第三章•〈灰門〉ーー《秘色門(ひそくもん)》㊁
《秘色門》が現れたことを知った、九月二十六日(二十七日)から二日後ーー九月二十八日に、〈ホエホ〉に属する、コハという名の、十五歳の少年が殺された。
このコハは、ノバツ長老やその息子たち、孫たちと共に務める医術舎ーー重い病状の患者をみる〈一ノ館〉、軽い病状の患者をみる〈二ノ館〉がありーーノバツと一男のドセ、その子どもの十七歳のバニと十八歳のナキ、三男のアスとその双子の子、二十歳のディナとムノーーそれに、コハを含めた手伝いの者たち三人が、〈一ノ館〉に務めていた。
少年は殺される前日、早朝にひとりで木魂ノ森へ行き、〈ヒュシュゴ〉という、まるく小さな実を採ってきた。
この〈ヒュシュゴ〉は、デアン国の森に自生する、固有種の植物で、夏のひと月の間だけ、クリーム色の可憐な花が房状に咲き、その花を乾燥させ煎じたものは、解熱に優れた効能をもつ。そして、熟す前のもの(赤色の実)には毒が含まれ、注意が必要なその実は、空気の乾燥と共に風邪が流行り出す、秋に完熟し(黒紫色の実となる)収穫期を迎え、とくに朝露をまとった状態に収穫したものは、通常よりも豊富に栄養を含むのだ。
採った実は潰してしぼり、たっぷりの砂糖と共に煮詰め、そうしてできた〈ヒュシュゴの果蜜〉は、食欲が落ち、体力の弱った患者に与えると、優れた栄養に加えて、熱、のどの腫れや痛みなど、身体の炎症を鎮める効能効果も発揮するのだった。
朝、森へ行き帰ってきたコハは、木魂ノ森のなかで、不思議な香りーー今までに感じたことのない、甘い蜜のような匂いを嗅いだと、興奮を湛えて、口にした。
ちょうど、二階にある医術長室から、階段を下りてきたノバツは、無邪気な少年の言葉にーー長らく生きてきてはじめて、全身の血が凍りつくような思いがした。
そのとき、その場にいたのは、双子のディナとムノ、従兄弟のバニとナキだった。
毎年のことではあるが、季節が移ろうこの時期、一日のなかの大きな寒暖差に、体調を崩す者が日毎に増え、合わせて〈ホエホ〉の得意分野である、〈助産〉のために、昼夜問わず医術舎と家とを往復して、みな連日の忙しさに、とくに関心をもって聞いていたようではなかったという。
そのあとは、とくに変わったことはなく、いつものように、慌ただしく時が過ぎた。
午後も遅くなった頃、ノバツは隙をみて、できるだけ自然に、コハを二階の自室へ呼んだ。
そして、そこで、細心の注意を払い、森で甘い匂いを嗅いだとき、他に人のすがたは見なかったかと、穏やかに問えば、まだあどけなさの残る少年は、いかにも緊張した様子で、それでもはっきりと、見ていないと答えた。
ノバツはコハに、無論訳は話さず、その話は今後決して、口にしてはならないと、固く約束させた。
怯えた少年を、いつも引き出しにしまってある、特別な箱菓子(落雁)を出して茶と共にふるまい、落ち着かせたのち、仕事へもどるよう、退室させた。
一人になってしばらく、暗澹と拭いきれぬ胸騒ぎを静め、部屋を出ようとしたとき、はっと感じた気配に窓を見れば、〈紙鳥〉が飛んでいくのを、確かに見たという。
羊皮紙に文をしたため、ちょうど折り紙のように、術をかけて鳥の形をつくり、相手に送り飛ばすーー高度な技術が必要な、この〈紙鳥〉を使えるのは、〈一ノ館〉にいる者では、ノバツ自身と孫の双子たちだけであった。
翌日は、朝から大勢の風邪の患者たちにかかりきりになり、ノバツは一日中、息子たちと共に、二階で治療にあたっていた。
夕方になって、ようやくひと段落し、一階へ下りていくと、多忙にいっとき影を潜めていた不穏な雲が、一挙にとぐろを巻き、かま首をもたげた。
疲れの浮かんだ、ディナに聞けばーー切らさぬよう常に補充し、十分な蓄えがあったはずの〈ウガ(季節風邪の煎じ薬に用いる根茎)〉が、どういうわけだか、壁一面に据え付けられた、薬草棚の抽斗に半分以下となり、医術舎から少し離れた、森の近くにある〈朝ノ倉(薬草を保管する、高床式の倉庫)〉からも、その在庫が三分の一ほどに、減っていたという。
そこで、慌てて予定外に森へ採りに行ったバニ、ナキ、コハのうち、コハだけが、まだもどらないのだと、心配げな表情に、孫娘から伝えられた。
もどってきていた、二人に聞けば、人手が足りないなか、長い時間はかけられず、ひとまずの分の〈ウガ〉を、広い森を手分けして探し採ろうということになり、集合場所を決めて、それぞれ散ったのだが、その後いくら待っても、コハが現れないため、ひとり急いで先に帰ったのだと思い、二人はそのまま帰ってきた、ということだった。
仲間を心配する思いと、目の前にいる祖父であり、医術長から、なにか厳しい叱責の言葉があるのではないかと、不安を滲ませた二人に対し、ノバツは常の平静を崩さず、いつもの杖を持つと、すぐに夕暮れの森へひとり向かった。
己を呪う気持ちに、冷たい汗が流れ落ち、激しい心音が鳴り響くなかーー目指す場所は、決まっていた。
ひたひたと、夜の闇が迫り漂うなかーー〈四つの黄金の香炉〉が隠されていた、洞窟近くーー少年の見るも無惨な屍は、すぐに見つかった。
杖の持ち手にある、水晶玉を握り、哀れな少年の骸を見れば、コハには、かつての時代には使われ、今は長く禁止されている、〈拷問の術〉の跡があった。
ーー冷たい地面に横たわる、冷たい少年の亡骸には、両の目玉が抜き取られ、存在しなかった。
襲った相手が、少年の見たものを知ろうとしていたことが、疑いなくわかるのだった。
もしそれが、ヤゴミ長老だとすれば、長になるときの秘儀に、〈特種な術〉をかけあったもの同士、どれだけ隠そうとも、微かな残り気配でわかるはずだとーーしかし、慎重に確かめてみても、そこにヤゴミ長老の気配は微塵もなかった。
〈アバンネマンダ〉ーーヒャロンの古いことわざで、(呪文は魂の深くに根をはる)ーーという意味のもの。
ヒャロンの今の若者たちには、忘れ去られつつある言葉だが、ノバツをこれを一心にーー長いこと、少年の屍に、向き合うのだった。
すると、ぼっかりと空いた、不気味な両の眼窩に、一瞬間、浮かび上がるすがたがあった。
左の深淵には、浮かんだ〈上弦月〉に、鋭い稲妻が閃き砕けーー右の深淵には、〈新月〉の輪のなかに、〈下弦月〉が浮かんでいた。
ノバツは、塗り込めたような、夜の帳が下りた森のなか、深く傷つけられた少年の骸を背負いーー(杖の棒状の部分は、持ち手の水晶玉の下に、収納できるようになっていて、まだ足腰は、それほど衰えていなかった)ーー森を出て、みなのいる郷へ帰り着いた。
すぐに〈一ノ館〉へ向かうことはせず、硬くなった少年の屍を、〈朝ノ倉〉から離れた場所に建つ、ノバツだけが鍵をもっている、一回り小さな〈夜ノ倉(高貴な薬草や、取り扱いに注意が必要な、薬草類が保管されている)〉へ、ひとまず横たえ、鍵をかけた。
そうして〈一ノ館〉へ帰れば、みながノバツとコハの身を案じ、待っていた。
医術長は、一人ひとりの顔を眺めていきーー最後に、双子のムノにとまるーーそして、常の冷静な面に、厳粛な声で一言、少年の死を伝えた。
みな息をのみ、バニとナキはその場にくずおれた。
ノバツは息子たちの問う声に答えず、淡々と、一人ずつ部屋へくるように言い、再び話を聞くのだった。
結果、その日は双子を含め、急遽森へ行った三人をのぞきーー(朝ノ倉へ〈ウガ〉の数量を確認しに行ったのも、コハであった)ーー他には誰も、〈一ノ館〉を離れた者はいなかった。
しかしーーノバツは確信をもって、〈ウガ〉を意図的に減らしーー(翌日、近くを流れるクヤー川に、隠し捨ててあるのを、見つけた)ーー〈紙鳥〉を飛ばし、コハに手を下していないにしても、手をかけた残虐非道な何者かと、通じているのは、双子のうち、兄のムノのほうであろうとーーそれまで表情を一切変えず、理路整然と話していたすがたから、はじめてその面に時の間、苦渋の色を映して、言うのだった。
孫のムノと、〈ネロネ〉のヤゴミ長老が、直接に会っていたのかは、わからない。
だが、コハを〈拷問の術〉に惨殺した〈ヒャロン〉ーーノバツは、複数人ではなく、一人であると考えているーーが、いることは明白に、まだすがたの見えぬその人物こそが、〈黄金の香炉〉の封印を解いた者ーー。
そして、〈ネロネ〉のヤゴミ長老ーー孫のムノーー封印を解き、少年を殺した〈蜘蛛〉ーーこの三者を結びつけた契機というのが、骸の左眼窩の深淵に浮かんだ暗示の通り、二年前に大流行したーーノバツも自身も、大切な伴侶、友を失ったーー〈雷鬼〉であろうと。
高熱がいく日も続き、あたかも雷の子を身に宿したように、最後は激しい痙攣を起こして死に至るーー最も深刻な状況に陥った、西ガサン国であると、ノバツは放った。
〈解毒〉を得意とする、〈ネロネ〉のヤゴミ長老は、ひと月のあいだ、西ガサン国へ出向き、同じ時期、〈ホエホ〉からも三男のアスと、双子を行かせたのだった。
コハが殺されたのち、ノバツはすぐに次の行動へーー西ガサン国へ向かった。
そして、危険な賭けをもって、〈スフス〉のザイナ長老と会った。
そこで、〈ホエホ〉の祖である、ノラグシ長老から秘伝に継承されてきた、〈真偽の縄〉ーー(互いの手首を握り合い、相手に聞きたいことを尋ね、金色の縄が光り現れると、スルスルと相手の腕をはい上がり、真のことを言えば、首にぐるりとまわった縄が消え、偽りを言えば、そのまま縄が首を締め上げる)ーーという〈秘術〉を、ザイナ長老の承諾を得た上、はじめて使った。
結果、〈スフス〉の長老は、嘘偽りなく、〈黄金の香炉〉の隠し場所ーー〈門術〉についてを、漏らしていないことがわかった。
重く、長い語りが終わり、満たした息苦しい沈黙にーーみぎさは、内にぬるりと湧いた、口にするのもおぞましい疑点ーーー〈蜘蛛〉が〈大毒〉をつくり使うのも、時間の問題であるのかーーー覚悟をもって、相手に質した。
ーーー『今日か明日か、はたまたひと月後かーー可能性はいつでもあります。 ただ、現状は、〈門術〉に魅了されているのでしょう。 〈大毒〉が派手な音を立てて、効力をみせるとして、〈門術〉は、いわば音もなく静かに、だが確実にーー威力をもって、効果を広げみせるーー。 十分に足場がぐらついたところで、とどめに〈大毒〉をもって刺すーー不適切な表現が許されれば、それはいつの時代も変わらぬやり方です」
ーーー『ヤゴミ長老、〈蜘蛛〉、あなたの孫の目的は、一体なんだと、考えていますか……』
ーーー『当人へ聞くまでは、わかりません。 ですが、あくまで私の考えで言えば、〈四死戦〉当時のような、〈ヒャロン〉の高い地位ーーそして、たとえそれが、危険な〈毒〉であれーー制限なき自由な術の使用ーー望みはこれらかと、思われます』
ーーー『あなたにとってもやはり、古の〈毒術〉は、魅力的なものなのですか……」
ーーー『〈毒〉と〈薬〉は、表裏一体ーー誤解を招かれませんよう、それでも答えるとすれば、〈ヒャロン〉として生きる者には、《魂》に深く刻まれた、切っても切れぬ存在なのです』
人払いができ、周りに不審の念を抱かせずにいられる、だい門警長が綿密に計算し、手配した密会の最後ーー〈ホエホ〉のノバツ長老は、こう締めくくるのだった。
ーーー『〈ラン•ネ•ラン〉と共に、我々が探し追う人物は、危険な思想の持ち主に、並外れた能力をもつ者です。 〈四つの香炉〉の封印を解き、〈線香〉に火をつければ、燃え尽きるまでの一度しかない機会に、〈モリャ〉をすべて完璧に読み解き、そして、〈禁忌の術〉をも巧みに操るーー伝説である、大呪術師たちの力を得た今、その存在は、〈ヒャロン〉の歴史上、最も恐るべきものであると言っても、過言ではありません』ーーー………




