2章 ホシノ家、魔王国ではじめてのおつかい! 〜グータラ時短術は家族に通用するのか〜
魔王城から少し離れた城下町に、甘く香ばしい匂いが漂っていた。
焼きたてのパン。
温かいミルク。
色鮮やかな果物をたっぷりのせたケーキ。
そして、香りのよいお茶。
これまでの魔王国では、どれもほとんど見かけなかったものだ。
その香りの中心にあるのが、魔王国で初めて作られたカフェだった。
ナナの暮らしていた世界のお菓子や飲み物を楽しめる店として、
ナナと魔王妃セレナが共同オーナーを務め、
二人でプロデュースしたのである。
ナナがレシピを考え、セレナが魔王国で手に入る材料を探す。
二人で何度も試食をし、カップや皿を選び、店員の制服まで考えた。
開店準備を通して、ナナとセレナは以前よりもずっと仲良くなっていた。
今では、店の奥にある小さな丸テーブルで、二人きりのお茶を楽しむのが日課になっている。
その日も、ナナとセレナは新作のケーキを前に向かい合っていた。
ふわふわの生地の上には、魔王国で採れた月夜ベリーがたっぷりとのっている。
ナナがフォークで一口すくい、うれしそうに頬を緩めた。
「うん。昨日より甘さを少し控えた方が、ベリーの味が分かるね」
「わたくしも、こちらの方が好みです」
セレナも上品にケーキを口へ運ぶ。
しばらく二人は、新作ケーキの味を確かめていた。
しかし、ふいにセレナが小さなため息をついた。
「どうしたの?」
ナナが尋ねると、セレナは少し困ったように笑った。
「ヴァルドのことです」
「ああ……」
ナナは、それだけで何となく察した。
「最近、ヴァルドは政務が終わると、すぐにヒロシ様を誘って出かけてしまうのです」
「やっぱり?」
ナナも同じようにため息をつく。
少し前まで、魔王城では毎日のように長い会議が開かれていた。
同じ内容を何度も報告し、何人もの許可をもらい、一枚で済む書類を何枚にも分けて作る。
そんな仕事のやり方を見たヒロシは、心の底から嫌そうな顔をした。
『こんな面倒なこと、毎日やってたら昼寝する時間がなくなるだろ』
それからヒロシは、魔王城の仕事を次々に変えていった。
同じ内容の報告書は一枚にまとめる。
結論の出ない会議は十分間で終わらせる。
ヴァルドの許可が必要ない仕事は、担当者に任せる。
何度も聞かれる質問は、答えを一冊の本にまとめる。
書類は魔法で自動的に分けられるようにする。
すべては、ヒロシが少しでも長くグータラするための工夫だった。
ところが、その工夫は思った以上の効果を発揮した。
魔王城の者たちは早く仕事を終えられるようになり、ヴァルドにも自由な時間ができたのだ。
問題は、その自由な時間を何に使うかだった。
「ヒロシくんもね、家では『疲れたー』って床に寝転がってるの」
ナナはケーキを食べながら言った。
「なのにヴァルド様から釣りに誘われると、急に飛び起きるのよ」
セレナが深くうなずく。
「ヴァルドも同じです。
政務が終わるまでは、いかにも疲れているような顔をしているのですが……」
セレナはヴァルドの低い声をまねた。
「今日は国のために働きすぎた。もはや一歩も動けぬ」
その直後、今度はヒロシの軽い声をまねる。
「ヴァルドー! 新しい釣り場を見つけたぞー!」
そして、もう一度ヴァルドの声になった。
「何っ!? すぐ行くぞ、ヒロシ!」
ナナは思わず吹き出した。
セレナも口元を押さえて笑っている。
「似てる。すごく似てるよ、セレナ」
「毎日のように聞いておりますから」
二人はしばらく笑った。
夫たちの困ったところを話しているのに、不思議と嫌な気分にはならない。
ナナもセレナも、ヒロシとヴァルドが楽しそうにしていること自体はうれしかった。
ただ、少しだけ思うのだ。
遊ぶ時間ができたのなら、家族のためにも使ってほしい、と。
セレナがカップを置いた。
「たまには、家族のために働いていただきましょうか」
ナナの目が輝く。
「今日の夕飯のお買い物をお願いしてみる?」
「よい考えです」
二人は顔を見合わせ、にっこりと笑った。
その笑顔はとても優しかったが、
もしヒロシとヴァルドが見ていたら、
ほんの少しだけ嫌な予感を覚えたかもしれない。
◇
その頃、魔王城の会議室では、ヒロシが机に突っ伏していた。
「疲れたー」
今日の仕事は、魔王城で使われている書類の種類を半分に減らすことだった。
ヒロシは実際、朝から珍しく頭を使っていた。
似た内容の書類をまとめ、必要のない印をなくし、同じことを書かなくて済むようにした。
肉体はまったく疲れていない。
だが、頭を使った。
ヒロシにとって、頭を使うことは山登りよりも重労働だった。
「もう無理だ。今日は何もしない。夕飯までここで寝る」
向かい側の席では、ヴァルドも大きな椅子に深く座っていた。
「見事であったぞ、ヒロシ。これで我が確認する書類は三分の一になる」
「じゃあ、残った時間は昼寝だな」
「いや」
ヴァルドはゆっくりと立ち上がった。
「北の湖へ釣りに行くぞ」
ヒロシの顔が上がった。
「北の湖?」
「昨日、城の兵士が巨大な銀角魚を見たらしい」
「どれくらい巨大?」
「人を丸のみできるほどだ」
ヒロシは勢いよく立ち上がった。
「行こう!」
「うむ!」
「うぇーい!」
「うぇーい!」
二人が肩を組んで会議室を出ようとした、その時だった。
扉が開き、ナナとセレナが現れた。
ヒロシとヴァルドの動きが止まる。
ナナは、にっこり笑っていた。
「ヒロシくん、疲れて動けなかったんじゃなかった?」
「いや、これはその……」
ヒロシは肩を回した。
「急に疲れが取れた」
セレナがヴァルドを見る。
「北の湖へ行かれるのですか?」
「う、うむ。魔王国の生態調査だ」
「釣りざおを持って?」
「魚の大きさを正確に確認するには、釣り上げる必要がある」
「お菓子も持って?」
「長時間の調査には食料が必要だ」
セレナは静かに微笑んでいた。
ヴァルドの額から、一筋の汗が流れる。
ナナは一枚の紙をヒロシに渡した。
「ちょうどよかった。出かける元気があるなら、夕飯のお買い物をお願いしてもいい?」
「買い物?」
「子どもたちも連れていってあげて。みんな、魔王国の市場をゆっくり見たことがないから」
ヒロシは買い物メモを見る。
月夜ベリー。
蜜ニンジン。
星香草。
焼きたてのパン。
ベベとココのお菓子を一つずつ。
夕食後に飲むお茶。
そして、一番下には小さな文字でこう書かれていた。
『妻が一番喜ぶお茶を、それぞれ選ぶこと』
ヴァルドが紙をのぞき込み、顔をしかめる。
「なぜ最後だけ品名が書かれておらぬのだ?」
セレナは笑顔のまま答えた。
「わたくしが喜ぶものなら、ヴァルドはご存じでしょう?」
「無論だ」
ヴァルドはすぐに答えた。
しかし、目が少し泳いでいる。
ナナもヒロシを見る。
「ヒロシくんも分かるよね?」
「もちろん」
ヒロシもすぐに答えた。
こちらも目が泳いでいた。
「では、お願いいたします」
セレナがそう言うと、ナナと一緒に会議室を出ていった。
残されたヒロシとヴァルドは、しばらく黙っていた。
やがてヴァルドが小声で尋ねた。
「ヒロシ。ナナが最も喜ぶ茶を知っているか?」
「そりゃ知ってるよ」
「何という茶だ?」
「……ヴァルドはセレナさんが喜ぶお茶、知ってるのか?」
「当然だ」
「何茶?」
「……まずは、ほかの品から買うぞ」
「そうだな」
二人の意見はすぐに一致した。
◇
魔王城の中庭では、ホシノ家の子どもたちがププとリンと遊んでいた。
サクが投げた木の棒を、リンがものすごい速さで追いかける。
ププはその場から動かず、なぜか受け止める構えだけをしていた。
「よし、みんな!」
ヒロシが子どもたちの前に立つ。
「今日は市場へ買い物に行くぞ!」
「お買い物?」
ココが目を輝かせた。
「おかし、かう?」
「買うぞ」
「やったー!」
ベベとココが手をつないで跳びはねる。
一方、サクはヒロシの持つ釣りざおを見た。
「父、本当は釣りに行くつもりだったでしょ」
「これは買った荷物をぶら下げるための棒だ」
「釣りざおにしか見えないけど」
「細かいことは気にするな」
市場へ向かう道で、ヒロシは買い物メモを見ながら考えていた。
品物は六種類。
子どもは五人。
自分とヴァルドで全部の店を回れば、時間がかかる。
だが、ここには働き手がたくさんいる。
ヒロシの頭に、ひらめきが走った。
「ヴァルド」
「何だ?」
「グータラ時短術を使うぞ」
ヴァルドの表情が引き締まる。
「どの術だ?」
ヒロシは人差し指を立てた。
「グータラ時短術、その三」
子どもたちが、何だろうと振り返る。
ヒロシは堂々と言った。
「誰かにやらせればいい!」
一瞬、静かになった。
サクが冷たい目でヒロシを見る。
「それ、ただ子どもに押しつけるだけじゃない?」
「違う。仕事の分担だ」
「父は何をするの?」
「みんなが正しく買い物できるよう、見守る」
「つまり、何もしないんだね」
「見守るのも大切な仕事だぞ」
ヴァルドが感心したようにうなずいた。
「さすがヒロシ。魔王軍にも取り入れよう」
「取り入れちゃダメだと思う」
キキがぼそりと言った。
それでも子どもたちは、市場へ行くのを楽しみにしていた。
ヒロシとヴァルドが一緒に付き添うことを条件に、それぞれ担当を決めることになった。
サクは蜜ニンジン。
キキは星香草。
グリは月夜ベリー。
ベベはパン。
ココはお菓子。
そして最後のお茶だけは、ヒロシとヴァルドが自分たちで選ぶ。
こうして、にぎやかすぎるおつかいが始まった。
◇
最初は、サクの蜜ニンジンだった。
市場の野菜屋には、赤、青、紫、金色と、さまざまな野菜が並んでいる。
蜜ニンジンは、黄色くて丸い形をしていた。
サクが必要な数を伝えると、店主の魔族が威勢よく笑った。
「お嬢ちゃん、今日は十本買えば二本おまけだよ!」
「でも、必要なのは五本です」
「十五本なら、さらに五本おまけ!」
「そんなに食べられません」
「二十本なら、この巨大キャベツもつける!」
ヒロシが横から口を出した。
「サク。安い時にまとめて買うのが節約だぞ」
「でも父、この前、母に『安いからって買いすぎないで』って怒られてたよね」
「それとこれは別だ」
「何が別なの?」
「……蜜ニンジン五本ください」
ヒロシは素早く店主へお金を渡した。
サクは予定どおり五本だけ買い、買い物袋へ入れた。
ヴァルドが感心したように言う。
「サクはヒロシより買い物が上手いな」
「ヴァルド。それは今言わなくていい」
◇
次はキキの星香草だった。
香草屋には、小さな葉や花、粉末になった調味料が所狭しと並んでいる。
しかし、どれも見た目がよく似ていた。
「星香草は、夜になると葉っぱが少し光るんだって」
キキは店主から説明を受けた。
「でも、今は昼だから光らないね」
「香りを確かめれば分かるよ」
店主が数種類の葉を差し出す。
キキは一枚ずつ匂いを確かめようとしたが、どの葉も香りが強い。
「一度に嗅ぐと、分からなくなりそう」
少し考えたキキは、《ディレイ・スペル》を使った。
葉の香りを感じる時間を少しずつ遅らせ、順番に確認するつもりだったのだ。
「これなら、一つずつ分かるはず」
ところが、その時だった。
ココが店先に並んでいた赤い粉の入った袋へ手を伸ばす。
「これ、きらきら!」
「ココ、触っちゃだめ!」
キキが慌てて止めた拍子に、魔法をかけた葉が全部、床へ落ちた。
さらにヒロシが拾おうとして、別の香草まで混ぜてしまう。
「どれがどれだ?」
「父! 動かないで!」
数秒後。
遅れていた香りが一気に戻ってきた。
甘い香り。
酸っぱい香り。
鼻がしびれる香り。
涙が出るほど辛い香り。
全部が同時に、ヒロシとヴァルドの鼻へ飛び込んだ。
「ぐおおおっ!」
ヴァルドが顔を押さえる。
「我の目が! 魔王の目が燃えておる!」
「くしゃみが……へっ、へっ、へくしょい!」
ヒロシのくしゃみで、香草が宙を舞った。
ヴァルドの頭には緑色の葉が降り積もる。
それを見たココが指をさした。
「ヴァルド、やさいのあたま!」
「我は魔王だ! 野菜ではない!」
結局、店主に正しい星香草を選んでもらい、キキは無事に買い物を終えた。
「時短術を使ったのに、ずいぶん時間がかかったな」
ヴァルドが鼻をすすりながら言う。
ヒロシは葉っぱだらけの髪を払いながら答えた。
「まだ始まったばかりだ。ここから巻き返す」
◇
グリの担当は、月夜ベリーだった。
果物屋へ行くと、店の前で年老いた魔族が腰を押さえてうずくまっていた。
重い木箱を運ぼうとして、痛めてしまったらしい。
「だいじょうぶ?」
グリが心配そうに駆け寄る。
「これくらい平気さ。少し休めば……いたたたた」
グリは迷わず《エクストラヒール》を使った。
柔らかな光が、店主の腰を包む。
「おお……痛くない!」
店主はゆっくり立ち上がった。
「腰だけじゃない! 肩も軽い! 膝も痛くない! 歯まで丈夫になった気がする!」
「よかった」
グリがにっこり笑う。
店主は喜びのあまり、その場で何度も飛び跳ねた。
「こんなに元気になったのは百年ぶりだ! お礼に月夜ベリーを持っていきな!」
「必要な分だけでいいです」
「遠慮するな!」
店主は大きな木箱をヴァルドの腕へ乗せた。
さらに二箱目。
三箱目。
ヴァルドの顔が、積み上げられた箱の向こうに隠れる。
「待て! 我は荷車ではないぞ!」
「魔王様なら三箱くらい持てるだろう!」
「我だと気づいておったのか!?」
「そりゃ分かるよ。そんな派手な服でお忍びは無理だ」
ヒロシは大笑いした。
「よかったな、ヴァルド。国民に親しまれてるぞ」
「笑っておらず、一箱持て!」
「俺は全体を見守る係だから」
「その係を今すぐ交代しろ!」
結局、月夜ベリーは一箱だけ受け取り、残りは店に戻した。
グリは店主から小さなベリーを一粒もらい、うれしそうに食べた。
◇
パン屋へ着く頃には、予定していた時間を大きく過ぎていた。
焼きたてのパンの香りに、ベベのお腹が小さく鳴る。
「ベベ、パンおなかにいれたい」
「買ったパンは夕飯用だぞ」
ヒロシが言うと、ベベは真剣な顔でうなずいた。
「わかった。ひとつだけ、おなかにいれる」
「分かってないな」
店内には、焼き上がったばかりの丸いパンが並んでいた。
ベベは両手で大事そうにパンの袋を受け取る。
その時、店の外を大きな荷車が通った。
地面が揺れ、ベベの体がぐらりと傾く。
「わっ!」
パンを落としそうになったベベは、とっさに能力を使った。
「《スリプル》!」
淡い光が、店いっぱいに広がる。
次の瞬間。
パン屋の店主も、客も、店先にいた鳥も、全員がすやすやと眠り始めた。
ベベは何とか転ばずに済んだ。
そして両手のパンを見て、小声で言った。
「よかった。パン、ねてない」
ヒロシが店内を見回す。
「寝てるのはパンじゃなくて、みんなだぞ」
ヴァルドは立ったまま眠っていた。
頭の上には、月夜ベリーの箱が乗ったままだ。
「ヴァルド、起きろ」
ヒロシが頬を軽くたたく。
「む……我は寝ておらぬ……魔王として瞑想を……」
「いびきかいてたぞ」
「魔王の呼吸だ」
「便利だな、魔王」
ベベが能力を解くと、店の人たちは何事もなかったように目を覚ました。
店主は首をかしげた。
「あれ? 今、昼寝してたか?」
ベベはパンの袋を抱え、小さな声で謝った。
「ごめんなさい」
店主はベベの頭をなでた。
「パンを守ってくれたんだろ? 偉いじゃないか」
おまけに小さなパンを一つもらい、ベベはとてもうれしそうだった。
◇
最後のお菓子屋では、ココが棚いっぱいのお菓子を前に固まっていた。
星の形をしたクッキー。
食べると色が変わるゼリー。
口の中で小さく音が鳴るキャンディー。
どれも魅力的だった。
「ベベと同じものを一つずつ選ぶんだぞ」
ヒロシが言う。
ココは腕を組み、真剣に考えた。
「きめられない」
「じゃあ、どれか一つ選ぼう」
「ぜんぶ、ひとつ」
「それは全部買うってことだ」
ココは考えた末、《フォーチュン・ルーレット》を使った。
頭上に光るルーレットが現れ、ものすごい速さで回り始める。
一番。
二番。
三番。
十番。
二十番。
なぜか棚にあるすべてのお菓子へ、次々に光が当たっていく。
やがてルーレットは止まった。
現れた文字は――
『全部大当たり!』
ココが両手を上げる。
「ぜんぶ、あたりー!」
「その能力、ココの欲しいものに合わせてないか?」
サクが疑わしそうに言う。
「うん!」
ココは迷いなく答えた。
「認めちゃった」
キキが笑った。
結局、ココは星形のクッキーを二枚選んだ。
一枚はほんの少し大きく、もう一枚は少しだけ小さい。
ココは大きい方をベベへ差し出す。
「ベベ、こっち」
「おおきいよ?」
「ココ、おなかいっぱい」
ココのお腹は、まだ何も食べていないので少しも膨らんでいなかった。
それでもベベはうれしそうに大きなクッキーを受け取った。
ヒロシとヴァルドは、その様子を黙って見ていた。
ヴァルドが小さく言う。
「姉妹とは、よいものだな」
ヒロシもうなずく。
「まあ、取り合いになる時はすごいけどな」
「魔王軍の戦争より激しいのか?」
「お菓子が最後の一個ならな」
◇
買い物はすべて終わった。
残っているのは、ナナとセレナのためのお茶だけだ。
お茶屋へ入ると、壁いっぱいに茶葉の瓶が並んでいた。
甘い香りのお茶。
花の香りのお茶。
少し苦いお茶。
果物の香りのお茶。
ヒロシとヴァルドは、入り口で動かなくなった。
「多すぎる」
ヒロシがつぶやく。
「なぜ茶だけで、これほど種類があるのだ」
ヴァルドも困り果てている。
店主が尋ねた。
「どんな方へのお茶をお探しですか?」
ヒロシとヴァルドは同時に答えた。
「妻が一番喜ぶもの」
「それでは分かりませんね」
「だよな」
ヒロシは頭をかいた。
ヴァルドは店主に尋ねる。
「最も高価な茶はどれだ?」
「値段で選んだら、セレナさんに怒られるぞ」
ヒロシが止める。
「では、最も珍しい茶だ」
「珍しければ喜ぶってわけでもないだろ」
「ならばヒロシ、お前は何を選ぶのだ」
「ナナがいつも飲んでるのは……」
ヒロシは考え込んだ。
ナナが朝に飲むお茶。
食事の後に飲むお茶。
カフェで新作を考える時に飲むお茶。
思い返すと、ナナは香りの強すぎるものより、すっきりしたお茶を好んでいた。
そして、疲れている時には、ほんの少し甘い香りのものを選ぶ。
「ナナは、甘すぎない果物の香りが好きだと思う」
店主は、白い花と赤い実が混ざった茶葉を出した。
「こちらはいかがです? 月夜ベリーと白星花のお茶です」
ヒロシは香りを確かめる。
優しく甘い香りがした。
「これだ」
ヒロシは迷わず選んだ。
ヴァルドは、まだ腕を組んでいる。
「セレナさんは、普段どんなお茶を飲むんだ?」
ヒロシが尋ねた。
「黒竜茶だ」
「どんな味?」
「非常に苦い」
「それ、本当に好きで飲んでるのか?」
「魔王妃として、強い茶を飲むべきだと……」
「本人が好きって言ったのか?」
ヴァルドは黙った。
その時、サクが口を開いた。
「セレナさん、カフェで母とお茶を飲んでる時、花の香りのお茶をよく選んでるよ」
「わたくしも見たことがあります」
キキも王妃のような口調で続けた。
「青い花が入ってるお茶」
ヴァルドは店主を見る。
「青い花の茶はあるか?」
店主は青い花びらの混ざった茶葉を出した。
「夜空花のお茶です。香りは優しく、飲むと少しだけ気持ちが落ち着きます」
ヴァルドは香りを確かめた。
その表情が、少しだけ柔らかくなる。
「これにしよう」
「子どもたちに教えてもらったな」
ヒロシが笑う。
ヴァルドは胸を張った。
「王は、民の意見を聞いて正しい判断をするものだ」
「うまいこと言ったな」
「お前の時短術を学んだのだ」
「それは俺のせいにしないでくれ」
◇
魔王城へ戻る頃には、空が夕焼け色に染まっていた。
北の湖へ釣りに行く時間は、もう残っていない。
ヴァルドは大量の荷物を抱え、ヒロシは眠くなったココを背負っている。
ベベはヒロシの服の裾をつかみ、グリはサクと手をつないで歩く。
キキは買った星香草を何度も確かめていた。
「ヒロシ」
ヴァルドが言った。
「お前の時短術は、失敗だったのではないか?」
ヒロシは辺りを見た。
買い物を始めてから、ずいぶん時間がたっている。
予定どおりに進んだものは、一つもない。
香草でくしゃみをし、果物の箱を運び、パン屋では眠らされ、お菓子屋では長い間悩んだ。
効率だけで考えれば、ひどい結果だ。
けれど、子どもたちは楽しそうだった。
サクは買い物の仕方をグリに教え、キキはベベと星香草の匂いを確かめている。
ヒロシの背中では、ココが幸せそうに眠っていた。
「いや」
ヒロシは笑った。
「買い物の時間は増えたけど、家族と過ごす時間も増えただろ」
ヴァルドは少し驚いた顔をした。
そして、子どもたちを見る。
「なるほど」
「これこそ、本当の時短術だ」
ヒロシが得意そうに言った。
サクがすぐに振り返る。
「父、最初は子どもたちに全部やらせて、自分は楽をするつもりだったよね?」
「何のことだ?」
「『誰かにやらせればいい』って言ってた」
「それも家族の成長を考えてのことだ」
「絶対うそ」
「サク。世の中には、知らなくていいこともある」
「ごまかした」
◇
魔王城の食堂では、ナナとセレナが夕食の下ごしらえをしながら待っていた。
扉が開き、疲れ切ったヒロシとヴァルドが入ってくる。
その後ろから、子どもたちが元気よく駆け込んだ。
「母! おかいものした!」
「パン、ねなかったよ!」
「香草は少し大変だったけど、ちゃんと買えたよ」
「果物屋さんの腰を治したの」
子どもたちは一斉に今日の出来事を話し始めた。
誰が何を言っているのか分からないほどにぎやかだ。
ナナは、一人ひとりの話を笑いながら聞いた。
セレナも、普段の魔王妃らしい落ち着いた表情ではなく、楽しそうに笑っている。
やがてヴァルドが、選んだお茶をセレナへ差し出した。
「セレナ。お前のために選んだ」
セレナは茶葉の袋を受け取る。
「夜空花のお茶……」
「気に入らぬか?」
「いいえ」
セレナは、うれしそうに袋を胸へ抱いた。
「とても好きなお茶です」
ヴァルドは安心したように息を吐いた。
ヒロシも、ナナへ月夜ベリーと白星花のお茶を渡す。
「ナナちゃん、これ」
ナナは袋を開き、香りを確かめた。
「あ、これ好き」
「だろ?」
「ヒロシくんが自分で選んだの?」
「もちろん」
サクが口を開きかける。
「父、最初は――」
ヒロシは素早くサクの口へ星形のクッキーを差し出した。
「サクも食べるか?」
「それで黙らせようとしてる?」
「何のことだ?」
ナナはクスクス笑った。
セレナも笑っている。
その夜は、買ってきた野菜と香草を使った料理が食卓に並んだ。
食後には、ナナとセレナがそれぞれ選んでもらったお茶を入れた。
子どもたちは、カフェから持ち帰った月夜ベリーのケーキを分け合い、
ヒロシとヴァルドは今日のおつかいがどれほど大変だったかを、
少しだけ大げさに語った。
「巨大な香草の嵐が我らを襲ったのだ」
「店一軒が眠りについた時は、さすがの俺も覚悟したな」
「月夜ベリーの箱は、山よりも重かった」
「それは言いすぎ」
サクが冷静に言う。
みんなの笑い声が、食堂いっぱいに広がった。
ヴァルドは、お茶を飲みながら家族たちを見回した。
「ヒロシ」
「ん?」
「釣りもよいが……こういう時間も悪くないな」
ヒロシは少しだけ笑った。
「だろ?」
するとココが、ケーキを口いっぱいに入れたまま言った。
「こんど、みんなでつり!」
ベベも手を上げる。
「ベベも、おさかなねむらせる!」
「魚を眠らせたら釣れないんじゃない?」
キキが首をかしげる。
ナナは楽しそうに言った。
「じゃあ、今度はみんなで行こうか」
「わたくしもご一緒いたします」
セレナも微笑んだ。
ヒロシとヴァルドの動きが同時に止まる。
「み、みんなで?」
ヒロシが尋ねる。
「二人で静かに釣る予定では……」
ヴァルドが小さくつぶやく。
ナナとセレナが同時に二人を見る。
「何か言った?」
「何かおっしゃいましたか?」
ヒロシとヴァルドは顔を見合わせた。
そして同時に首を横へ振る。
「何も言ってない!」
「何も言っておらぬ!」
子どもたちの笑い声が、さらに大きくなった。
こうして、ヒロシのグータラ時短術によって始まったおつかいは、
予定よりもずっと長い一日になった。
けれど、その日一番増えたのは、買い物の時間ではない。
家族みんなで笑った時間だった。




