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第二章•東デアン国㊁

およそ六百年ぶりに緩和された、〈血印条約〉のうちでは、原則として、自国の〈ヒャロン〉の長老以外と会うことは、認められていない。

完全なる密ではなく、だい門警長立ち会いのもとではあるが、この状況が極めて微妙なものに、気づけば足を踏み入れてしまった、灰色の領域から、一歩間違えば、互いに危険を孕んだ様相ーー冷厳な局面に陥ることは、明々白々であった。


まるで時が止まったような部屋のなかーー藍色の作務衣すがたに、向かい合う老人は、その右手に水晶玉のような、美しい持ち手のついた杖を握り、こちらを見据えていた。

みぎさはこれほどまでに、言葉に言い表せぬ人物に出会ったのは、生まれてはじめてだった。

艶のある豊かな鶴髪を、頭の上に団子に結び、見事な丸顔には、同じく真白な髭が、厚く高尚に伸ばされている。まるい顔の横に張り出し見えた、大きな耳朶には、〈朱色の下弦月〉が、彫られていた。

それは一種の畏怖を覚えるような、相手の纏い放たれる雰囲気から、最も近い表現は、『そのまま雲に乗ったとしても、なんら違和感のない』ーー〈仙人〉のようである、ということだった。


「〈ホエホ〉のノバツ長老です」


だい門警長が、改めて紹介し、続いてみぎさたちのことを伝える。

両者は厳かに、会釈した。


「母親から、継がれたのです」


ノバツの第一声に、みぎさは思わずドキリとする。ーー相手の胸中を見透かした、老者の瞳は、限りなく赤色に近かった。

「子どもの頃は、悪鬼の目だと、よくいじめられたものでした。 四人の息子たちへは、継がれなかったのですが、孫娘の一人に、同じ瞳が渡りました」

低く、深くーー静かにゆったりと、言葉の一つ一つが、鼓膜をそよぐだけでなく、胸にすーっと染み透るような、なんとも不思議に、心地よい声音が響く。

赤い炯眼が、異国の門警長から、その相棒へ移る。

「あなたの月夜の目も、なかなか珍しい、良き力を秘めていますね」

言葉の真意を掴めぬ、みぎさの目が、横を向けば、しなやの紺の瞳は真っすぐに、〈ホエホ〉の長老を見つめていた。

「……そうでしょうか」

「今にきっと、わかるはずです」

みぎさは眉をひそめーー(おそらく、だい門警長も同じに、けれど彼は、その静かな水面のような表情を変えることはない)ーー二人の奇妙なやりとりが終わった後、それぞれ席に着くのだった。

だい門警長が上座に、向かいの下座にノバツ、みぎさとしなやは、議長席からみて左手に、腰を下ろすのだった。

ちょうどそのとき、扉をたたく音ーー小さく三回、少し間をあけて、二回打つ音が響きーー顔を強張らせた、みぎさとしなやに対し、落ち着いただい門警長は、「入れ」ーーと、声を放つのだった。

固い視線の先ーー厩舎へ馬を連れて行っていた、からすまのすがたが、部屋へするりと入ってきた。

「万事問題ないか」

だい門警長の冷静な声に、一同の座する場へやってきた若い相棒は、大きく頷いた。

「ありがとう。ご苦労だった」

からすまは、小さく頭を下げると、みぎさとしなやの向かいに、議長席からみて右手の席に、音なく腰を下ろし、覆っていた口布を取った。


厳粛な沈黙が流れるーー額が痺れるような、緊張を孕んだ空気に、だい門警長が口火を切る。


「本日、お二人に急を要し、そして厳秘にこちらへお越しいただいたのは、もうお分かりの通り、〈ホエホ〉のノバツ長老に、お会いしていただくためです」


「一つ、確認しておきたいことがあります」


みぎさの張りのある声が通り、鋭い眼差しが、デアン国の門警長を捉える。

「私は、信頼するあなたからの要望通りに、相棒のしなやを除いて、上官のほうにも、ここへ来る真の理由を伝えていません。 決して安泰ではない、今のこの状況を知る者は、ここにいる者たちを除いて、どれほどいるのでしょうか」

「ご尤もな懸念である、その点につきましては、今この場に集う者たちだけです。 もちろん、お二人がここへ来ることは、私の部下をはじめ、てらまち上官のほうにも報告し、周知のことですが、ノバツ長老がこの場にいることは、〈ホエホ〉の者たちを含め、他に誰も知りません」

みぎさの真剣な眼が、鶴髪の老人へ向く。

深く覗き込むような、一対の赤い目は真っすぐにーー相手の内に湧いた、微かな疑いをも、見抜いたように、口を解く。

「〈春虫秋草(しゅんちゅうしゅうそう)〉を、採りに行くと伝えてあります」

「しゅん、ちゅう……」

すると、向かいにいる、からすまが、懐からいつも持ち歩いている、紙の束と携帯用の小さな筆を取り出し、慣れた手つきに、さらさらと走らせるのだった。

筆を置くと、紙をみぎさのほうへ、すっと差し出す。

「ああ……文字で見ると、わかりやすい」

みぎさが、感嘆の声を漏らす。

「なにかの薬草ですか?」

しなやが、興味深げに聞く。

〈ホエホ〉の長老が、頷いた。

「草とありますが、実際にはきのこの一種です。 文字にある通りに、春は虫のすがたに、秋になると、寄生した虫の死骸から、この大変高貴なきのこが、伸びてくるのです。 滋養強壮には、これに優るものはありません。 その希少さゆえ、ほとんどを、王族方に献上しています」

みぎさは、眉根を寄せる。

一方でしなやは、身を少し前にして、〈ホエホ〉の長老を見つめていた。

「寄生する虫は、決まっているのですか?」

「いいえ、蜘蛛や、蛾や蝉の幼虫だったり、さまざまな虫に寄生します。 無論宿主が違えば、生えてくるきのこも違います。 それらの総称を、〈春虫秋草〉と、呼ぶのです」

「なかなか見つからないものなのですね」

若者の声に、老人が、小さな笑みを湛え、頷いた。

「広大な森で採れる場所は、私しか知りません」

赤みを帯びた目が、面白そうな光を秘めて、もうひとりの若者へ向く。

「森で見つけて、調べたのですね」

からすまが柔らかな笑みに、頷いた。

「子どもたちが聞けば、とても悔しがるでしょうね。 あとで私に、見つけた場所を密かに教えてください」

だい門警長の相棒は、にこやかに頷くのだった。

ノバツの目が、みぎさへ向く。ーー二人のやりとりを、眺めていたみぎさは、再び心臓が、ドキリと打つのだった。

「先ほど話した、孫娘のディナも、生まれつき、話すことができません。 優劣をつけることは、私の趣味ではありませんが、ここだけの話、息子たち、孫たちのなかで、このディナが最も卓才です。 不思議なもので、人より欠けたものがある分、他の感覚が鋭敏に、抜きん出ているのでしょうね。 ディナも彼のように、常に紙と筆を持ち歩いていますが、その目を見れば、伝えようとしていることが、大体わかります」

「……そうなのですね」

「そして、彼もまた、特別な才に恵まれ、私は身をもって、感銘を受けました」

光る瞳が、おかっぱ頭の若者へ向く。ーーそして、ギレン国の門警長を見つめた。

「多くの目があるなか、目立つであろう私が、秘密裏にどうやって、ここへ来たかーー」

「……〈変装〉……だから口布を……」

はっとした、しなやがつぶやき、向かいに座る相手を、まじまじと見る……。

だい門警長が、口を開いた。

「〈察警〉のなかで、彼の右に出るものはいませんでした。 私はそのために、あらゆる手を尽くして、なんとか彼を、〈門警〉へ迎えることができたのです」

「だい門警長自ら、口説いたということですか?」

みぎさの驚きを隠せない声に、「はい」と、真剣な声が、響くのだった。

視線の先に映る、おかっぱすがたの若者は、相変わらず、穏やかな笑みを湛えていた。

『人の見かけに騙されるな』ーー〈警使〉となって、今のけいはん右上官から、真っ先に叩き込まれた教えが、内にこだまし……みぎさは背筋を、すうっとしたものが、走るのだった。

「話が逸れましたがーー」

束の間緩んだ、部屋の空気に、だい門警長の低い声が通り、再び張り詰めるのだった。

「結果的にお二人を、否応無しに危険な状況、立場へ引き摺り込んでしまったこと、もはや謝罪して済む話ではありませんが、誠に申し訳ありませんでした」

デアン国の門警長が、深く頭を下げ、その相棒も深く頭を垂れる。

深重な沈黙が流れたーーー

「顔を上げてください。 罠にかけられたとか、そういう風には思っていません。 第一、危険な立場なら、だい門警長も同じことーーこのことが知られれば、確実に〈警使〉ではいられなくなる」

だい門警長が静かに顔を上げ、厳しい面に、固く結ばれていた口を解く。

「その通りです。 最悪の場合、この世にもいられなくなるでしょう」

淡々とした声が、秋色の明るい部屋に、虚ろに響く。

みぎさの黒々とした瞳が、〈ホエホ〉の長老へ移る。

「あなたとて、同じことだ」

なにの表情も読み取れぬ相手は、黙したまま、じっと眺めていた。

ギレン国、門警長の瞳が、再び同志へ向く。

「この場に、ドヌン国、ガサン国の門警長たちが不在であることも、すべて重要な意味をもち、事の核心に、繋がっているのですよね」

「はい」

だい門警長の、重みある声が答える。

満たしたしじまにーーひとつ息を吸うと、切れ長の目に宿る光が強まった。


「十月六日、大変な覚悟を決められたノバツ長老が、直々にこちらへ見えられ、私にあるお話をされました。 ノバツ長老から語られた話は、すなわち、〈ヒャロン〉の掟を破ることーー〈ホエホ〉の長という立場のみならず、〈ヒャロン〉を名乗り生きる権利を剥奪され、それは一族諸共、永久に追放される身となるーー〈ホエホ〉の終焉を、意味するそうです」

みぎさとしなやの開かれた瞳が、改めて、下座に着く、老者のすがたを見つめる。ーー二つの赤い目は、真っすぐに前を見据え、表情に変化はなかった。

静まり返った部屋のなかーーだい門警長の声が継ぐ。

「ノバツ長老が語られた、その話というのが、真であるならば、これは我が国どころか、他の三つの王国を含み、そしてもちろん、分派した〈ヒャロン〉にも深く関わるーー最悪の場合、今まで連綿と続いてきたかたち、守られてきたすがたを崩壊させるような、極めて危険に、重大な破壊力を孕んでいると、そう判断しました」

「〈四死戦〉……」

みぎさが、つぶやく……。掌に汗が滲み、顔の横を、冷たい汗が流れ落ちた。 

部屋へ差し込む、澄明な陽も、垂れ込めた不穏な空気を、払い照らすことはできなかった。

みぎさの隣にいる、しなやが、乾いた唇を湿らせ、口を開く。

「四つの王国にとっての、危険であるなか、この場にギレン国の門警長のみが呼ばれた訳を、お聞かせください」

デアン国の門警長は、底光る冷徹な瞳に、白髪の若者を見つめ、その切れ長の目を、向かい合い座る、相手へ向けた。

みなの視線がーー〈ホエホ〉の長老へとまる。

すべてを見透かすような瞳が、今一段と、赤々と光り、それは脈打つように見えた。

深長な間にーー真白な髭が、ゆっくりと動く。


「上古の〈四大毒崩壊死戦〉で、我々〈ヒャロン〉の四長老は、犯した過ちの深さに、二度と繰り返してはならないと、〈四つの黄金の香炉〉に、〈大毒〉に関する術を封印しました」


「〈モリャ〉でしたため、〈香炉〉のなかにある、〈特別な線香〉が、その〈芯〉となっているのですよね」


微かに震えた、しなやの声に、ノバツは頷いた。


「これから話すことは、歴史書に記されていないことです」


みぎさの心臓が、早鐘を打つ……。ぞわぞわとした不吉な感覚が、這い上がるのだった……。

(……まただ……)

キーン……とした耳鳴りに、視界がチカチカと明滅し、みぎさはぎゅっと瞼を閉じると、浅くなった息を整える……。


「〈黄金の香炉〉に、〈大毒〉の生み出し方を封印したとき、〈ヒャロン〉の歴代のなかでも、随一の力を誇った四長老は、己のもつ力の半分と、万古からの〈禁忌の術〉を、共に封じ込めたのです」


重厚に放たれた声が、深々と余韻を残しーーーそれはいよいよというときーー部屋を満たす空気からーー己の奥深くにある《魂》までもーーひんやりとしたものが押し包み……震わすのだった……。

実際には短い間が、息が詰まり、耐え難いほど長く感じた……。

息を凝らし、見つめる相手の、静かに息を吸う音が、激しく鳴り響く心音にかき消されることなく、鼓膜にひしひしと伝わる……。


「〈ヒャロン〉のなに者かが、洞窟の奥深くに隠された、〈四つの香炉〉の封印を解き、〈禁忌の術〉ーー《統魂門錠掌(とうこんもんじょうしょう)》ーー我々が、〈門術〉と呼ぶ術をつかい、《魂の門》を出現させたのです」


••••••••••••


「……〈ネロネ〉のヤゴミ長老が、関わっていると……」


みぎさの掠れた声が、自分でも力なく、遠くに聞こえる……。


「サソリ……」


隣にいる、しなやのつぶやきが、寒気という波となり、ひたひたと身の内を、たたくのだった……。

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