第1章-2 死んだはずの家族と、魔の森の開拓
「グリ!」
サクの叫びと同時に、黒い巨大魔獣の前足が振り下ろされた。
二階建ての家ほどもある体。
その一撃を受ければ、小さなグリなど地面ごと押し潰されてしまう。
サクの胸の奥で、熱が弾けた。
目の前に、先ほど消したはずの選択肢が再び浮かぶ。
――固有能力を発動しますか?
考えるより先に、サクは力へ手を伸ばしていた。
グリを守る。
それ以外のことは、何も考えられなかった。
けれど、発動を選ぶ寸前。
グリの両手から、柔らかな緑色の光があふれ出した。
「大丈夫だよ」
グリは逃げなかった。
震えてはいた。
それでも、飛びかかってくる魔獣をまっすぐ見上げていた。
「もう、苦しくないからね」
緑の光が、何本もの細い糸となって伸びる。
黒い魔獣の前足が、グリの頭へ届く直前で止まった。
止めたのは壁ではない。
魔獣自身だった。
巨大な爪が、グリの髪を揺らすほど近くにある。
それでも魔獣は、そこから一歩も動かなかった。
「グリ、下がって!」
サクが妹の腕をつかもうとする。
「待って、サク」
グリは小さく首を振った。
「この子、我慢してる」
黒い魔獣の全身から、黒い霧が噴き出した。
霧はグリから逃れようと暴れたが、緑の光に絡め取られ、少しずつ魔獣の体から引き抜かれていく。
隣の茶色い魔獣も、苦しそうに木へ体をぶつけた。
「もう一匹も!」
「一緒に治すよ」
グリの光が二つに分かれた。
サクは発動しかけた力を止める。
今はグリを信じる。
もし何かあれば、そのときは自分が守る。
ヒロシがグリの後ろへ立ち、ナナが妹たちを抱き寄せた。
キキは黒い霧を見つめる。
「あれだけ、時間の流れが違う。最初からこの子たちの中にあったものじゃない」
やがて、最後の黒い霧が緑の光へ吸い込まれた。
森を覆っていた重苦しい空気が、一気に軽くなる。
黒い巨大魔獣は、その場に崩れ落ちた。
地面が大きく揺れ、サクはグリを抱えて後ろへ飛びのく。
茶色い魔獣も、力が抜けたように腹ばいになった。
「グリ、大丈夫?」
「うん」
グリは息を切らしながら笑った。
「この子たちも、大丈夫」
黒い魔獣が、ゆっくりと顔を上げる。
赤く光っていた目は、濡れたような黒い瞳へ変わっていた。
近くで見ると、恐ろしい牙よりも、平たい鼻のほうが目立つ。
丸い頭。
短い鼻。
額に寄った深いしわ。
サクは、その顔を知っていた。
大きさはまるで違う。
けれど、首を少し傾けてこちらを見る癖まで同じだった。
「……ププ?」
自分の口から出た名前に、サク自身が息をのんだ。
黒い魔獣の耳がぴくりと動く。
「ププなの?」
グリが一歩近づく。
黒い魔獣は、地面へ鼻先をつけるほど頭を下げた。
そして、喉の奥から小さな声を漏らす。
体の大きさに似合わない、甘えるような鳴き声だった。
「ププ!」
グリが巨大な鼻へ抱きついた。
「待って、グリ! 本当にププか分からないでしょ!」
「ププだよ!」
グリは振り返らずに言った。
「この顔も、声も、ププだもん!」
それだけでは、まだ説明になっていない。
けれど、ナナが震える手を差し出したとき、黒い魔獣はゆっくりと鼻先を近づけ、その大きな顎を左の手のひらへ預けた。
甘えたいときにだけ見せていた、昔と同じ仕草だった。
サクの胸の奥に残っていた最後の疑いが、そこでほどけた。
前の世界で、ホシノ家と一緒に暮らしていた黒いパグ。
いつも静かで、必要がなければほとんど動かなかったププ。
年を取って歩けなくなってからも、家族が帰ってくると、重そうに顔だけを上げて迎えてくれた。
そのププは、もういないはずだった。
「ププ」
ナナが、かすれた声で名前を呼んだ。
黒い巨大魔獣の尻尾が動く。
短く丸まった尻尾が、地面を何度もたたいた。
ナナは口元を押さえた。
笑っているのか、泣いているのか、サクにはすぐに分からなかった。
「本当に、ププなの?」
ナナが近づくと、ププは巨大な顔をそっと寄せた。
鼻先がナナの肩へそっと触れる。
匂いを確かめるように息を吸い、安心したように目を細めた。
「母、つぶされないでね」
キキが冷静に注意する。
「今それ言う?」
「大事だから」
サクは笑いそうになった。
胸がいっぱいなのに、キキの言葉はいつも通りだった。
そのとき、茶色い巨大魔獣が勢いよく立ち上がった。
サクたちは一斉に身構える。
茶色い毛並み。
黒い顔。
丸い目。
こちらも、見間違えるはずがなかった。
「リン……?」
茶色い魔獣は、ナナを見つめた。
正確には、ナナの服を見つめている。
「リン?」
ヒロシが呼ぶ。
反応はない。
「ナナちゃん。あれ、俺たちじゃなくて、服についた匂いを見てない?」
「匂いは見るものではない」
ピコが訂正した。
リンの鼻が激しく動く。
そして突然、森の木々を揺らすほど大きく吠えた。
「何て言ってるの、ピコ?」
グリが尋ねる。
ピコは少し間を置いた。
「『ご飯はどこ』だそうだ」
家族全員が黙った。
「……リンだね」
サクが言う。
「間違いなくリンだな」
ヒロシもうなずいた。
前の世界でも、リンは食べることが大好きだった。
袋を開ける音がすれば、別の部屋で寝ていても飛んできた。
自分のご飯を食べ終えたあとも、何日も何も食べていないような顔で人の皿を見つめていた。
ナナが着ている服には、食べる直前だったハンバーグの匂いが残っているのかもしれない。
「リン。ご飯はあとでね」
ナナが優しく言う。
リンは、理解したように一度うなずいた。
次の瞬間、ナナへ突進した。
「全然分かってない!」
サクが叫ぶ。
巨大な前足が地面を蹴る。
木々が揺れ、鳥のような魔獣が一斉に飛び立った。
ヒロシが前へ出る。
「父、危ない!」
「大丈夫だ」
ヒロシは面倒そうに片手を上げた。
リンの巨大な顔が迫る。
普通なら、人間一人など簡単に吹き飛ばされる勢いだった。
それをヒロシは、鼻先へ手を当てただけで止めた。
ドン、と地面が沈む。
ヒロシの足元から、円形に亀裂が広がった。
それでも本人は一歩も動いていない。
「おすわり」
リンが座った。
「父、何したの?」
「俺も分からん」
ヒロシの前に、半透明の板が現れる。
――――――――――――――――――
名 前:ヒロシ・ホシノ
種 族:人族
レベル:測定不能
固有能力:グータラ
能力階級:特殊
詳 細:
休息及び怠惰な生活によって
グータラポイントを蓄積する。
ポイントを消費することで、身体能力、
魔力、防御力その他の能力を上昇させる。
また、本人を中心とする一定範囲内では
周囲の能力情報を隠蔽する。
――――――――――――――――――
板の端には、数字も表示されていた。
保有グータラポイント――八百七十二万四千六百三十一。
「多くない?」
サクは思わず聞いた。
「神様が、これまでの人生も評価してくれたらしい」
「父の今までが、数字になってる……」
「サク。そんな残念そうな顔をするな。父の生き方が異世界で認められたんだぞ」
「認められていい生き方だったのかな」
「結果がすべてだ」
「ヒロシくん」
ナナが笑顔で呼んだ。
「はい」
「リンを止めてくれてありがとう。でも、子どもたちの前で怠けることを正当化しないでね」
「はい」
ヒロシは素直に答えた。
サクは、父が王城で全員の能力を隠していた理由を理解した。
本人も知らないうちに、家族の本当の力を見えなくしていたのだ。
王城の鑑定晶や、何もしていないときに呼び出すスキルパネルは、ヒロシの近くでは偽装される。けれど、能力を実際に使った瞬間、本人と家族にだけ開かれる「使用情報」までは隠れないらしい。
「父から三メートルくらい離れれば、普通のスキルパネルも本物になる。近くにいても、能力を使ったときの情報だけは家族に見えるみたい」
「便利そうで不便だな」
「王城では便利だったよ。もし全部見られてたら、もっと面倒なことになってた」
「それなら、この能力は優秀だ」
「父にとって、面倒を避けられる能力は全部優秀なんだね」
「よく分かってきたな」
リンが、ヒロシの腕の横からナナを見つめている。
視線は相変わらず、ナナの服から離れない。
「ご飯、出せるか試してみるね」
ナナが右手を前へ出した。
「母も能力の使い方が分かるの?」
「なんとなく。白い場所で、家族が困らないように、必要な物を全部持っていける力が欲しいってお願いしたの」
ナナの目の前に《無限収納》という文字が浮かび、その直後、扉のような黒い四角が現れた。
向こう側には、星空にも似た広い空間が続いている。
ナナが手を入れ、何かを探す。
「えっと……あった」
取り出したのは、見覚えのある白い皿だった。
皿の上には、湯気を立てるハンバーグが載っている。
「ハンバーグ!」
ココが跳びはねた。
「冷めてない」
キキが皿へ顔を近づける。
「時間が止まってたみたい」
「召喚される直前のご飯だ」
サクの胸が、また少し熱くなった。
異世界へ連れてこられたことで、突然失ったと思っていた日曜日の食卓。
その一皿が、目の前に戻ってきた。
ナナは収納から、家族の食事やテーブル、椅子、鍋、毛布、救急箱を次々に取り出した。
召喚の光に包まれていた物だけではない。ナナが家族に必要だと思い浮かべた物は、家の別の部屋にあった物まで収納へ移されているらしい。
最後に、ヒロシが床で使っていたクッションまで出てくる。
「俺の重要装備まである」
「そこを一番喜ぶんだ」
「異世界で快適に暮らすには必要だぞ」
「父の重要装備、弱そう」
ナナが地面へテーブルを置き、皿を並べる。
リンの体が低くなった。
獲物へ飛びかかる前の姿勢だった。
「リン」
ナナが名前を呼ぶ。
リンは動きを止める。
「待て」
大きな体が震え始めた。
「まだだよ」
よだれが滝のように地面へ落ちる。
「ナナちゃん、森が水浸しになる前に食べさせてあげたら?」
「ヒロシくん。待つことも大事だよ」
ナナは笑っていた。
けれどリンだけでなく、ヒロシまで背筋を伸ばした。
「よし」
その一言で、リンは皿へ飛びついた。
一口だった。
人間用のハンバーグが、皿ごと見えなくなった。
「皿まで食べた!」
サクが叫ぶ。
「大丈夫。皿は口の横から落ちた」
キキが拾い上げる。
皿には歯形ひとつついていなかった。
「器用だね」
「褒めるところかな?」
ププは騒がず、ナナの近くへ静かに伏せていた。
食べ物を欲しがってはいる。
けれど、リンのように突進することはない。
ナナがもう一皿を差し出すと、ププはゆっくりと舌で受け取った。
「ププ、リン。ずっと、この世界にいたの?」
サクが尋ねる。
二匹が鳴き声を交わす。
ピコは耳を動かしながら聞いていた。
「二匹とも、前の世界で死んだあと、白い場所へ行ったらしい」
「神様のところ?」
「おそらくな。そこで、この世界の均衡を見守る『統治者』の役目を与えられたと言っている」
「ププたちが?」
ププが小さく鼻を鳴らす。
「ププは『頼まれたというより、気づいたらここにいた』と言っている」
「神様、説明が足りないね」
「サクたちを送ったときも、良き旅を、としか言わなかった」
キキが言う。
「旅行会社だったら苦情が出る」
「旅行会社じゃないよ」
リンが続けて吠える。
「リンは『最初は食べ物がたくさんあると聞いた』と言っている」
「それで来たの?」
「『来たら森しかなかった。話が違う』だそうだ」
「神様、リンの扱い方だけは分かってるね」
二匹は、神々からこの世界の均衡を見守る統治者の役目を与えられ、その拠点として長い間この森で暮らしていた。
けれど最近になって瘴気が濃くなり、体へ黒い霧が入り込んだ。記憶も、自分が誰なのかも分からなくなっていたという。
それでもホシノ家が森へ転移した瞬間、二匹は理由も分からないまま、懐かしい匂いだけを感じ取ったらしい。
その匂いを追い、我を失ったままこの場所まで来たのだ。
「じゃあ、私たちのことも忘れてたの?」
グリが寂しそうに聞く。
ププは巨大な鼻先で、グリの頭をそっと押した。
「『忘れたんじゃない。思い出せなくなっていただけ』だそうだ」
「同じじゃないの?」
「本人にとっては違うらしい」
グリは、ププの鼻を両手で抱えた。
「じゃあ、もう大丈夫だね」
リンも顔を寄せようとした。
しかし、その途中でテーブルの上に残っているハンバーグを見つけ、進む方向を変えた。
「感動を返して」
サクはリンの額を両手で押した。
もちろん、少しも止まらなかった。
「父!」
「はいはい」
ヒロシがリンの首のしわをつかむ。
巨大な体が、その場でぴたりと止まった。
「この家族、異世界に来てもやることが変わらないな」
ピコが呆れたように言う。
「人数は増えたよ」
ココが両手を広げた。
「ちち、はは、サク、キキ、グリ、ベベ、ココ、ピコ、ププ、リン!」
「十人家族だね」
ナナが笑う。
「猫と犬も人に数えるのか?」
ピコが聞く。
「家族なら数えていいでしょ」
サクが答えると、ピコは顔をそらした。
「好きにすればいい」
言葉は冷たかったが、尻尾の先が少しだけ上を向いていた。
◇
再会を喜んでいるだけでは、夜を越せない。
日が傾き始め、森の中は急速に暗くなっていた。
遠くでは、正体の分からない魔獣の声が響いている。
「ここで寝るのは危ないね」
サクが言う。
「寝る?」
ベベが反応した。
いつの間にか、ナナの腕の中から降りている。
そして、地面へ広げた毛布の上で横になっていた。
「ベベは、今は寝なくていいの」
「もう寝てる」
「返事をしてるなら起きてるでしょ」
「半分だけ」
ベベは目を閉じたまま答えた。
「まず、水が必要だな」
ヒロシが森を見回す。
「できれば少し高い場所。地面が平らで、周りが見えて、魔獣が近づきにくいところがいい」
「父、急にちゃんとしてる」
「家族が野宿することになるからな。今日頑張れば、明日から楽ができる」
「理由はやっぱり父だった」
リンが急に立ち上がり、北の方角へ鼻を向けた。
次に東。
南。
西。
目の前へ半透明の板が現れる。
――――――――――――――――――
名 前:リン
種 族:聖獣
レベル:測定不能
固有能力:超探索
能力階級:神域級
詳 細:
指定された対象を世界規模で探知する。
食材、水源、鉱石、敵、魔物、迷子、
希少物品及び隠された財宝を含む。
――――――――――――――――――
「すごい」
サクが板を見上げる。
「リン、水があって、安全に休める場所を探せる?」
リンは力強く吠え、森の奥を指すように前足を上げた。
「『水源は三つ。安全な平地は二つ。食べられる物は多すぎて説明できない』だそうだ」
ピコが訳す。
「じゃあ、一番近い場所へ案内して」
リンは動かなかった。
「どうしたの?」
もう一度吠える。
「『その前に、ナナが左手に隠したハンバーグを出してほしい』」
全員の視線がナナの左手へ集まる。
ナナは背中へ隠していた小さな皿を見せた。
「ププの夜食にしようと思ったんだけど」
リンが悲しそうな顔になる。
「その顔をしても駄目だよ。これはププの分」
リンは地面へ倒れた。
まるで人生のすべてを失ったような姿だった。
「食べ物に関しては、探索じゃなくて監視だね」
「ナナの料理だけは、世界の反対側に隠しても見つけるらしい」
ピコが言う。
「便利だけど、母には迷惑な能力かも」
「食べ物以外にも使ってくれるなら助かるよ」
ナナは苦笑し、ハンバーグを半分に分けた。
ププとリンが一口ずつ食べる。
ようやくリンは森の奥へ歩き始めた。
ププがその後ろをゆっくりとついていく。
急ぐ様子はまったくない。
けれど家族との距離が開きすぎることもなかった。
「ププ、前と変わらないね」
サクは黒い大きな背中を見上げた。
「大きさ以外はな」
ピコが答える。
森の中には道がなかった。
太い木の根。
腰まで伸びた草。
ぬかるんだ地面。
リンは、最も歩きやすい場所を選んで進んでくれた。
それでも小さなココとベベには大変だった。
ヒロシがココを背負う。
ナナは眠ったベベを抱く。
キキは本を持っていないため、少しだけ手持ちぶさたに見えた。
「キキ、周り見てね」
「見てるよ」
「さっきから、何もないところで指を動かしてない?」
「本の続きを思い出してる」
「空中でページをめくらないで」
サクはグリと手をつなぎ、家族の中央を歩いた。
ププとリンに会えたことで、怖さが消えたわけではない。
木々の向こうから、何かに見られている気配がする。
王城の兵士たちが恐れるほど危険な森なのだ。
だが、家族は一人も欠けていない。
失ったはずの家族まで戻ってきた。
それだけで、サクの足は前より少し軽かった。
突然、先頭のリンが立ち止まった。
低くうなる。
左右の茂みが、大きく揺れた。
「何か来る!」
サクが妹たちの前へ出る。
飛び出してきたのは、背中を硬い殻で覆われた猪の群れだった。
一匹でも大人の人間ほど大きい。
十匹以上が、地面を削りながら突進してくる。
「父!」
ヒロシがココを背負ったまま構える。
しかし、その前にププが動いた。
それまでゆっくり歩いていた黒い巨体が、家族の横へ一歩出る。
たったそれだけだった。
透明な壁が、ホシノ家を包んだ。
猪の群れが壁へ衝突する。
森中へ響くほど大きな音がした。
けれど壁は揺れず、家族には風ひとつ届かなかった。
猪たちは、自分たちの勢いで弾き返され、地面を転がった。
ププの前に光る板が現れる。
――――――――――――――――――
名 前:ププ
種 族:守護魔獣
レベル:測定不能
固有能力:絶対防御
能力階級:神域級
詳 細:
家族へ向けられた、あらゆる攻撃を無効化する。
物理、魔法、毒、呪い、精神、時空及び
神性を伴う攻撃を含む。
――――――――――――――――――
「全部、防げるの?」
サクは目を見開いた。
ププは一度だけ鼻を鳴らすと、その場に座った。
もう役目は終わったと言わんばかりだった。
「『家族に当たらないなら、あとは好きにして』だそうだ」
「本当に必要なときしか動かないね」
「ププらしい」
猪たちが再び起き上がる。
今度は壁の周囲を回り、侵入口を探し始めた。
「この子たちも、瘴気にやられてるのかな」
グリが心配そうに見る。
「黒い霧はないね」
キキが言う。
「たぶん、普通に怒ってる」
「それなら、傷つけずに追い払いたい」
サクが考えていると、ナナの腕の中でベベが目を開けた。
「うるさい」
「ベベ、起きたの?」
「寝てたのに」
猪の一匹が透明な壁へ体当たりする。
音に驚いたベベが、眠そうな目で猪を見た。
「みんなも寝ればいいのに」
ベベの口元から、白い息のような光が広がった。
猪が一匹、前のめりに倒れる。
続いて二匹目。
三匹目。
十匹以上いた猪の群れは、数秒もたたないうちに、地面へ横たわって寝息を立て始めた。
ついでにリンも倒れた。
ピコもサクの肩から落ちそうになり、慌てて爪を立てる。
「ベベ! どこまで眠らせたの?」
「分かんない」
「分かんないの?」
「眠いから、あとで考える」
ベベはナナの腕の中で目を閉じた。
本人もすぐに寝息を立て始める。
目の前に板が浮かぶ。
――――――――――――――――――
名 前:ベベ・ホシノ
種 族:人族
レベル:測定不能
固有能力:スリプル
能力階級:神域級
詳 細:
指定した対象を必ず眠らせる。
状態異常耐性、睡眠耐性、神の加護及び
種族特性による無効化は適用されない。
――――――――――――――――――
「神様まで寝るんだ」
キキが興味深そうに読む。
「試さなくていいからね」
サクは先に注意した。
「まだ何も言ってない」
「キキの顔を見れば分かるよ」
「残念」
グリは眠っている猪へ近づき、体を調べた。
怪我はしていない。
怒っていたのは、縄張りへ入った家族を追い払うためだったようだ。
「このまま寝かせて、先へ行こう」
サクが言う。
「起きたときには、私たちもいなくなってるから」
「賛成」
ヒロシはすでに歩き出していた。
「父、判断が早い」
「戦わなくていいなら、それが一番だ」
「リンが寝てるけど」
ヒロシは立ち止まり、地面へ倒れている巨大なリンを見た。
「これは起きるまで待つか」
「運ぶとは言わないんだね」
「大きさを見ろ」
サクたちはリンの周りへ集まった。
ナナが鼻先へ残っていたハンバーグの欠片を近づける。
リンの目が開いた。
「睡眠魔法より食欲が強いの?」
「一度は完全に眠っていた」
キキが言う。
「起こす方法が強かっただけ」
リンは何事もなかったように立ち上がり、再び案内を始めた。
◇
日が沈む少し前。
ホシノ家は、森の中に開けた高台へたどり着いた。
三方を岩壁に囲まれ、残る一方は緩やかな斜面になっている。
中央には広い平地があり、岩の隙間から澄んだ水が流れ出していた。
水は小さな池を作り、そこから森の下へ向かって流れている。
「きれい」
グリが水へ手を入れる。
「冷たいよ」
「飲める?」
サクが聞くと、リンが一度鳴いた。
「『水質に問題なし。上流にも大型魔獣なし』」
リンは続けて池の脇の岩壁を前足で示した。青黒い鉱石が、帯のように地表へ露出している。
「『鉄を多く含む鉱石。道具や建材にも使える』」
ピコが訳す。
「高台だから、雨が降っても水に沈みにくい。入口は一つ。周りも見やすい」
ヒロシは平地を歩きながら確認していく。
「ここなら、少し手を入れれば使えるな」
「父、家を作れるの?」
「作ったことはない」
「急に不安になった」
「大丈夫。家は難しく考えるから難しいんだ。雨と風を防げて、床が平らなら、とりあえず寝られる」
「父の家の基準、低くない?」
「最初から豪邸を目指すと働く量が増える」
「そこが判断基準なんだね」
ナナが収納から道具を取り出した。
金づち。
のこぎり。
ロープ。
ブルーシート。
キャンプ用の小さなテント。
折り畳み式のテーブル。
「こんなに入ってたの?」
「家にあった物を思い浮かべると、だいたい見つかるみたい」
「冷蔵庫も?」
「あるよ」
「電気は?」
「ないね」
「じゃあ大きな箱だ」
ヒロシが冷静に言う。
「ヒロシくん、あとで使い道を考えようね」
「はい」
「その前に、寝床だけじゃなくて、火を使う場所とお手洗いも決めようね」
ナナは水の流れる方向と、平地の端を見比べた。
「水場の近くは汚せないから、お手洗いは下流側の岩陰。今夜は家にあった携帯用トイレを使うよ。料理をする場所は小屋から少し離して、雨が流れ込まないように溝も作ろうね」
「母、父よりずっと家を作る人みたい」
「ナナちゃんが現場監督なら、俺は作業員でいい」
「作業員は寝ないでね」
「厳しい現場だ」
ナナはスコップと携帯用のランタンも取り出した。少なくとも今夜は、元の世界の道具に頼れそうだった。
全員で、今夜眠る場所を作ることになった。
ヒロシがグータラポイントで倒木を運び、小屋の周囲へ浅い排水溝を掘る。ナナは道具や縄を出し、調理場所と寝る場所を分けていった。
リンは真っすぐな木を探し、グリは巣や小動物がいないか確かめた。
ププは近くで見ているだけだった。
「ププも手伝ってよ」
「『危険がない。ヒロシなら持てる』」
「父まで納得しないで」
ベベは毛布の上で眠り、ココは丸い石を集めている。
「それ、何に使うの?」
「おうちのたからもの」
「今は材料を集めようね」
サクは、自分にもできることを探した。
家族を守るためにもらった力を、怖いからと使わないままにはしたくない。
「父。私の力、少しだけ試したい」
サクは家族と反対側にある大岩を指した。
「必要なときに初めて使って、失敗するほうが怖い」
ヒロシは周囲を確認し、ププを家族の前へ座らせた。
「岩の表面に、小さな点を一つだけ考えろ。燃やすんじゃない。そこだけを崩す感じだ」
サクは深く息を吸い、胸の奥の力へ静かに触れた。
岩の表面の一点が白く揺らぎ、音もなく崩れた。指ほどの穴が、そのまま岩の向こう側まで抜けた。
「少し削るつもりが、貫通してるけどね」
キキが言った。
「最初なら十分だ。出力だけじゃなく、崩す深さまで絞れれば使える」
何度か試すうちに、サクは点状の崩壊を線に沿ってつなげ、必要な深さだけ岩を切り離せるようになった。
切り出した石板を床へ敷く。
「サク、上手」
「まだ怖いけどね」
「怖いって分かってる人のほうが、大丈夫だよ」
グリの言葉に、サクは少し肩の力を抜いた。
キキは木材の時間を進めて乾かし、ヒロシが柱を立てる。
一時間ほどで、広い屋根と三方の壁を持つ小屋ができた。
立派な家ではない。
それでも雨と風を防ぎ、全員分の毛布を敷ける。
ヒロシが床へ倒れ込む。
「終わった」
「まだ扉もないよ」
「ププがいる」
入口の横へ伏せたププが鼻を鳴らす。
「『動かなくても守れる』だそうだ」
「父と気が合いそう」
「素晴らしい能力だな」
ベベが毛布の上で起き上がった。
「寝るところ、できた?」
「全然手伝ってないよね」
「できるのを待ってた」
「父より効率を重視してる……」
「俺の教育の成果だ」
「そこは反省して」
みんなが笑った。
森の中で、初めて聞く家族の笑い声だった。
そのとき、ココが不満そうに頬を膨らませていることに、サクは気づいた。
「ココ、どうしたの?」
「ココも、まほうしたい」
「魔法?」
「サク、いわ、きった。キキ、き、かわかした。ベベ、みんな、ねた。ココもする」
嫌な予感がした。
「ちょっと待って」
ココは胸を張った。
「すきる、おーぷん!」
ココが能力を発動しようとしたことで、家族にだけ本当の使用情報が表示された。
――――――――――――――――――
名 前:ココ・ホシノ
種 族:人族
レベル:測定不能
固有能力:フォーチュン・ルーレット
能力階級:判定不能
詳 細:
発動結果は完全に無作為。
小規模な物質生成から、天候変化、
大地創造、神格生成、世界法則の改変及び
世界崩壊まで、あらゆる現象を含む。
――――――――――――――――――
全員が黙って板を見上げた。
「世界崩壊って書いてある」
サクが言う。
「読めない」
ココは笑った。
「るーれっと、する!」
「しちゃ駄目!」
サクが止めるより早く、ココが両手を上げた。
空に、巨大な円盤が現れる。
色とりどりの区画が高速で回っていた。
お菓子。
金貨。
雨。
快晴。
温泉。
新しい島。
新しい神。
重力反転。
天地創造。
世界崩壊。
一瞬だけ読めた文字だけでも、危険なものが多すぎる。
「ココ、止めて!」
「とまらないよ!」
「父!」
「俺にも止め方が分からん!」
「ププ!」
ププが顔を上げる。
しかし、まだ誰も攻撃されていないため、防御は発動しない。
円盤の回転が遅くなる。
針が、金貨を通り過ぎた。
温泉も通り過ぎる。
世界崩壊の直前で止まりかけ、家族全員の息が止まった。
針はぎりぎりで次の区画へ進んだ。
――新しい大地が誕生する。
「それも駄目そう!」
地面の奥から、低い音が響いた。
高台全体が持ち上がる。
「わあ!」
ココだけが楽しそうだった。
岩壁が空へ伸びる。
小屋が傾き、池の水が宙へ飛び上がる。
森の木々が、みるみる足元へ遠ざかっていく。
地面の下から、新しい岩盤が生まれ続けていた。
山ほどの大きさだった高台が、雲へ届く巨大な大地へ変わろうとしている。
遠くの空では、何もなかった場所から新しい島まで浮かび始めた。
「ココ、すごい!」
ベベが目を輝かせる。
「褒めないで!」
サクはココを抱き上げた。
空に浮かぶ円盤へ、次の文字が現れる。
――追加効果を抽選します。
「追加しなくていい!」
円盤が再び回り始める。
「キキ!」
「分かった」
キキは慌てていなかった。
いつもと同じ顔で、右手を上げる。
「少し前に戻すね」
世界から音が消えた。
飛び散っていた水が、空中で止まる。
崩れかけた小屋も、舞い上がった石も、すべて動かなくなった。
キキが時間停止の対象から外した家族だけは、止まった世界の中でも動くことができた。
サクも、ププもリンも、空中で止まった水や石を見回した。
キキの前へ、光る板が現れた。
――――――――――――――――――
名 前:キキ・ホシノ
種 族:人族
レベル:測定不能
固有能力:ディレイ・スペル
能力階級:神域級
詳 細:
時間停止、遅延、加速及び逆行を行う。
対象となる人物、物質または一定範囲を
任意の時点へ戻すことができる。
――――――――――――――――――
「どこまで戻せるの?」
サクが聞く。
「ココのルーレットが生んだ変化だけを、回す前まで戻す」
「小屋も?」
「壊れる前に戻る」
「私たちの記憶は?」
「残したほうがいいと思う」
「どうして?」
「同じことをしないため」
「それがいい」
キキが指を軽く動かした。
止まっていた水が、逆向きに流れ始める。
空へ伸びた岩壁が地面へ戻る。
生まれかけていた浮島が薄くなり、消えていく。
傾いた小屋が元へ戻り、外れた縄が結ばれた状態へ戻った。
空の円盤も回転を逆にし、ココの両手の中へ吸い込まれる。
最後に、高台が元の高さへ戻った。
森の音が戻る。
虫が鳴き、池の水が流れる。
何事もなかったように、小屋が立っていた。
ココは自分の両手を見つめる。
「もういっかい」
「駄目!」
家族全員の声が重なった。
リンまで大きく吠えた。
「『今度は食べ物が出るかもしれない』と言っている」
ピコが訳す。
「リンは賛成しないで!」
ナナがココの前へしゃがむ。
「ココ。ルーレットは、みんながいいよって言ったときだけにしようね」
「どうして?」
「今、お家が壊れそうになったでしょ?」
「キキ、なおしたよ」
「キキがいないときもあるからだよ」
「キキ、ずっといる」
「お風呂やトイレのときは、いないこともあるでしょ」
ココは真剣に考えた。
「じゃあ、キキがトイレじゃないとき」
「そういう意味じゃないよ」
サクは頭を抱えた。
「とにかく、ルーレットは家族会議で決めてから。勝手に回したら駄目」
「はーい」
返事はよかった。
どこまで理解したのかは分からない。
「キキ。今の、疲れてない?」
サクが尋ねる。
「大丈夫」
「時間を戻すのって、もっと大変だと思ってた」
「私もそう思ってた」
「じゃあ、今までに時間を止めたことは?」
キキは少しだけ視線をそらした。
「ないよ」
「本当に?」
「王城から森へ来る途中、本を少し読んだだけ」
「本、持ってなかったでしょ」
「頭の中で思い出したページを、時間を止めて読み直した」
「何分くらい?」
「外の時間ではゼロ。私の時間では二時間」
「もう使ってるじゃん!」
「移動が長かったから」
「馬車で寝てたよね?」
「寝る前に読んだ」
キキは悪びれずに答えた。
「異世界の最強能力を、読書時間に使わないで」
「有効活用だよ」
「そういうところ、父に似てきたね」
「それは困る」
「キキ、父は傷ついたぞ」
ヒロシが床に寝転がったまま言う。
「傷ついたなら、ポイントを使えば治るんじゃない?」
「心の傷には効かないらしい」
「便利そうで不便だね」
家族の会話を聞きながら、サクは空を見上げた。
ほんの少し前まで、世界が作り替えられかけていた。
それをキキが、何事もなかったように戻した。
妹たちの力は、どれも信じられないほど大きい。
自分がしっかりしなければならない。
長女だからというだけではない。
誰か一人が間違えれば、家族だけでなく、この世界まで大変なことになる。
けれど、一人で全部を背負う必要もない。
グリが救い、ププが守り、ベベが眠らせ、キキが戻した。
父と母もいる。
ピコとリンもいる。
家族全員で気をつければいい。
「サク」
ナナが声をかける。
「難しい顔をしてるよ」
「ちょっと考えてた」
「お腹が空くと、悪いことばかり考えちゃうからね。先にご飯にしよう」
「母は、何でもご飯で解決しようとするね」
「だいたいのことは、温かい物を食べてから考えたほうがいいよ」
「それは正しい」
ヒロシがすぐに起き上がった。
「父、さっきまで動けないみたいな顔をしてたよね」
「食事は別だ」
◇
リンは、人の頭ほどある赤い実や青く光るキノコ、透明な魚、塩味のある白い結晶を見つけてきた。
「このキノコ、本当に食べられるの?」
「『三日前に食べた』」
「リンが平気でも、人間は分からないよ」
「『小さな猿も食べていた』」
「その猿は?」
「『翌日は見ていない』」
「やっぱり危ないんじゃない?」
ナナが食材へ手をかざす。
ナナの前に《無限調理》という文字が浮かび、使い方が自然に頭へ流れ込んだ。指定した素材を、望んだ料理へ変えられるらしい。
「命を粗末にはしたくないから、お魚は食べる分だけね」
青いキノコと三匹の魚、赤い実が柔らかな光に包まれる。
次の瞬間、大きな鍋のシチューと焼き魚、赤い実のソースが現れた。
サクが恐る恐る青い具を口へ入れる。
「おいしい!」
「青いのに?」
ベベも食べ、すぐにうなずいた。
リンが鍋へ顔を近づけ、ヒロシが無言で首のしわをつかむ。
「父、止めるのに慣れたね」
「動き出す前なら、ポイントを使わなくても止められる」
ナナの料理の香りは、小屋の外まで流れていく。携帯用ランタンの柔らかな明かりが石の床を照らしていた。
森の冷たい空気の中に、温かな湯気が広がった。
サクは石の床へ座り、家族の顔を見回した。
父。
母。
キキ。
グリ。
ベベ。
ココ。
ピコ。
ププ。
リン。
王城から追い出され、危険な森へ捨てられた。
明日どうなるかも分からない。
それでも今は、全員が同じ食事を囲んでいる。
「日曜日のご飯、やっと食べられたね」
サクが言う。
ナナが少し驚き、それから笑った。
「そうだね」
「途中で別のご飯になったけど」
「ハンバーグも残ってるよ」
「リンに見つからない場所へしまっておいて」
「無理だと思う」
ピコが言う。
「リンは、収納の中にある料理まで分かるらしい」
「それ、探索の範囲を超えてない?」
「食欲に世界の法則は通用しないニャ」
ピコが珍しく語尾をつけた。
その直後。
ププが顔を上げた。
入口の方を見つめ、低く鼻を鳴らす。
リンも食事から顔を離し、森の斜面へ視線を向けた。
「誰か来る」
ピコが耳を立てる。
「何人?」
「三人。人間ではない」
サクは立ち上がった。
楽しい食事の空気が、少しだけ張り詰める。
ヒロシは小屋の入口へ移動した。
ナナはココとベベを自分の後ろへ呼ぶ。
キキは鍋を持ち上げ、収納へ入れようとするナナを手伝った。
「キキ、何で鍋を先に守るの?」
「リンが戦いの途中で食べないように」
「正しい判断だ」
ピコがうなずく。
森の暗闇から、三つの影が現れた。
一人は、頭に二本の角を持つ女性だった。
濃い紫色の髪を後ろで束ね、黒い革の鎧を着ている。
腰には細い剣。
背中には短い槍を背負っていた。
その後ろには、大柄な灰色の男がいる。
人間より一回り大きく、下あごから牙が伸びている。
もう一人は、背中に小さな黒い翼を持つ少年だった。
年齢はサクより少し上に見える。
左腕を布で押さえ、苦しそうに息をしていた。
三人は小屋の前で立ち止まり、ププとリンを見て顔色を変えた。
「守護獣……」
「ププたちのことを知ってるみたい」
女性が剣へ手をかけ、大柄な男も斧を構える。
ププが立ち上がった。
「待って。こっちから攻撃しないで」
サクはププの前へ出た。
ピコが耳を立てると、聞き慣れない言葉の意味が、初めから知っていた言葉のようにサクの頭へ届いた。こちらの言葉も、ピコを通じて相手へ伝わるらしい。
《言語理解・完全翻訳》は、ピコ自身が理解するだけではなく、近くにいる者同士の言葉までつなげられる能力だった。
「人族が、なぜ魔の森の奥にいる。あの魔力は何だ」
「今日、この森へ捨てられました。山が生まれて消えたのは、ココの魔法です」
「ココ、つくった!」
「正直に言わなくてもいいところだよ」
女性は理解できないという顔をした。
そのとき、翼の少年がふらつく。
左腕の布から黒い霧が漏れていた。
少年は膝をつき、苦しそうに喉を押さえた。黒い霧が腕から肩へ這い上がっていく。
「グリ」
「うん。あの子、苦しんでる」
グリが進むと、大柄な男が斧を向ける。
リンが低くうなり、ププも家族をかばうように半歩だけ前へ出た。けれど二匹とも、三人へ襲いかかろうとはしない。
角の女性は、守護獣がホシノ家のそばで静かにしていることへ視線を向けた。
サクは妹の前へ立った。
「信じなくてもいいです。でも、グリなら黒い霧を消せます」
「このままじゃ、その子の黒い霧がもっと広がります」
女性は少年の顔と守護獣たちを見比べ、迷った末に剣から手を離した。
グリが少年の腕へ手をかざす。
緑の光が黒い霧を吸い取り、傷まで閉じていった。
「もう大丈夫」
少年は痛みの消えた腕を動かし、目を見開いた。
三人の敵意が、ようやく薄れる。
「私はサク。この子はグリ。あっちにいるのが家族です」
角の女性も名乗った。
「私は魔王国北境偵察隊のリゼラ。こちらはガド。傷を治してもらった者はニール」
ニールは森の異変を調べている途中、瘴気に侵された魔獣の爪を受けたらしい。傷を塞ぐ治療魔法は効いても、体へ入り込んだ黒い霧だけは消せなかったという。
「魔王国……」
サクはその言葉を繰り返した。
魔王が治める国。
ブルムンド王国が、倒すべき敵だと言っていた国。
「あなたたちは、人間を襲いに来たんですか?」
「逆だ。人族の軍が国境を越えていないか調べている」
リゼラたちの調査では、ブルムンド王国の兵が半年で三度も森を越え、魔族の集落から食料を奪い、国境守備隊と衝突していたという。
「王様は、魔王軍が人間を侵略してるって言ってた」
「少なくとも、私たちから見ればそうだ。ゴルド王は国境の村を守る兵を、侵略軍と呼んでいる」
ガドは、人族すべてが敵ではないとも付け加えた。
以前、魔族の負傷兵を助けた人族の医師もいたらしい。
ただしリゼラは、自分たちもブルムンド王国の内情まで知っているわけではないと付け加えた。見てきたことを話しただけで、信じるかどうかはサクたちが決めればいいという。
「魔王は、人間を滅ぼそうとしてるんですか?」
「陛下が望んでいるのは、民が生きて家族のもとへ帰ることだ」
「いい王様なんだね」
グリが言う。
「まだ分からないよ。会ったことがないから、自分で見て決めよう」
王城では、王の言葉だけで魔王と戦えと命じられた。
同じことはしたくない。
敵か味方か。
誰かに決めてもらうのではなく、自分で話を聞いて、自分で判断したかった。
そのとき、ナナが小屋から鍋を持ってきた。
「お話が落ち着いたなら、ご飯を食べてもらったら?」
「何を企んでいる」
「夕ご飯です」
香りが広がり、ガドの腹が大きく鳴った。
リゼラは警戒したが、傷を治してもらったニールが先に口をつける。
「何だ、これは」
「シチューだよ」
ニールは二口目から止まらなくなった。
ガドも一息で器を空にし、無言で差し出す。
「おかわり?」
深くうなずくガドを見て、リゼラもようやく食べた。
一口で目を閉じる。
「どう?」
「……国へ持ち帰りたい」
「鍋ごとは駄目」
リンが吠え、ナナに注意されて顔をそらした。
食事を囲むうちに、リゼラたちの警戒は少しずつ解けていった。
三人は、魔の森のことも教えてくれた。
ここは魔王国と人族の国々の間にある自然の境界だった。ププとリンは、神々から世界の均衡を見守る統治者の役目を託され、この森を拠点としていた。地上の者たちからは、どちらの国にも従わない守護獣として知られていた。
最近は瘴気が急に濃くなり、魔王国の調査隊も奥へ進めなかったという。
「二体を救ったことは、魔王国にとって大きな恩になる」
「恩のためじゃないよ。苦しそうだったから」
グリの言葉に、リゼラの表情が少し和らいだ。
サクも、人族と魔族を単純に悪い側と良い側へ分けてはいけないと思った。
どちらにも家族がいて、戦いたくない人もいる。
まだ分からないことのほうが多い。
「この場所に住んでも大丈夫ですか?」
サクが尋ねる。
「魔の森は、どの国の領土でもない。だが、長く住むなら魔王国にも伝えておく必要がある」
「追い出される?」
「私には決められない」
リゼラは腰の小袋から、黒い水晶を取り出した。
「守護獣が戻ったことも、異常な魔力の持ち主がいることも、報告しなければならない」
「異常な魔力って、ココのこと?」
「全員だ」
リゼラは真剣だった。
「この小屋だけでも理解できない。一時間ほどで作ったと言ったな」
「だいたい父と母が作りました」
「サクも岩を切ったよ」
グリが教える。
「キキは時間を進めた」
ベベも言う。
「ココは、だいちつくった!」
「ココはそれを自慢しないで」
リゼラは額へ手を当てた。
「報告が難しい」
「分かる」
サクは同情した。
リゼラが水晶へ魔力を流す。
黒かった水晶の中に、赤い光が灯った。
『リゼラか』
低い声が、水晶から響いた。
三人の魔族が一斉に姿勢を正す。
「誰?」
「魔王陛下だ」
ピコが訳した。
サクも背筋を伸ばした。
姿は見えない。
それでも声だけで、相手が大きな力を持つ存在だと分かる。
『報告せよ』
リゼラは、守護獣が浄化されたこと、七人の人族と一匹の猫がいること、子どもたちが理解できない力を持つことを報告した。
一時間ほどで小屋を作り、守護獣と食事をしていると説明する頃には、リゼラ自身も自信がなさそうだった。
『待て』
水晶の向こうの声が止める。
『山が生まれて消えた件は、どうなった』
「四歳の子どもが、遊びで大地を作りました。十歳の姉が時間を戻し、なかったことにしました」
長い沈黙があった。
『もう一度言え』
「私も聞き間違いであってほしいと思っております」
魔王は再び黙った。
ココが水晶へ顔を近づける。
「まおう、るーれっとする?」
「ココ!」
サクが抱き上げて離す。
水晶の向こうから、何かを落としたような音が聞こえた。
『今、何と言った』
「気にしないでください」
リゼラが早口で答える。
『気にする。非常に気にする』
魔王の声から、先ほどまでの威厳が少し消えていた。
『守護獣を救った者たちへ礼も必要だ。こちらから向かう』
「え?」
サクは思わず声を上げた。
「魔王が来るの?」
ピコが訳す前に、水晶から答えが返ってきた。
『その猫を通じて言葉は分かる。安心せよ。戦うためではない』
「安心しろと言われても……」
サクは王城での出来事を思い出す。
王と名乗る相手に、良い印象は残っていない。
『こちらも、世界を作り替えられるかもしれない四歳児へ会うのは怖い』
「正直な魔王だね」
キキが言う。
『聞こえているぞ』
「聞こえるように言った」
「キキ!」
サクが止める。
水晶の向こうで、魔王が小さく笑った。
『夜の森を子ども連れで移動させるわけにはいかぬ。明朝、私がそちらへ行く。それまで、偵察隊を残す』
「勝手に決めないでください」
サクは水晶へ向かって言った。
王城では、誰も自分たちの意思を聞かなかった。
相手が魔王でも、同じようにされるのは嫌だった。
『何か問題があるか』
「会うかどうかは、家族で決めます」
リゼラたちが驚いた顔でサクを見る。
けれどサクは視線をそらさなかった。
「私たちは、誰かの命令で魔王と戦うつもりもありません。でも、魔王だから無条件に信じるつもりもありません」
水晶の向こうは静かだった。
「話を聞いて、自分たちで決めます。それでいいなら、会います」
サクは家族を振り返った。
「父、母。みんなも、いい?」
キキとグリがうなずき、ベベは眠そうに片手を上げた。ココも意味をどこまで分かっているのか怪しいまま、「いいよ!」と答える。
「話を聞くくらいなら構わない」
ピコも尻尾を一度だけ揺らした。ププとリンは、家族のそばから動かなかった。
ヒロシは床へ座り、腕を組んでいた。
「サクがそう決めたなら、父はいいよ。危なそうなら帰ってもらう」
「ここ、魔王国の近くだけどね」
「それでも帰ってもらう」
ナナもうなずいた。
「まずはお話を聞こう。来てくれるなら、朝ご飯も作れるしね」
「ナナちゃん。魔王にまでご飯を出すの?」
「お腹が空いてると、話し合いも上手くいかないでしょ?」
「魔王にも通じるのかな」
「母のご飯なら通じる」
グリが自信を持って言う。
『話はまとまったか』
魔王の声が聞こえる。
「はい。明日の朝、会います」
『承知した。こちらも武器を向けるつもりはない。名はサクと言ったな』
「そうです」
『では、サク。明日、話をしよう』
水晶の光が消えた。
リゼラは、しばらく水晶を見つめていた。
「魔王陛下に、あのような条件を出した者を初めて見た」
「駄目だった?」
「いや。陛下は少し楽しそうだった」
サクは小さく息を吐いた。
魔王がどんな人物なのかは、まだ分からない。
王城で聞かされた話と、リゼラたちの話は大きく違う。
だから、自分の目で確かめる。
誰かに決められた敵を倒すのではなく、家族が安全に暮らすために、必要な相手と話をする。
それが今、サクにできることだった。
「じゃあ、明日に備えて寝よう」
ヒロシが立ち上がる。
「父、偵察隊の人たちは?」
「小屋に入ってもらえばいい。広さはある」
「見張りは?」
「ププがいる」
ププは入口で静かに伏せている。
頼まれなくても、家族と小屋の外の間に体を置いていた。
「父は?」
「今日は働きすぎた」
「ほとんどグータラポイントで動いてたよね」
「ポイントを使う決断にも体力がいる」
「初めて聞いた」
ナナが毛布を並べる。
ベベは、すでに一番柔らかい場所で眠っていた。
ココはその隣で、指を空中へ回している。
「ココ」
サクが呼ぶ。
「るーれっと、してないよ」
「今、回す練習してたでしょ」
「れんしゅう」
「練習もしなくていい」
キキは収納から出してもらった本を開いている。
「キキ、時間を止めて夜更かししないでね」
「一時間だけ」
「それ、外から見たら一瞬でも、キキは一時間寝不足になるからね」
「分かった。三十分にする」
「交渉しないで」
リンは、ナナがしまった鍋の位置を見つめている。
ヒロシがその前へ寝転がり、進路をふさいだ。
「リン。夜食はなし」
リンも地面へ伏せた。
しかし目は閉じない。
ヒロシが眠るのを待つつもりらしい。
ピコは二匹を見て、深いため息をついた。
「魔王が来る前に、食料をめぐる戦争が起きそうだな」
「戦争にはさせないよ」
サクは笑いながら、毛布へ座った。
小屋の外には、知らない森が広がっている。
明日には、魔王が来る。
元の世界へ帰る方法も、これからどう暮らすのかも、まだ分からない。
それでも、今夜眠る場所はできた。
温かい食事もある。
家族は全員そばにいる。
ププとリンまで戻ってきた。
魔の森へ捨てられた最初の日としては、悪くない。
「おやすみ、みんな」
サクが言う。
「おやすみ」
家族の声が重なる。
森の闇の向こうでは、正体の分からない獣が遠くで鳴いていた。
けれど、家族の寝息に囲まれた今は、その声も昼間ほど怖くはなかった。
サクは入口をふさぐププの大きな背中を見ながら、ゆっくりと目を閉じた。
魔の森での最初の夜は、思っていたより少しだけ温かかった。




