あの日、僕が笑った理由
「……ああ、そうか」
悠の口から、かすれた声が漏れた。
思い出したわけではない。
まだ、肝心なところは見えていない。
それなのに。
自分が何をしたのか。
その答えだけが、記憶よりも先に胸へ突き刺さっていた。
「悠!」
澪が駆け寄り、肩を支える。
「しっかりして。何を見たの?」
「……玲奈が」
言葉が途切れた。
喉が締めつけられる。
呼吸をしようとしても、うまく空気が入ってこない。
「玲奈が、倒れてた」
「……!」
「俺の目の前で……」
そこまで言って、悠は口を閉ざした。
その先を口にした瞬間、何かが決定的に壊れてしまう気がした。
「……ごめん」
誰に向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。
澪に。
玲奈に。
それとも、今まで何も知らずに笑っていた自分に。
「ごめん……」
繰り返すたびに、胸の奥が痛んだ。
そのとき、首元の鈴が鳴った。
チリン。
『悠』
玲奈の声だった。
いつもと変わらない、優しい声。
『こっちを見て』
悠は顔を上げられなかった。
「……見られないよ」
『どうして?』
「俺は……」
喉の奥から、嗚咽が込み上げる。
「俺は、お前に何をしたんだよ……」
返事はなかった。
ただ、鈴が小さく揺れた。
『悠』
もう一度、玲奈が呼ぶ。
『まだ、全部思い出したわけじゃないよ』
「……」
『だから、自分で自分に判決を出さないで』
悠は目を見開いた。
まるで、胸の中を見透かされたようだった。
自分はもう、答えを決めていた。
自分が玲奈を傷つけた。
自分が玲奈を失わせた。
自分が、すべての始まりだった。
そう決めつけることで、残りの記憶を見ずに済ませようとしていた。
「……ずるいな」
悠は笑った。
けれど、その顔はひどく歪んでいた。
「お前、そういうこと言うの……ずるいよ」
『うん』
玲奈の声が、少しだけ笑った。
『知ってる』
その声を聞いた瞬間、悠の目から涙が落ちた。
止められなかった。
隠すこともできなかった。
澪は何も言わず、ただ隣にいてくれた。
それが、今はありがたかった。
どれくらい、そうしていただろう。
やがて、悠はゆっくりと立ち上がった。
「……続きを見る」
澪が顔を上げる。
「本当に?」
「うん」
悠は袖で目元を拭った。
「怖いよ。正直、もう見たくない」
「だったら……」
「でも、ここで逃げたら」
悠はモニターを見つめた。
「俺はまた、自分に都合のいい記憶だけを信じることになる」
それだけは嫌だった。
自分が何者なのか。
何をしてきたのか。
そして、何を間違えたのか。
誰かに決めてもらうのではなく、自分で知りたかった。
悠がモニターへ手を伸ばす。
すると、画面が勝手に切り替わった。
《最終記録――再生準備完了》
先ほど途切れた映像の続き。
再生ボタンが、静かに点滅している。
悠は一度だけ深呼吸した。
そして、指を伸ばした。
映像が始まる。
幼い玲奈が、床に倒れていた。
その周囲には、割れたガラスと、無数の計測装置。
赤い警告灯が点滅する中、白衣の大人たちが何かを叫んでいる。
『対象No.000、能力反応が規定値を超過!』
『玲奈を離せ! 今すぐ対象を引き離せ!』
幼い悠は、玲奈を抱きしめていた。
その手が、赤く染まっている。
『いやだ』
小さな声だった。
『玲奈を、返して』
誰に言っているのか。
大人たちなのか。
施設なのか。
それとも、世界そのものなのか。
『お願い……』
幼い悠の身体から、黒い影のようなものが広がっていく。
床に。
壁に。
天井に。
触れたものが、次々と消えていった。
装置も。
扉も。
研究員たちが手にしていた書類も。
まるで、最初から存在しなかったかのように。
『やめろ!』
誰かが叫んだ。
『このままでは施設そのものが――』
声が途切れる。
映像が激しく揺れた。
その中心で。
幼い悠が、ゆっくりと顔を上げた。
泣いていた。
涙を流しながら。
それでも、笑っていた。
『大丈夫』
その声を聞いた瞬間。
現在の悠は、息を呑んだ。
自分が知っている笑顔だった。
怖いとき。
悲しいとき。
どうしようもなく苦しいとき。
何もなかったことにするために、何度も浮かべてきた笑顔。
『大丈夫だよ、玲奈』
幼い悠は、妹を抱きしめたまま呟いた。
『僕が、全部なくしてあげる』
次の瞬間。
映像が真っ白になった。
そして、画面に一つの記録が表示された。
《玲奈――生命反応消失》
悠の身体が硬直した。
続いて。
《原型個体No.000――拒絶能力、暴走》
最後に。
《記録者:神代悠》
その文字を見た瞬間、悠は理解した。
これは、誰かが後から作った映像ではない。
誰かが自分に罪を着せるために用意した記録でもない。
幼い自分自身が、残したものだった。
「……俺が、記録したのか」
誰も答えない。
画面の隅に、まだ一つだけ項目が残っていた。
《補足記録――本人のみ閲覧可能》
悠は震える指で、それを選択した。
短い文章が表示される。
たった二行。
けれど、その文字を見た瞬間。
悠の表情から、すべての感情が消えた。
『玲奈を失ったのは、僕のせいだ』
その下に。
『だから僕は、玲奈を失ったことを忘れる』
沈黙。
長い沈黙だった。
悠は画面を見つめたまま、動かなかった。
やがて。
「……違う」
小さく呟く。
「違うだろ……」
記録は、まだ終わっていなかった。
画面の最下部。
今まで気づかなかった、小さな文字が浮かび上がる。
《なお、本記録には未確認の改変箇所が存在します》
悠の目が動いた。
「……改変?」
その瞬間。
モニターの電源が落ちた。
部屋中の照明が消える。
暗闇の中で、少年の声が響いた。
「……やっぱり」
悠の隣に立っていた少年だった。
その顔は、真っ青になっていた。
「この記録、誰かが書き換えてる」
「……誰が?」
少年は答えなかった。
ただ、震える指で、暗くなったモニターを指差した。
「だって……」
その声が、初めて恐怖に染まった。
「僕たちの記憶を消したのは、悠じゃない」
一拍。
「悠に、自分が消したと思わせた誰かがいるんだ」
暗闇の奥で。
何かが、ゆっくりと動いた。




