黒い糸
夏が、終わった。
血染めの歯の欠片を口から吐き散らしながら、ゴッツの体が地面に転がる。同じく転がっている最中に口から溢れた赤い液が、そのゴッツが辿った軌道を糞真面目にコンクリートへ記していた。
床に倒れ伏すゴッツを、マイティは無言で見つめた。しかし、それから数秒と経たずしてゴッツは視線を空へと向けた。夕焼けは既にその三割を藍へと変えている。どうやら、それなりに長い時間をこの戦闘に費やしていたようだ。それを示す不恰好な空模様をしばし見つめてから、マイティはゴッツへと視線を戻した。
「・・・ぐ・・・が・・・」
なんとタフな男であろうか。マイティが視線を戻した時、ゴッツは折れていない方の脚に力を入れ、砕けていない方の腕で地面を押し、しぶとく立ち上がろうとしていた。
「その耐久力は称賛に値するがな。もうやめとけよゴッツさん。今のあんたじゃ俺には逆立ちしたって勝てないぜ」
瞳を揺らしながら鼻と口から血を垂らすゴッツを見て、マイティは眉間の皺を揉みながら、溜め息と共にそんな言葉を一つ吐く。その口調は、先程までの荒々しいものとは違っていた。
その言葉は多分に不遜を含んではいたが、しかし同時にゴッツに対するある種の労りも込められている様に思われた。だがしかし、ゴッツは完全に立ち上がるとこう言った。
「俺を止めてえんなら、さっきみたいな鎖や拳足でもって、首の骨でも叩き折るんだな。そうしないんなら、俺は一旦尻尾巻いて逃げるぜ。勝てない殺し合いをする趣味は無いんでな」
確かに、もう怪物に変身する魂気の残っていない彼がマイティに勝つ可能性は万に一つも無い。ならば、ここで逃げるのが得策というものだろう。どうやら、復讐心に駆られていたゴッツにも、ほんの一握りの理性がまだ残っていたらしい。
「逃がすかよ。あんたには今度という今度こそ、更生してもらうぜ」
だが、それをマイティが許す筈も無かった。マイティは言葉と共に、ゴッツの方へ一歩足を進める。
「まだ俺の更生を信じているのかよ。言っておくが、俺は何度獄牢にぶち込まれようと、服役を終える度にテメェを殺しに行くぜ」
だが、ゴッツはそんなマイティの言葉に対し、コンクリートに石片混じりの唾と共にそんな台詞を吐き捨てた。その台詞、仕草、表情、どれを取っても反省の色は見当たらない。しかし、そんなゴッツを前にしてもマイティは僅かも動じなかった。ゴッツがその様な反応を返すことを、予期していたのであろう。ゴッツと殴り合いを始めた、その瞬間から。その予期は、しかしいつまで経っても諦めには変化しないようだ。今だって、マイティはゴッツを見限ることが出来ないから、こんな今更な言葉を未練がましく並べているのだ。
マイティとゴッツとの距離がだんだんと近付いてきた。どれ程近付いているのかといえば、少しでもマイティが鎖を伸ばせば、ゴッツの体が簡単に絡め取られてしまうくらいに、である。しかし、マイティは鎖の代わりに、また一歩足を出した。と同時に、マイティはその口から再び言葉を放つ。
「昔のアンタも、今と同じで悪党だった。でも、それでも他の悪人共とは違って、どこか一本筋が通っていた」
マイティが右足と左足を交互に出しながら言った。その言葉には、何となくやるせなさのような感情が込められているようであった。
「アンタは乱暴者だったが、性根は腐っていなかった筈だ。なのに、どうしてこうなっちまっ」
「くどいんだよ糞が」
マイティの言葉の尻を蹴り上げるようにして、ゴッツが吐き捨てた。その瞳には明確な嫌悪が刻まれていた。その嫌悪と共に、ゴッツは嘔吐するように口を開く。
「それはテメェに見る目が無かったってだけだ。俺は今も昔も怪物よ。性根は死ぬ前から泥に塗れてたし、一本筋なんてもんもお袋の胎内に置いてきた。そんなことは、この殺し合いの中でテメェもうっすら感じてた筈だぜ。なのに、そんな実感に対して目を瞑るのかよ。笑わせるぜ。そんなことは卑怯者も日陰者もしねぇ。自分の信じたくねぇもんに対して悉く耳を塞ぐ、臆病者がすることだ」
吐瀉物のような言の葉を吐き流すゴッツに対し、しかしマイティは怯むことなく歩を進め続けた。ここで立ち止まっても、少しばかりも良いことは起こらないと分かっているからである。
そんなマイティに対し、ゴッツは尚も雑言の嘔吐を続けた。
「成る程、これではっきりとテメェの本質が分かったぜ。テメェは糞以下の臆病者だ。テメェは自分の本質が悪だと認めるのが怖かったから裏切ったんだ。テメェは自分の一度でも信じたものの化けの皮を剥がすのが怖かったから俺に夢を見たんだ。テメェはあの日の青臭い決断を無に帰すのが怖かったから俺を殺さなかったんだ。テメェは自分の選択を何度も否定されるのが怖いから俺を更生させたいんだ」
「ご名答」
マイティはゴッツの言葉をあっさりと肯定しながら、あと一歩で手が届くという地点にまで辿り着いた。これは同時に、あと一歩で今日の復讐劇を終わらせることが出来るということでもあった。あの日の決断を、あと一歩でなぞることが出来るということでもあった。
だが、この時。マイティには良くないことが三つ起きていた。
一つ目は、今二人が立っている地点のすぐ近くに、裏路地へと続く道が開けているということ。
二つ目は、ダイゴが周囲の人間に避難勧告を出してから、少なからぬ時間が経っているということ。
三つ目は、非常事態はもう終わったと勘違いしてしまったらしい少女が、裏路地から出てきてしまったこと。
次の瞬間、ゴッツは手負いでありながら獣の様な素早い動きで少女を折れていない方の腕で捉え、盾の様にマイティの前へと突き出した。
「テメェが変な動きをした瞬間に、この細っこい首を捩じ切ってやる。幼気な少女の心に深い傷を負わせたくなけりゃあ、そこから動くんじゃねぇよ」
「・・・」
マイティは何も言わなかった。無言のまま、何が起こったのか理解できていないといった様子の赤髪の少女に目を向けた。その瞳の鏡の中の少女の像が、数秒後漸く震え出した。
そんな少女の震えを腕に伝播させながら、ゴッツはにやりと笑う。
「さっきまでのテメェの鎖の速度や使いこなし具合を見るによぉ。俺の腕がこのガキに届く前に、俺の首を鎖の鞭でへし折ることは容易かった筈だぜ。・・・どうだ、テメェの臆病風が、俺の逃走への追い風になった気分はよ」
マイティは無言のままであった。何かを言えば、それが変な動きだとゴッツに見なされる可能性があったからである。
そんなマイティに対し、ゴッツは暫く視線を注いだ。それから、横目でマイティの姿を視認し続けながら、片足を引きずって路地裏の中へ入っていった。
ゴッツの姿が見えなくなるのを確認してから、マイティは路地裏を形成しているビルの、かなり高い位置に付けられている看板に静かに鎖を括りつけると、そのまま凄い勢いで掌にそれを呑みこんだ。それによってかなりの速度で己の体を上昇させてから、マイティは魂気の供給を切り、心象である鎖を消した。しかし、それまでの上昇の慣性までは消えず、マイティの体は勢いそのままにビルの屋上まで飛んだ。
そして、ビルの天辺に軽やかに着地したマイティは、かなり下の方を移動しているゴッツを見下ろした。幸いにもゴッツは己を見下ろしているマイティの存在には気付いていないらしかったが、その腕には依然として少女が囚われている。
「早く、助けないとな」
そう言って、マイティは上空から見下ろしながら、ゴッツの追跡を始める。その姿は、しかし鎖という蜘蛛の糸を片手に地獄のカンダタを見下ろす、釈迦の様でもあった。
畜生、畜生。




