その28
「あぁ、アリア・コーダ様と、そうお呼びした方がよろしいですか。でもそれは、俗名ですよね。やはりここは、正式な名であるハサミ・セナ様とお呼びするのが筋かと」
(……何言ってんだ、こいつ)
とにかく、ケネイアが言っていた『狐』はこいつで間違いないだろう。相手にするのもどうかと思われたが、何かがアリアを引き留めた。
アリアは、ファイアやラトス、シンシアに引き取られるまでの五歳くらいまでの記憶が、ほとんどない。うっすらと断片的な記憶が時折フラッシュバックするのだが、どこに住んでいたのか、誰と暮らしていたのか、全く覚えていない。幼い頃の記憶などそんなものだろう、とさして気にしていなかったのだが、割と最近になって、もう少し覚えていてもいいのでは……と思い始めた。
この狐面の男は、空白部分のアリアの記憶について、何か知っているのかもしれない。充分に距離を取り、警戒しつつ、アリアは彼に話しかけた。
「……ハサミ、って何。苗字ってこと?俺の……父親を知ってんの?」
「おお、話が早い。さすがはスバル様のご息女ですね。それにしても……やはり、セラディ・ソーサラーズはそんなこともあなた様に話していないのですか。まったく嘆かわしい」
嘆かわしい、などと言いつつも、彼の口調はどことなく面白がっているようだった。
「ハサミ・スバル様は、この世にただ一人のアラヒトガミでいらっしゃいます。セラディ・ソーサラーズはおこがましくも神などと名乗る魔術師を祀り上げているようですが、あんなお飾り連中とは比較にもなりません」
(スバル……)
名前を聞いてもピンとこない。どこかで聞いたことがあるような気がしなくもない、という程度だ。そもそも『アラヒトガミ』とはいったい何なのか。
アリアが黙り込んでいると、所在なさげに立っていたティファが彼に声を掛けた。
「ねぇ、ちゃんと連れてきたんだからさ。あたしとの約束があったでしょ」
それを聞くと、彼は面倒くさそうにチラリとティファを一瞥し、ため息をつきつつ上衣の内側から薄い封筒を抜き出した。
「ほら、持っていけ。そしてお前はとっとと立ち去れ、目障りだ」
ティファは鼻を鳴らしてそれを受け取ると、一瞬だけアリアの方へ視線を投げ、早足で雪の降りしきる通りへと姿を消した。
「失礼しました。まぁ、いろいろとお聞きになりたいこともあるでしょうが、こんな天気ですからね。お父上のことなどもお話したいですし、一度こちらの施設に来ていただくのがよろしいかと」
(ラトス様と同じようなことを言うなぁ、こいつ……)
表情の読めない、つるりとした狐の面を見ながら、アリアは一歩後ろに下がった。
正直、もう少し話を聞きたい気持ちはある。だが、この辺が潮時だろう。ティファとの約束も一応果たした。
ワープで逃げるつもりでもう一歩後ろに下がろうとした時、突然背後に人の立つ気配がした。背中が、ふわっと明るい黄色の光に照らされる。
(え?)
誰か、おそらく魔術師がワープで瞬時に現れたのだということは分かった。だが、分かったのはそこまでだった。
背中の中央を、熱い何かが通り抜けた。痛いというよりは、圧倒的な異物感への拒否反応で全身が硬直する。何が何だか分からず、足元へ視線を落とした時、ぽたりと鮮やかな赤いものが真っ白な雪の上に落ちるのを見た。それを目にしたとたん、ふいに眩暈がして、膝から崩れ落ちそうになった。すかさず、後ろから抱き留められる。
「おぉ、あっぶない。お久しぶり、セナちゃん。美人さんになって、ほんとにスバル様と瓜二つじゃん」
アリアを抱き留めた人物は、先ほどの狐男と同じスタイルをしていた。つまり、こちらも同じような狐の面を付けていて、顔は全く分からない。ねっとりと纏わりつくような声をした、こちらも多分若い男。突然現れた彼に対し、慌ててもう一人が声を掛けた。
「エルディア!おまえ、セナ様に対してなんてことを!」
「いやでも、シグアがのんびりし過ぎてるからさぁー。逃げられちゃったら元も子もないじゃん。まぁ捕縛かけてもいいけど、この方が萌えない?」
狐男たちが言い争うのを聞きながら、アリアは遠退きそうになる意識を必死に保っていた。おそらく、背中を刺された。傷口が熱く、身体の他の感覚がなくなっていく。
「痛い?ごめんねー、ちょっと刃に毒が塗ってあるんだよね。でも大丈夫、死ぬような毒じゃないから。高い熱が出て、全身が痺れるけど、ちゃんと治る毒だからさ」
これは、まずい。目の前がぼやけ、抵抗する気力も削がれていく。




