてねぇ。ただ、逃げても良いんじゃねえかって言われただけだよ」
マリオのことを思い出す。彼は、ダイゴに言った。辛いことから逃げても良いのではないかと。今のダイゴの場合、辛いこととは悪人を殺すか殺さないかの選択をすることである。殺すを選ぶのはもちろん嫌だ。だが、かといって殺さないを選んでもそれがより多くの悲しみを生むかもしれない。それも嫌であった。以前のダイゴならば、このようなことで悩むことは無かったであろう。しかし、今日のマイティの一件を経て、ダイゴは確実に揺らいでいた。
「逃げても、仕方が無ぇんだ。逃げたら、何も変わらねぇんだ。だから俺は逃げねえよ」
ぽつりとつぶやく。父が言っていた。ゲイバーのオネェさんが言っていた。彼の信念は、彼だけのものでは無い。彼以外の人間の言葉に、裏打ちされたものであった。
「おお、決意が固いねぇ。すっげえロックだぜ。・・・そういや、何でそういう信念を持つようになったんだ?」
キーオが問う。ダイゴは答えた。
「ま、あれだよ。父ちゃんの影響だ。男は逃げたらいけねぇ諦めたらなんねぇって、ガキの頃から教えられてきたんだよ俺」
「ほお、んじゃあお前の信念は親父の教育の賜物って訳だ」
ダイゴは頷く。キーオの言う通り、今の自分の信念は父親の教えによって形作られたものだという自覚はあった。否、信念に留まらず、自分の大切だと思うことは全て父親によって教えられたものだと、ダイゴは思っていた。逃げないことも、諦めないことも、優しくあることも、強くあることも。
「ん、待てよ。それじゃあ、お前の信念って親父の猿真似ってことか?」
キーオが、首を傾げながら何気なく言った。決して、諭すような口調では無かった。決して、責めるような口調では無かった。
ただ、その言葉を聞いて、ダイゴはぴしりと固まった。
そんなダイゴに気付いてか、キーオは頬を掻きながら言った。
「いや、まあよ。親父の信念を自分なりに大事だって思って噛み砕いて、自分のもんにしてるんなら良いんだけどよ」
彼は、今まで何をするにしても父親の言葉を思い浮かべていた。父親の言葉を足場にして、自分を鼓舞するために。しかし、それは果たして『父の教えを自分のもんとして』いると言えるのだろうか。違うと、ダイゴは思った。『父の教えを何も考えずに鵜呑みにして』いるだけなのではないか。その方が、楽だから。
「ダイゴ?大丈夫か?顔が青いぜ?」
キーオの言葉に、ダイゴは我に返る。見れば、キーオの顔は心配そうなものへと変わっていた。
「いや、大丈夫だ。でも、もう夜遅いし寝るわ。おやすみ」
大丈夫では無かった。しかし、これ以上キーオに心配そうな顔をさせたくはなかった。
部屋を暗くして、布団に潜り込む。微かにする香水の匂いは、気にならない。それどころでは無い。
(俺の信念は、俺のもんなのか?)
ダイゴは自問自答する。自分の信念は、父親の教えを鵜呑みにしまくった結果生まれたものではないのか。だとすれば、こうして何度もうじうじしてしまっている自分にも納得がいく。要は、これまで己を支えてきた信念は、所詮自らの力で苦心して手に入れたものではないが為に揺らぎやすく、故にその仮初の信念を背骨にしている自分はこんなにも迷いやすく脆いのだ、ということである。
(じゃあ、俺の信念はどこにあるんだ?)
少なくとも、自分の中には無い。今の自分の中に有るのは、父の教えの模造品。それも、全く持って粗悪な真似損ないである。
(俺に、オリジナルなものは有るのか?父ちゃんに教えられたことを鵜呑みにすることなく手に入れたものはあるのか?)
あることにはある。その一つが、漢大武である。しかし、これは技名が付いてるだけのただの体当たりであり、オリジナルと呼ぶにはあまりにも凡庸で貧弱である。
もう一つは、不殺の精神である。しかし、これはあくまで生前の周囲の環境の中で培われた常識である。そこには一切の試行錯誤も取捨選択も存在しない。死後の世界でダイゴが不殺を貫いているのは、単純にこの常識を捨てることが出来ないからである。捨てると自分が自分じゃなくなる気がするからである。
(でも、・・・この常識だって所詮は生前のもんだ。時が経って死後の世界に慣れるにつれて、この常識は変わっていくんじゃないか)
そうなれば、俺も人を殺すようになるのだろうか。
(・・・死んでも変わらねえのは、親の付けてくれた名前だけなのかもしんねぇな)
結局は俺は親頼りだ。ダイゴはそう考えて目を瞑った。
(・・・こんなぐにゃぐにゃな背骨で、俺はこれから何を選択するんだろうか)
それまで自分の背骨が堅牢だと勘違いしていたダイゴは、その自問に自答することは出来なかった。
その夜。ダイゴは夢を見なかった。
果たして愚者は断罪者になれるのでしょうか。あ、何か我ながら格好良いこと言った気がする。




