第1章-3 グータラ一家、魔の森を故郷にする
鳥の声で、サクは目を覚ました。
正確には、鳥に似た何かの声だった。
窓も扉もない小屋の外から、笛を吹くような高い鳴き声と、木をたたくような音が交互に聞こえている。
見慣れない石の床。
粗い木の柱。
入口をふさぐ、黒く巨大な背中。
一瞬だけ、自分の部屋ではないことへ戸惑った。
けれど、すぐに昨日の出来事が戻ってくる。
異世界へ召喚されたこと。
ブルムンド王国から、魔の森へ捨てられたこと。
死んだはずのププとリンに再会したこと。
そして今日、魔王がここへ来ること。
「おはよう、サク」
ナナの声がした。
小屋の外では、すでに鍋から白い湯気が上がっている。
「母、早いね」
「いつもと同じくらいだよ」
「ここ、異世界だよ?」
「朝は朝だからね」
ナナは何でもないことのように答えた。
鍋の隣には、炊きたてのご飯と焼き魚、卵焼きまで並んでいる。
収納の中には、元の家にあった食材も調理道具も入っていた。
昨日まで使っていた茶碗を見た瞬間、サクの胸が少しだけ締めつけられる。
「サク、顔を洗っておいで。水は冷たいから気をつけてね」
「うん」
小さな池のそばでは、キキが本を読んでいた。
「キキ、いつから起きてたの?」
「今起きたところ」
「その本、半分くらい進んでるけど」
「時間を止めて読んだだけ」
「起きてたんじゃん」
「外の時間では、今起きた」
「そういう問題じゃないよ」
少し離れた毛布の上では、ベベとココが並んで眠っていた。
ココの片手は、なぜかベベの頬をつかんでいる。
ベベは気にせず寝息を立てていた。
グリはププの前足にもたれ、ピコはその背中の一番高い場所で丸くなっている。
ヒロシは、昨日作った石の床へ大の字になっていた。
「父。魔王が来るんでしょ。起きなくていいの?」
「まだ来てない」
「目を閉じてるのに分かるの?」
「来たら騒がしくなる」
「迎える準備は?」
「ナナちゃんが朝ご飯を作ってる」
「父は何をするの?」
「魔王が敵だったら、起きる」
「敵じゃなかったら?」
「寝てる」
サクがため息をついたとき、入口に伏せていたププが顔を上げた。
リンも、ナナの鍋から森の斜面へ視線を移す。
遠くから、何かが風を切る音が聞こえた。
昨日の夜に聞こえた魔獣とは違う。
規則正しく、だんだん近づいてくる。
「来た」
ピコがププの背中で耳を立てた。
リゼラたちも一斉に立ち上がる。
サクは眠っている妹たちの前へ移動した。
「父」
「起きてる」
ヒロシはまだ床に寝たままだった。
「体も起こして」
「敵かどうか見てからでいい」
空が暗くなった。
見上げると、巨大な黒い翼が朝日を遮っている。
翼を持つ竜が、高台の上を大きく旋回した。
その背には、黒い外套をまとった男が立っていた。
竜が着地すると、地面が揺れ、池の水面に波が広がる。
男は竜の背から静かに降りた。
背が高い。
額から二本の角が伸び、背中にはたたまれた黒い翼がある。
長い銀色の髪。
赤い瞳。
腰には大きな剣を下げていた。
王城で会ったゴルド王とは違う。
宝石も王冠もない。
けれど、その場に立っているだけで、周囲の空気が重くなったように感じた。
「魔王陛下」
リゼラたちが片膝をつく。
「楽にせよ」
男の声は、水晶から聞いたものと同じだった。
魔王はサクたちを見渡し、次にププとリンへ視線を向けた。
二匹は動かない。
敵意を感じていないらしい。
「そなたがサクか」
「そうです」
サクは男を見上げた。
怖くないわけではない。
それでも目をそらさなかった。
「私は魔王国を治めるヴァルド・ノクスだ。昨日は突然の申し出を許してほしい」
「家族で話して、会うことに決めました。でも、まだあなたを信用したわけじゃありません」
「それでよい。会ったばかりの相手を、肩書だけで信じる方が危険だ」
ゴルド王なら、無礼だと怒鳴っていただろう。
ヴァルドは怒るどころか、少しだけ口元を緩めた。
その後ろから、二人の魔族が大きな箱を運んでくる。
護衛はそれだけだった。
「軍は連れてこなかったのですか?」
「世界を作り替えられる四歳児の前へ、軍を並べる方が危険だと判断した」
「ココ、よんさい!」
いつの間に起きたのか、ココが毛布の上で胸を張った。
ヴァルドの翼がわずかに固まる。
「ルーレットは回さないよ」
サクが先に言う。
「今日は、だめ?」
「今日も駄目」
「そうか」
魔王が明らかに安心した。
「怖がられてるよ、ココ」
「ココ、つよい?」
「強すぎるんだよ」
ベベも起き上がり、ヴァルドを見た。
「まおう?」
「そうだ」
「ねむそう」
ヴァルドが目を瞬く。
「分かるのか」
「くま、ある」
「昨夜は報告書を読んでいて、ほとんど眠っていない」
「じゃあ、ねればいいよ」
ベベの口元に白い光が集まりかける。
「待って!」
サクとリゼラの声が重なった。
魔王が一歩下がる。
「善意なのは分かるが、自分で眠る」
「そうして」
サクはベベの口を両手でふさいだ。
「ベベ、勝手に魔法を使わないで」
「まだ、つかってない」
「使おうとしたでしょ」
「ちょっとだけ」
「魔王をちょっとだけ眠らせるって何?」
ナナが鍋のふたを開けた。
「お話の前に、朝ご飯にしませんか?」
味噌汁の香りが広がる。
ヴァルドの後ろにいた護衛の喉が動いた。
「いや、我々は話を――」
リンがナナの横へ突進した。
ヒロシが寝た姿勢のまま片腕を伸ばし、首のしわをつかむ。
リンの足が空回りし、地面を削った。
「ナナちゃん。先に食べさせないと、話し合いにならない」
「まだみんなが座ってないでしょ」
「リンだけじゃなく、魔王も料理を見てる」
ヴァルドが視線をそらした。
「見慣れぬ料理だったのでな」
「食べてから話した方がいいよ」
グリが言った。
「母のご飯を食べると、みんな少し優しくなるから」
「それは魔法か?」
「料理だよ」
ナナの笑顔に押され、魔王は石の床へ座った。
黒い外套と巨大な翼のせいで、朝の食卓にはまったく似合っていない。
ヒロシは隣へ座り、ヴァルドへ箸を渡した。
「使える?」
「武器か?」
「食事の道具」
「細すぎないか」
「慣れれば便利だ」
「父も上手じゃないでしょ」
「使える。疲れるから、普段はスプーンを選ぶだけだ」
ナナが人数分の茶碗と汁椀を並べる。
ヴァルドは箸と焼き魚をしばらく見比べ、結局スプーンを受け取った。
最初の一口を食べた瞬間、赤い目が大きく開く。
「これは……」
「お味噌汁です」
「こちらの黄色い物は?」
「卵焼き」
「この白い粒は?」
「ご飯です」
ヴァルドは一つずつ確かめ、最後には話を始める前に二杯目を食べていた。
護衛の二人も無言で茶碗を差し出している。
「母のご飯、魔王にも通じたね」
グリが満足そうに言う。
「最初から疑ってないよ」
サクが答える。
「食事で国同士の争いが終わるなら、兵士はいらないな」
ヒロシが味噌汁を飲みながら言った。
ヴァルドは茶碗を置いた。
「本当にそうなればよいのだが」
低い声に、先ほどまでとは違う疲れが混じった。
◇
食事が終わると、ヴァルドは持ってきた箱を開けた。
中に入っていたのは、地図、報告書、割れた武器、焼け焦げた布、いくつもの小さな水晶だった。
サクには、書かれた文字が読めない。
けれどピコが地図の上へ乗り、一つずつ意味を伝えてくれた。
「青い線が、ブルムンド王国との国境。赤い印が、この半年で襲われた魔族の集落だ」
赤い印は三つあった。
「私たちの軍が人族の国へ攻め込んだ記録ではないのですか?」
「ないとは言わぬ」
ヴァルドはごまかさなかった。
「国境で攻撃を受け、追撃した部隊が人族側へ入ったことはある。報復の中で、人族の畑や家を傷つけた者もいる。処罰したが、被害を受けた者からすれば、我々も侵略者だろう」
「じゃあ、どっちも悪いの?」
グリが悲しそうに尋ねる。
「戦いになれば、正しい側だけが傷つけるわけではない」
ヴァルドは答えた。
「だからこそ、私は戦いを広げたくない。国境へ兵を置いているのは、民を守り、生きて家族のもとへ帰すためだ」
サクは地図を見つめた。
ゴルド王は、魔族が人族を滅ぼそうとしていると言った。
リゼラたちは、ブルムンド王国が先に攻めてきたと言った。
ヴァルドも、自分たちは何も悪くないとは言わなかった。
目の前に並んだ報告だけで、世界のすべてが分かるわけではない。
それでも、少なくともこの魔王は、自分の都合の悪いことまで話している。
「ブルムンド王国は、どうして攻めてくるんですか?」
「表向きは魔族への防衛だ。実際には、国境付近の鉱山と、魔の森を通る交易路を欲しがっている」
「それだけ?」
「王が何を考えているかは、王にしか分からぬ。ただ、兵や民が望んで始めた戦いではない」
箱の中にある一つの水晶が光った。
空中に、映像が浮かぶ。
壊れた家。
荷車へ食料を積む、人族の兵士。
泣いている角のある子ども。
別の映像では、傷ついた人族の兵士へ、魔族の女性が水を渡していた。
敵と味方だけでは分けられない光景だった。
「これを見せて、私たちに魔王国の味方をしてほしいんですか?」
サクが聞く。
「違う」
ヴァルドは即答した。
「そなたたちへ戦うことを頼むつもりはない。ブルムンド王国がしたように、異世界から来た者を兵器として扱う気もない」
「じゃあ、どうしてここへ?」
「守護獣を救った礼。それから、この森で暮らしたいという意思の確認だ」
ヴァルドはププとリンを見た。
「この二体は、長い間、どの国にも属さず森の均衡を守ってきた。その二体がそなたたちを家族として選んだ。魔王国は、この地をそなたたちから奪わない」
「ここに住んでもいいの?」
ココが聞いた。
「魔の森は、もともと誰か一人の所有物ではない。ただし、周辺の者へ危害を加えず、世界を作り替えるときは事前に相談してほしい」
「ココ、そうだんする!」
「本当に頼む」
魔王が四歳児へ深々と頭を下げた。
サクは笑いそうになったが、ヴァルドの目は真剣だった。
「それと、もう一つ相談がある」
「仕事なら嫌だ」
ヒロシが先に答えた。
「まだ何も言っていない」
「相談の顔をしてる」
「相談に顔があるのか?」
「働かせたい相手は、だいたい同じ顔をする」
「父、どんな経験をしてきたの?」
ヴァルドは少し考え、ヒロシの方へ体を向けた。
「魔王国では、国境の緊張が続き、兵も役人も休めていない。食料の輸送にも無駄が多い。昨日リゼラから、そなたが一時間ほどで住める小屋を作ったと聞いた」
「みんなで作った」
「では、皆へ頼みたい。魔の森に、種族を問わず安全に休める場所を作れないだろうか」
「休める場所?」
「兵士も、旅人も、商人も、傷ついた魔獣もだ。ここが争いのための道ではなく、休むための場所になれば、国境の緊張も少しは減る」
サクは周囲を見回した。
今あるのは、三方の壁と屋根だけの小屋。
小さな池。
石の床。
家族十人が寝るだけで、ほとんどいっぱいになる。
「そんな大きな場所、作れるかな」
「作れる」
ヒロシが言った。
「父?」
「働かなくて済む仕組みを最初に作ればいい。水場の近くに台所。台所の近くに食料庫。人が歩く距離を短くする。道具は使う場所へ置く。毎回運ぶから疲れるんだ」
「急にたくさん話したね」
「楽をするための設計は重要だ」
ヴァルドが身を乗り出す。
「魔王城の厨房から食堂まで遠く、毎日大勢が料理を運んでいる」
「設計した人が悪い」
「やはりそうか」
「役所も、同じ書類を何人も確認してるだろ」
「七人が確認している」
「二人でいい」
「しかし、間違いがあれば」
「七人いても間違えるときは間違える。確認する人を増やすより、間違えにくい書類に変えろ」
「なるほど……」
魔王が本気で感心している。
「ヒロシ。魔王国の政務顧問にならないか」
「嫌だ」
「週に三日でよい」
「嫌だ」
「二日」
「働く日数の問題じゃない」
「何もしないことを仕事にしてもよい」
ヒロシが少しだけ考えた。
「何もしなくていいなら、最初から雇う必要がない」
「それもそうだな」
二人は同時にうなずいた。
「意気投合するところ、そこなの?」
サクは思わずつぶやいた。
ナナが笑いながら、空いた茶碗を片づける。
「まずは、私たちの家をちゃんと作らないとね」
「広いキッチンも欲しい」
グリが言う。
「本を置く部屋」
キキが続く。
「ねるところ」
ベベは毛布へ戻ろうとしていた。
「おふろ!」
ココが両手を上げる。
「魔獣が安心して過ごせる場所も」
「食堂があれば、魔王国から食材と職人を送ろう」
ヴァルドが言った。
「ドワーフには建築に詳しい者がいる。エルフは森や作物に詳しい。獣人の商人も、国境を越えられる安全な道を求めている」
話がどんどん大きくなっていく。
サクは少しだけ不安になった。
昨日まで、ここは知らない森だった。
今日はもう、いろいろな種族が集まる場所を作る話になっている。
ここへ住むということは、本当に元の世界へ戻らないということなのだろうか。
まだ、帰る方法さえ分からない。
「サク?」
ナナが顔をのぞき込む。
「何でもない」
「無理に今、全部決めなくていいよ」
母は、サクが何を考えているのか分かっているようだった。
「今日は、今日できることをしよう」
サクはうなずいた。
家にするかどうかは、まだ決められない。
けれど少なくとも、今夜も安全に眠れる場所は必要だった。
◇
それから七日間で、高台の景色は大きく変わった。
最初に来たのは、ドワーフの建築職人たちだった。
先頭に立つ赤いひげの男は、ガルムと名乗った。
「一時間で小屋を建てた人族がいると聞いて来てみれば、柱の間隔がばらばらではないか!」
小屋を見るなり、ガルムは怒鳴った。
「倒れてないから問題ない」
ヒロシが答える。
「建物は、倒れなければよいというものではない!」
「雨風を防いで寝られれば、最初は十分だ」
「美しさがない!」
「寝るときは目を閉じる」
「貴様とは分かり合えん!」
一時間後、二人は地面へ図面を広げ、楽しそうに話していた。
「柱を減らせば、掃除する場所も減る」
「その分、梁を太くする必要があるぞ」
「リンが鉱石を見つけた」
「この魔銀鉱なら強度は十分だ。だが加工が――」
「サクが切れる」
二人の視線がサクへ向いた。
「私?」
「この線どおりに、崩壊させられるか?」
ガルムが大きな魔銀鉱へ印をつける。
以前なら、岩へ力を向けるだけで怖かった。
今も怖さはある。
けれど父に教わったように、消したい場所だけを小さく思い描く。
サクが指を向けると、鉱石の表面に細い崩壊の線が走った。
音もなく、巨大な鉱石が二つに分かれる。
「もっと細くできます」
もう一度、力を絞る。
今度は、ガルムが引いた印から少しも外れずに切れた。
「……人族の少女が、最高位の加工職人より正確だと?」
「サク、すごい」
グリが拍手する。
「壊す力じゃなくて、作るためにも使えるんだね」
その言葉が、サクの胸へ残った。
家族を巻き込むかもしれない、危険な力。
ずっとそう思っていた。
けれど使い方を選べば、誰かが暮らす家の柱にもなる。
「サク、次はこっちを頼む」
「急に仕事を増やさないで」
「父が言うな」
サクとガルムの声が重なった。
次にやって来たのは、エルフたちだった。
緑色の髪を長く伸ばした女性、リュネは、高台の土を手で触り、すぐに首を振った。
「このまま畑にすれば、雨のたびに土が流れます」
「じゃあ、どうするの?」
「斜面に段を作り、根の深い木を残します。水路も必要です」
リュネは森を傷つけないよう、残す木と移す木を一本ずつ選んだ。
グリは小動物や虫へ声をかけ、巣のある場所へ印をつけていく。
「ここには卵があるから、掘らないで」
「こっちは小さいモグラみたいな子が住んでる」
「グリ、本当に全部分かるの?」
「言葉は分からないけど、困ってるのは分かるよ」
ピコが木の上から言った。
「私は分かる。モグラは『昨日から地面がうるさい』と怒っている」
「ごめんねって言って」
「自分で言え。気持ちは伝わる」
グリが土へ向かって頭を下げると、地面から小さな鼻だけが出てきた。
キキは切り出した木材の時間を進め、乾燥させた。
数週間かかる作業が、一瞬で終わる。
「便利すぎる」
ガルムが乾いた木をたたいた。
「この力があれば、建築に革命が起きるぞ」
「一日に二時間まで」
キキが言う。
「制限があるのか?」
「残りは読書に使う」
「能力の制限ではなく、本人の予定だよ」
サクが訂正した。
工事の途中、誰もいないはずの木陰から紙をめくる音が聞こえた。
サクが近づくと、キキが時間を止めた空間の中で本を読んでいる。
サクだけは、キキが対象から外していたため動けた。
「キキ」
「休憩中」
「みんなは止まってるけど?」
「だから静か」
「時間を止めて休憩したら、キキだけ休憩時間が長くなるでしょ」
「得してる」
「作業へ戻って」
「あと三ページ」
「元の世界にいた頃から変わってないよ」
ベベは、建築中のあらゆる場所で眠った。
積み上げた木材の上。
乾かしている藁の中。
ガルムが設計図を広げた机の下。
完成前の屋根の上。
「どうやって登ったの?」
「わかんない」
「寝ながら登ったの?」
「たぶん」
危ないので地面へ降ろそうとしたとき、足場を組んでいた職人たちが大声で言い争いを始めた。
「うるさい」
ベベが寝返りを打つ。
白い光が工事現場へ広がった。
次の瞬間、ドワーフもエルフも魔族も、その場で眠り始めた。
木材を持っていた者まで立ったまま寝ている。
「ベベ!」
「しずかになった」
「作業も止まったよ!」
「おひるねのじかん」
ヒロシだけは、すでに自分から昼寝をしていた。
「平和だな」
「父は起きて!」
ププは建築現場の中央へ伏せていた。
落ちかけた木材も、飛び散った石も、家族へ届く前に透明な壁で止まる。
本人はほとんど動かない。
「働いてないように見えて、一番重要な仕事をしてるね」
サクが言うと、ププは片目だけを開けた。
「『見ているだけで守れる。理想的な仕事』だそうだ」
ピコが訳す。
「父と同じこと言ってる」
「ププは実際に役立ってる」
キキが言った。
「父も傷つくぞ」
「心の傷にはポイントが効かないんでしょ」
「よく覚えてるな」
リンは朝になると、必要な物を探しに出かけた。
水源。
鉄鉱石。
魔銀鉱。
塩の結晶。
食べられる木の実。
薬草。
道をふさぐ危険な魔獣。
頼んだ物は何でも見つけて戻ってくる。
ただし、途中でナナが昼食を作り始めると、探索をすべて中断した。
ある日、リンは貴重な鉱石の場所へガルムを案内していた。
山の中腹まで進んだところで、突然向きを変え、全速力で高台へ戻ってきた。
「どうしたの?」
サクが聞く。
「『ナナが唐揚げを揚げ始めた』」
「鉱石は?」
「『あとで』」
「仕事よりご飯を選んだ!」
「正しい判断だ」
ヒロシがうなずく。
「父はリン側に立たないで」
七日目の夕方。
最初の小屋の隣に、ホシノ家の新しい家が形になった。
広い居間。
大きな食卓。
ナナが動きやすいキッチン。
家族全員が眠れる部屋。
キキの本棚。
魔獣たちが出入りできる大きな入口。
ベベがどこで寝ても危なくない、低い段差。
ヒロシが最短距離で寝床と食卓を移動できる間取り。
「最後のは必要だった?」
サクが聞く。
「一日に何度も使う動線だ。重要に決まってる」
ヒロシは完成した床へ寝転がった。
「調査結果は?」
「最高」
召喚される前の日曜日と、同じ答えだった。
サクは少しだけ笑った。
まだ自分の家だと言い切ることはできない。
けれど、床に寝る父と、台所に立つ母と、好きな場所へ散っていく妹たちを見ていると、見知らぬ建物には思えなかった。
◇
さらに三週間が過ぎた。
高台の周囲には、家だけでなく、食堂、食料庫、共同浴場、小さな宿、作業場が並んでいた。
森の斜面には畑が広がり、エルフたちが育てた野菜が風に揺れている。
グリが浄化した森には、傷ついた魔獣や小動物が集まるようになった。
魔族の家族。
獣人の商人。
ドワーフの職人。
エルフの農家。
人族の旅人まで、少しずつ高台へ立ち寄るようになった。
最初は互いを警戒していた者たちも、ナナの食堂で同じ鍋を囲むうちに、少なくとも食事中は武器へ手を伸ばさなくなった。
会話が通じないときは、ピコが食堂の一番高い棚から翻訳する。
「右の獣人は、肉をもう一皿欲しいと言っている」
「左のドワーフは?」
「酒が薄いと文句を言っている」
「エルフの人は?」
「ドワーフの声が大きいと文句を言っている」
「全部文句だね」
「会話とは、だいたいそういうものだ」
ピコは忙しいと言いながら、毎日同じ棚へ座った。
食堂の外には、温泉を作る予定の広い窪地があった。
水脈はリンが見つけた。
あとは掘るだけだったが、ヒロシが地面を見ながら考え込んでいる。
「父、どうしたの?」
「掘るのが面倒だ」
「温泉が欲しいって言ったの、父でしょ」
「欲しい。でも掘りたくない」
「じゃあ、みんなで掘ろうよ」
「何日もかかる」
ココが手を上げた。
「るーれっと!」
「駄目!」
サクは反射的に止めた。
ココが頬を膨らませる。
「そうだん、したよ?」
「あ……」
最初にルーレットを回したとき、家族会議で決めてから使うと約束した。
ココは初めて、勝手に回さず許可を求めたのだ。
「温泉が出るとは限らないよ。世界崩壊もあるんだから」
「キキ、なおす」
全員の視線がキキへ集まる。
「戻せるよ」
「簡単に言わないで」
ヴァルドも魔王国から来ていた。
温泉予定地を見学していた魔王は、ココからゆっくり距離を取る。
「私は反対ではないが、魔王国の国境まで効果が及ぶ場合は先に教えてほしい」
「反対してる顔だよ」
「王として慎重なだけだ」
家族会議の結果、キキが時間逆行の準備をし、ププが全員を守り、サクがココをすぐ止められる位置に立つことを条件に、一度だけ回すことになった。
「いっかいだけ?」
「一回だけ」
「せかいほうかい、でたら?」
「すぐ戻す」
「おかし、でたら?」
「みんなで食べる」
「おんせん、でたら?」
「成功」
ココは満足そうに両手を上げた。
空に巨大なルーレットが現れる。
周囲へ集まった魔族、獣人、エルフ、ドワーフたちが一斉に後ろへ下がった。
「見学に来たんじゃないの?」
「安全な距離から見学する」
ガルムが答える。
「安全な距離なんてあるのかな」
キキが真顔で言った。
「今それを言うな!」
円盤が回る。
金貨。
雨。
巨大な城。
重力反転。
お菓子。
新しい神。
世界崩壊。
針が危険な文字を通るたび、見物人から悲鳴が上がった。
やがて回転が遅くなる。
針は「新しい神」の前を通り過ぎ、「世界崩壊」の手前で止まりかけた。
「またそこ!?」
サクが叫ぶ。
針が一つ先へ進む。
――大温泉が誕生する。
「やった!」
ココが跳びはねた。
地面の下から、低い音が響く。
窪地の中央に亀裂が入り、次の瞬間、熱湯が空高く噴き上がった。
「大きすぎる!」
温泉の柱は家より高く上がり、見物人全員へ降り注いだ。
ププの防御は攻撃ではないと判断したのか、湯は普通に家族へ落ちてくる。
サクも、ヴァルドも、ガルムも、全身ずぶ濡れになった。
ベベだけは温かい湯の中へ仰向けに浮かび、そのまま眠っている。
「ベベ! 寝ないで!」
「きもちいい」
「おぼれるよ!」
「ププがいる」
「防御の使い方が違う!」
ヒロシは湯へ肩までつかり、満足そうに目を閉じた。
「結果的には成功だな」
「父、まだ浴場もできてないよ」
「先に入って調査してる」
「その言い訳、元の世界でも聞いた!」
温泉は三日後、ドワーフたちの手で安全な共同浴場へ変わった。
ベベは毎日そこで寝ようとし、サクに連れ戻された。
いつの間にか、高台は「ホシノの里」と呼ばれるようになっていた。
誰が名づけたのかは分からない。
サクたちは支配しているつもりなどなかった。
けれど困ったことがあれば、みんながホシノ家へ相談に来る。
魔獣が暴れればグリへ。
道が壊れればサクとキキへ。
食料が足りなければナナとリンへ。
争いが起きればピコが双方の言葉をつなぐ。
危険が迫ればププが前へ出る。
働き方に無駄があれば、ヒロシが寝転がりながら口だけを出す。
「それを支配者と呼ぶのではないか」
ヴァルドが言った。
「呼ばないよ」
「少なくとも、皆はそう思っている」
「父なんてほとんど寝てるよ」
「寝ながら里全体の動線を直し、仕事を三割減らした」
「本人が働かないために考えただけです」
「理由はともかく、皆が休めるようになった」
サクは返事ができなかった。
誰かに決められた勇者の役目は、何一つ果たしていない。
魔王を倒してもいない。
世界を救おうともしていない。
ただ家族が快適に暮らせる場所を作った。
その結果、周りの人たちまで笑うようになっている。
それは少し、不思議だった。
◇
ブルムンド王国の軍が現れたのは、ホシノの里で最初の収穫祭を開く日の朝だった。
リンが森の入口へ顔を向け、低くうなった。
「敵?」
サクが聞く。
「『兵士が三百。馬車が二十。大きな魔法具もある』」
ピコが訳す。
収穫祭のために集まった人々がざわめいた。
魔族も、獣人も、エルフも、ドワーフもいる。
魔王国の兵士たちが武器を取ろうとする。
「待って」
サクは止めた。
「ここで戦えば、畑も家も壊れる」
「では、どうする」
リゼラが尋ねる。
「まず話を聞く」
王城でサクたちが求めても、誰もしてくれなかったことだ。
里の入口へ向かうと、森を切り開いた道にブルムンド王国の旗が並んでいた。
先頭には、金色に飾られた大きな馬車がある。
扉が開き、ゴルド王と王妃が降りてきた。
魔の森へ来る服装とは思えないほど、宝石を身につけている。
その後ろには、召喚の間にいた大臣と、杖を持った老人もいた。
「生きておったか」
ゴルド王は、サクたちを見ても喜ばなかった。
むしろ、困った物を見るように眉をひそめた。
「生きていたら困りますか?」
「余は、そなたたちを処刑した覚えはない。危険な森へ追放しただけだ」
「同じでしょ」
「結果として生きているのだ。問題はあるまい」
その言い方に、サクの胸が熱くなる。
けれど、すぐには力へ手を伸ばさなかった。
「何をしに来たんですか?」
「そなたたちを迎えに来た」
「帰りません」
「余の許可なく決められると思うな」
王は里を見回した。
立派な家。
畑。
食堂。
温泉から上がる湯気。
魔族や獣人たち。
その目にあるのは驚きではなく、欲だった。
「この地も、そなたたちの力も、ブルムンド王国が召喚したことで得られたものだ。ゆえに、すべて我が国の所有物である」
「人は物じゃない」
「異世界人は、召喚国のために働く義務がある」
「そんな決まり、聞いてません」
「王である余が決めた」
「勝手に決めないで」
サクの声が低くなる。
ゴルド王の後ろで、兵士たちが黒い首輪を運び出した。
見ただけで嫌な感じがする魔法具だった。
リンが吠える。
「『命令に逆らえなくする隷属の魔道具』」
ピコの声が冷たくなる。
「私たちにつけるつもり?」
「保護のためだ」
「誰から?」
「そなたたち自身からだ。強い力を持つ子どもを、自由にしておくわけにはいかぬ」
ココがサクの服をつかんだ。
ベベも眠そうな目のまま、ナナの後ろへ隠れる。
ヒロシが一歩だけ前へ出た。
「帰れ」
普段の気の抜けた声ではなかった。
「貴様は黙れ。最低位の《グータラ》しか持たぬ役立たずが」
「その役立たずに、森へ捨てた家族を返せと言うのか」
「王命だ」
「知らん」
ゴルド王が手を上げた。
「捕らえよ」
兵士たちが一斉に動く。
前列から、拘束用の魔法が放たれた。
光る鎖が空を走る。
ププが家族の前へ一歩出た。
透明な壁が里の入口を覆う。
鎖はすべて壁へ触れた瞬間に砕け、光の粒となって消えた。
「何だ、これは!」
「ププの防御」
グリが誇らしそうに言う。
「ププ、すごいんだよ」
王国の魔術師たちが続けて火球を放つ。
炎は壁へ吸い込まれ、熱も風も届かない。
後ろの畑では、葉一枚揺れなかった。
「撃ち続けよ!」
ゴルド王が叫ぶ。
兵士たちの中には、ためらっている者もいた。
魔の森へ捨てた家族へ、何度も魔法を撃つことを望んでいない顔だった。
そのとき、後方の魔法具が強く光った。
巨大な槍のような雷が、空へ伸びる。
「ププなら大丈夫」
サクは信じていた。
雷は透明な壁へ衝突し、森全体を白く染めた。
次の瞬間には、何も残っていなかった。
ププはあくびをした。
「『朝からうるさい』だそうだ」
ピコが言う。
ベベが目をこする。
「ほんとに、うるさい」
「ベベ、待って」
「みんな、ねればいい」
白い光が、王国軍の前列へ広がった。
剣を構えていた兵士たちが、次々に地面へ座り込み、そのまま眠り始める。
魔術師も、馬も、杖を持った老人も眠った。
馬は器用にその場へ伏せている。
「何をした!」
「寝かせただけ」
ベベは自分もナナの腕の中で眠り始めた。
残った兵士たちが後ずさる。
そこで一人の兵士が、ココへ小さな弓を向けた。
隷属の針を撃ち込む道具だった。
「子どもを狙うな!」
サクが叫ぶより早く、ヒロシの姿が消えた。
次の瞬間には兵士の前へ立ち、弓を片手で握っている。
金属の武器が、乾いた枝のように折れた。
「俺に用があるなら、俺に言え」
ヒロシは兵士をにらんだ。
「子どもに触るな」
兵士は腰を抜かし、その場へ座り込んだ。
ヒロシはすぐに家族のもとへ戻る。
「父、今の速さは何?」
「ポイントを少し使った」
「少しであれなの?」
「今日はあとで多めに休む」
「いつも休んでるでしょ」
王国軍の魔法で壊れた道を、キキが指先を動かして元へ戻す。
転んで腕を傷つけた兵士には、グリが近づいた。
「敵だぞ!」
リゼラが止める。
「でも、痛そう」
グリの緑の光で、兵士の傷が閉じる。
治された兵士は、何も言えずグリを見つめた。
「どうして敵を治す」
ゴルド王が怒鳴る。
「怪我をしてるから」
グリには、それ以外の理由が必要ないらしい。
ココが両手を上げる。
「るーれっと、する?」
「待って!」
王国軍の兵士たちが一斉に叫んだ。
魔王国から噂が伝わっていたのかもしれない。
「世界崩壊が出るかもしれないよ」
キキが説明する。
「説明しなくていい!」
兵士たちは完全に戦う気を失った。
それでもゴルド王だけは退かなかった。
「余は王だぞ! この世界の秩序へ逆らうつもりか!」
「逆らってるのは、あなたです」
ヴァルドが人々の間から前へ出た。
魔王の姿を見て、王国軍が再びざわめく。
「魔王……! やはり異世界人をたぶらかしたか!」
「彼らは自分の意思でここにいる」
「黙れ、魔族。これは人族の問題だ」
「異世界召喚の協定は、八ヶ国と魔王国を含む停戦監察会が管理している。そなたの国だけの問題ではない」
ヴァルドが黒い水晶を取り出した。
水晶の周囲に、七つの光る鏡が現れる。
鏡の向こうには、王冠をかぶった者、軍服の女性、白いひげの老人などが映っていた。
「何だ、それは」
ゴルド王の顔色が変わる。
「盟約記録水晶だ。先ほどから、七ヶ国の代表がすべて見ている」
『ゴルド王』
鏡の一つから、厳しい声が響いた。
『八人分の召喚枠を独占したという報告は、事実か』
「これは罠だ!」
『異世界人を所有物と呼び、隷属の魔道具まで持ち込んだことも、我々は聞いた』
「国を守るための、やむを得ない判断だ!」
『他国も国を守っている。そのために協定がある』
ゴルド王は自分で認めてしまった。
大臣が青い顔で座り込む。
王妃は扇子で顔を隠しているが、手が震えていた。
『ブルムンド王国には、召喚施設の封印、協定違反の調査、被害を受けた者への補償を求める』
『調査が終わるまで、共同交易と軍事支援から除外する』
『拒否する場合、七ヶ国はブルムンド王国を協定国と認めない』
「余を脅すのか!」
『自ら行ったことの結果だ』
鏡の光が消える。
ゴルド王はサクをにらんだ。
「貴様のせいだ」
「違う」
サクははっきり答えた。
「自分で決めて、自分でやったことのせいです」
「黙れ!」
王が護身用の短剣を抜いた。
サクへ向かって投げようとする。
胸の奥で熱が弾けた。
けれどサクは、王へ力を向けなかった。
王国軍とホシノの里の間にある地面へ、意識を集中する。
細い線。
誰もいない場所。
家にも、畑にも、森にも届かない範囲。
「《カオス・バースト》」
地面が低く震えた。
轟音とともに、大地へ長い亀裂が走る。
幅は数メートル。
底が見えないほど深い。
けれど、兵士にも馬にも石一つ当たっていなかった。
王の手から短剣が落ちる。
「私たちは、戦いたくありません」
サクは王をまっすぐ見た。
「あなたの国を滅ぼしたいとも思いません。でも、私の家族や、ここで暮らす人たちへ手を出すなら、止めます」
声は震えなかった。
「この線を越えないでください」
長い沈黙が流れた。
ゴルド王は何か言おうとしたが、言葉が出なかった。
最後には兵士たちに支えられ、馬車へ戻っていく。
眠っている兵士たちは、キキが時間を少し進めて起こした。
グリに治された兵士は、帰る前に小さく頭を下げた。
サクたちは追わなかった。
奪われた物を取り返すために、王国へ攻め込むこともしない。
ただ、二度とここへ入らないよう伝えただけだった。
「甘いと思うか?」
ヴァルドが尋ねた。
「分かりません」
サクは亀裂を見つめた。
「でも、王国を壊しても、私たちの家がよくなるわけじゃないから」
「そうだな」
ヒロシがサクの頭へ手を置く。
「面倒も増える」
「父は最後までそれなんだね」
「大事な判断基準だ」
ナナがみんなを見回した。
「話が終わったなら、収穫祭を始めようか」
「今から?」
「お料理が冷めちゃうでしょ」
王国軍が去ったばかりの道の向こうから、リンが食堂へ走り出した。
「リン! まだ待てだよ!」
いつもの騒ぎが戻ってきた。
サクは大きく息を吐き、それから家族と一緒に食堂へ向かった。
◇
収穫祭の料理がすべて並んだ頃、空から白い光が降りてきた。
サクは反射的に妹たちをかばう。
光は食堂の前へ集まり、三人の人影になった。
一人は白い髪の女性。
一人は小柄な老人。
もう一人は、少年にも少女にも見える不思議な姿をしていた。
『久しぶりです』
男女の区別がつかない声。
世界と世界の間で聞いた声だった。
「神様?」
『はい』
ココが両手を上げる。
「かみさま、つくる?」
『作らなくて結構です』
三人の神が同時に答えた。
「ココの能力、知ってるんだ」
『ずっと見ていましたから』
「見てたなら、助けてくれてもよかったでしょ」
サクが言うと、神々はそろって視線をそらした。
『世界へ直接介入できる範囲には、決まりがありまして』
「説明が足りない」
キキが言った。
『その件については、反省しています』
白い髪の女神が深く頭を下げる。
『ブルムンド王国の召喚を止められず、あなたたちを元の世界へすぐ戻すこともできませんでした。さらに、ププとリンへ役目を与えながら、十分な説明をしなかったことで、二匹を長く苦しませました』
ププは神々を見ても怒る様子を見せなかった。
リンは神々ではなく、宴会の料理を見ている。
「ププたちを、この世界へ送ったの?」
『はい。亡くなった二匹の魂へ、新しい生を提案しました。この世界の均衡を守ってほしいと』
「リンには、食べ物がたくさんあると言った?」
神々がまた視線をそらす。
『来てもらうために、少し魅力を強調しました』
「神様が勧誘で話を盛った」
ピコが冷たく言った。
『反省しています』
小柄な老人の神は、ナナの料理へ何度も目を向けている。
「もしかして、謝りに来ただけじゃないよね?」
サクが聞く。
『世界の均衡を確認するためです』
「料理を見てるけど」
『確認には食事が必要です』
「絶対違う」
ナナが苦笑した。
「たくさん作ったので、あとで一緒に食べましょう」
三人の神の表情が一気に明るくなる。
『ありがとうございます』
「神様も母のご飯に負けた」
グリが言った。
けれど、不思議な姿の神だけは、まだ真剣な顔をしていた。
『その前に、サク。あなたたちへ伝えることがあります』
「何?」
『世界の境界が安定しました。今なら一度だけ、あなたたちを元の世界へ戻せます』
食堂のざわめきが消えた。
サクは、すぐには意味を理解できなかった。
「帰れるの?」
『はい。七人とピコを、召喚された直後の世界へ戻すことができます。向こうでは、ほとんど時間が進んでいません』
「ププとリンは?」
『二匹は、元の世界ではすでに寿命を終えています。魂をそのまま戻すことはできません』
グリがププの顔を見上げる。
リンも、ようやく料理から家族へ視線を戻した。
「帰るなら、またお別れなの?」
『そうなります』
胸の中が苦しくなる。
帰りたいと思ったことは、何度もあった。
自分の部屋。
学校。
使い慣れた物。
日曜日のリビング。
召喚される前まで、当たり前だった生活。
帰れるなら、帰りたい。
そう思うはずだった。
けれど今、後ろにはホシノ家の家がある。
畑がある。
食堂がある。
温泉がある。
ププとリンがいる。
リゼラやガルムやリュネたちが、黙ってサクを見ている。
「今、決めないと駄目ですか?」
『境界を開ける機会は、今回だけです。ただし、家族で話す時間はあります』
サクは家族を見た。
誰も、先に答えなかった。
ヒロシもナナも、サクへ決断を押しつけるつもりはないようだった。
「家で話そう」
サクが言う。
家族十人で、新しい家の居間へ入った。
ププとリンも大きな入口から顔を入れる。
最初に口を開いたのはキキだった。
「私は、残りたい」
「すぐに決めたね」
「この世界の本を、まだほとんど読んでない」
「理由がキキらしい」
「でも、元の家の本も途中だった」
「どっちなの?」
「迷ってる。でも、こっちの本の方が数が多い」
判断基準が本だった。
グリはププの鼻へ抱きついている。
「私は、ププとリンと一緒がいい。森の子たちも、まだ治してあげたい」
「ベベは?」
「どっちでも、ねれる?」
「寝られるよ」
「じゃあ、みんながいるほう」
ココも手を上げる。
「ココ、おんせんいる!」
「元の家には温泉ないもんね」
「るーれっともする!」
「それはどこでも制限するよ」
ピコは窓辺へ座った。
「私は猫だ。住む場所は、人間が決めればいい」
「ピコはどうしたいの?」
「家族がいる方へ行く。それ以上でも、それ以下でもない」
素直ではないが、答えは分かりやすかった。
ナナは少しだけ寂しそうに笑った。
「母も、向こうへ帰りたい気持ちはあるよ」
「母……」
「大切な場所だったからね。でも、家族の誰かをここへ置いていくのは、もっと嫌かな」
ヒロシは床へ寝転がっていた。
「父は?」
「どちらでもいい」
「ちゃんと考えて」
「考えた。家族全員がいる方が家だ。場所はどちらでもいい」
「ププとリンも?」
「当たり前だろ」
ププの短い尻尾が床をたたく。
リンはナナの隣へ顔を置いた。
サクは家族の顔を一人ずつ見た。
帰りたい気持ちは消えていない。
たぶん、完全には消えない。
元の世界を忘れる必要もない。
けれど、帰ればまた失うものがある。
ここには、家族がいる。
自分たちが作った家がある。
待ってくれる人たちがいる。
王国に命じられたからではない。
神に役目を与えられたからでもない。
自分たちで選んで、ここまで来た。
「私も、残りたい」
サクは言った。
「帰れないからじゃない。帰ることもできるけど、私はみんなとここにいたい」
胸の奥に、少しだけ痛みがあった。
それでも言葉にした瞬間、迷いよりも温かい気持ちが大きくなった。
「ここを、私たちの家にしよう」
ナナがサクを抱きしめる。
グリとココも飛びつき、ベベは途中で眠りながら寄りかかった。
キキも静かに隣へ座る。
ヒロシは起き上がり、全員をまとめて腕の中へ入れた。
ピコは少し離れて見ていたが、最後にはサクの膝へ乗った。
ププとリンの巨大な鼻が、入口から家族へ押しつけられる。
「狭い!」
サクは笑った。
家がきしむほどの十人家族だった。
◇
神々へ答えを伝えると、不思議な姿の神は静かにうなずいた。
『あなたたちの選択を尊重します』
「役目を果たさなくてもいいの?」
『最初から、あなたたちへ世界を救う役目を命じたつもりはありません』
「能力はくれたけど」
『生きるための助けとして渡しました。使い方を決めるのは、あなたたちです』
サクは少し考えた。
自分の力は、世界を壊すこともできる。
でも、家を作ることにも使えた。
誰かが決めた使い方ではなく、自分で選べばいい。
「じゃあ、料理を食べよう」
ヒロシが言った。
「大事な話が終わるのを待ってた」
「父、途中から料理ばかり見てたでしょ」
「神様も見てた」
『我々は世界の均衡を見ていました』
老人の神が言い張る。
「鍋の均衡?」
キキが聞く。
『具材の配分も重要です』
「認めた」
収穫祭は、そのまま大宴会になった。
魔族、獣人、エルフ、ドワーフ、人族、魔獣、神々。
今まで同じ場所で食事をしたことがない者たちが、長いテーブルを囲む。
ヴァルドはヒロシの隣へ座り、魔王国の役所から無駄な書類を減らす方法を相談していた。
「まず会議を半分にしろ」
「どの会議も必要だと担当者が言う」
「必要と言う人を会議へ集めて、その会議をなくせ」
「矛盾していないか?」
「最後の会議だ」
「なるほど」
「魔王まで父に影響されてる」
サクは不安になった。
白い髪の女神はナナの煮込み料理を食べ、目を輝かせている。
老人の神はドワーフと酒を飲み始めた。
不思議な姿の神は、ココが指を回すたびに動きを止める。
「るーれっと、しないよ?」
『信じています』
「顔が信じてない」
ピコが指摘した。
リンは料理の皿へ近づこうとし、ヒロシに首のしわをつかまれている。
ププは家族のすぐそばへ伏せ、騒ぎを気にせず目を閉じていた。
グリは子どもの魔獣たちと遊んでいる。
ベベは宴会の途中で、温泉から運ばれてきた長椅子へ横になり、眠っていた。
キキは本を開き、こっそり時間を止めようとしている。
「キキ」
「まだ止めてない」
「指が動いてた」
「料理がなくなる前に、読書時間を確保しようとしただけ」
「食べるか読むか、どっちかにして」
「難しい選択」
ヴァルドが杯を上げた。
「ホシノの里と、新たな友人たちに」
人々も杯や器を上げる。
「魔の森の支配者、ホシノ家に!」
ガルムが大声で続けた。
「支配してないよ!」
サクが否定する。
「誰もそなたたちへ逆らおうと思わぬ時点で、十分に支配者だ」
ヴァルドが笑う。
「怖がらせてないもん」
「分かっている。だから皆が認めている」
サクは周囲を見回した。
笑っている人たち。
料理を取り合う神々。
酒を飲みすぎるドワーフ。
それを注意するエルフ。
獣人の子どもと走るココ。
料理を狙うリン。
そのリンを止める父。
家族のために次の料理を運ぶ母。
騒がしくて、まとまりがない。
けれど、嫌ではなかった。
ここが、自分たちの家なのだと思えた。
◇
それから数か月後。
ホシノの里には、さらに多くの家と店が増えていた。
食堂の隣には酒場ができ、温泉の近くには宿が建った。
畑では異世界の野菜と、ナナの収納から出した元の世界の種が並んで育っている。
森の一角には、魔獣が安心して暮らせる広場がある。
キキの図書室には、魔王国やエルフの国から集めた本が並ぶ。
ベベは図書室、温泉、食堂、畑の端と、毎日違う場所で眠っていた。
ココのためには「ルーレットを回す前に家族へ相談する場所」と書かれた広場が作られた。
作っただけで、誰も積極的に使わせようとはしない。
ブルムンド王国は、七ヶ国の調査を受けていた。
召喚施設は封印され、国境の侵攻も止まった。
王と王妃は以前のような贅沢を続けられず、魔の森の交易からも外されているらしい。
サクたちは、それ以上何もしなかった。
王国が後悔するかどうかは、王国の人たちが決めることだ。
ホシノ家には、毎日の暮らしで十分に忙しい。
ある日の昼。
新しい家の食卓に、ナナが大皿を運んできた。
「今日はハンバーグだよ」
ヒロシが床から起き上がる。
「調査終了」
「何の調査をしてたの?」
サクが聞く。
「この床で、人間がどれだけ快適に過ごせるか」
「結果は?」
「最高」
「知ってた」
キキが本を閉じる。
グリは外で遊んでいた小さな魔獣へ手を振る。
ベベはテーブルの下から出てきた。
「なんでそこで寝てるの?」
「近いから」
「前と理由が変わってないよ」
ココは手を洗っていなかった。
「ココ、あらってないよ!」
「自信満々に言わないで」
ピコは窓辺から、仕方なさそうに食卓へ移動する。
ププは家の外へ伏せたまま、大きな顔だけを入口から入れている。
リンはナナの手元を見つめ、今にも飛びかかりそうだった。
「待て」
ナナが言う。
リンの大きな体が震える。
ヒロシが首のしわへ手をかけた。
「まだだよ」
よだれが床へ落ち始める。
「母、家が水浸しになる」
「待つことも大事だよ」
全員が席についた。
サクは家族の顔を見回す。
父。
母。
キキ。
グリ。
ベベ。
ココ。
ピコ。
ププ。
リン。
元の世界と同じではない。
失った物もある。
これから困ることも、きっとたくさんある。
それでも、自分たちで選んだ場所に、全員がいる。
「いただきます」
家族の声が重なった。
サクは一瞬だけ床を見た。
光らない。
魔法陣も現れない。
今度こそ、ゆっくり食べられる。
「よし」
ナナが言った瞬間、リンがハンバーグへ飛びついた。
「リン!」
ヒロシが止め、ココが笑い、ベベが食べる前から眠そうに目をこする。
キキは自分の皿だけ時間を止めようとして、サクに手を押さえられた。
ピコが呆れ、ププは静かに尻尾を振る。
いつもどおり、騒がしくて、まとまりがない。
けれどサクにとっては、当たり前で、大切な日常だった。
ホシノ家の新しい暮らしは、魔の森で始まったばかりだった。




