記憶を書き換えた者
暗闇の奥で、何かが動いた。
悠は息を潜めた。
足音は聞こえない。
呼吸もない。
それなのに、誰かがいる。
確信だけがあった。
「……誰だ」
問いかけても、返事はない。
隣にいる少年が、悠の服を強く掴んだ。
「悠……あれ、何?」
「分からない」
嘘ではなかった。
目の前に何がいるのか。
それが人間なのかどうかさえ、分からない。
ただ一つだけ、はっきりしていることがあった。
それは、悠がここに来るのを待っていた。
ずっと昔から。
「……灯り、つかないの?」
澪の声が、暗闇の中から聞こえた。
「試してみる」
悠は壁に手を伸ばした。
その瞬間。
パチン。
照明が点灯した。
白い光が部屋を照らす。
けれど、そこには誰もいなかった。
「……消えた?」
澪が周囲を見回す。
悠は首を横に振った。
違う。
消えたのではない。
最初から、そこには誰もいなかったのだ。
そう思わせる何かが、ここにはある。
「……モニターは?」
悠が振り返る。
電源が落ちていたはずの画面が、再び点灯していた。
そこには、見覚えのない映像が映っていた。
白い部屋。
中央に座る、一人の少年。
年齢は十歳ほど。
黒い紐を首に巻き、膝の上で両手を握りしめている。
その顔は、悠によく似ていた。
ただし。
少年の表情には、今の悠が持っていないものがあった。
諦めだった。
何を言われても。
何をされても。
どうせ何も変わらないと信じてしまった人間の顔。
『記録を開始します』
画面の外から、男の声がした。
『対象No.000。現在の心境を答えなさい』
少年は黙っていた。
『聞こえているだろう』
『……聞こえてる』
『では、質問に答えなさい』
少年はゆっくりと顔を上げた。
『僕は、いつまでここにいればいいの?』
男は答えなかった。
『いつまで、僕の中からいろんなものを持っていくの?』
その言葉に、悠の胸がざわついた。
少年は続けた。
『怒ることも、泣くことも、怖がることも』
『……』
『全部、僕のものだったのに』
画面の外で、紙をめくる音がした。
『必要な処置だ』
少年は笑った。
乾いた笑いだった。
『そっか』
そして。
『じゃあ、僕がいなくなればいいんだね』
悠の指先が冷たくなった。
「……やめろ」
誰に向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。
映像の中の少年は、ゆっくりと立ち上がった。
『記録者の権限を確認』
突然、機械音声が響く。
『原型個体No.000。記憶領域へのアクセスを許可』
「……何?」
悠が顔を上げる。
画面に、見覚えのある文字が浮かんだ。
《記録者:神代悠》
その下に、新しい文字が現れる。
《記録改変者:神代悠》
澪が息を呑んだ。
「……また、悠の名前?」
「違う」
悠は即座に答えた。
「これは俺じゃない」
けれど、声に自信はなかった。
画面の中の少年が、こちらを見た。
正確には、カメラを。
まるで、画面の向こう側にいる悠を見つけたかのように。
『……見つけた』
少年が呟いた。
『やっと、ここまで来たんだね』
「……お前、誰だ」
悠が画面に近づく。
少年は少しだけ笑った。
『僕は、君だよ』
「それはもう聞いた」
『ううん』
少年は首を横に振った。
『今の君でも、最初の君でもない』
そして。
『君が、ここから逃げるために作った僕』
悠の呼吸が止まった。
「……逃げるため?」
『そう』
少年は頷いた。
『君は忘れたかった。玲奈のことも、自分が何をしたのかも』
「……」
『でも、忘れるだけじゃ足りなかった』
少年の目が、わずかに細くなる。
『自分が悪くないって、誰かに言ってほしかったんだ』
その言葉が、胸に突き刺さった。
悠は反論しようとした。
けれど、何も言えなかった。
自分の中に、その願いがなかったと言い切れなかったからだ。
誰かに否定してほしかった。
自分は悪くないと。
自分だけのせいではないと。
そう言ってもらえれば、少しは楽になれると思っていた。
少年は、そんな悠の心を見透かしたように笑った。
『だから、僕を作った』
「……違う」
『僕に記憶を持たせた』
「違う!」
『そして、僕がその記憶を書き換えた』
悠はモニターを睨みつけた。
「お前が……俺の記憶を?」
『うん』
少年は、あっさりと認めた。
『でも、勘違いしないでね』
その表情から、笑みが消えた。
『僕は、君を助けようとしたんだ』
沈黙が落ちた。
「……助ける?」
『君が自分を責め続けたら、きっと壊れてしまう』
少年は静かに言った。
『だから、君が耐えられる物語を作った』
『君は被害者だった』
『君は何も知らなかった』
『悪いのは、全部、大人たちだった』
「……」
『そうすれば、君は生きられると思った』
悠は、目を閉じた。
その言葉を、否定できなかった。
実際、これまでの記憶は何度も覆された。
父親のこと。
玲奈のこと。
自分の能力のこと。
真実だと思っていたものが、次々と別の形を見せてきた。
そのたびに、悠は自分の過去を疑った。
けれど。
もし、誰かが自分を守るために嘘をついていたのだとしたら。
それは、本当に悪意だけだったのだろうか。
「……なあ」
悠は目を開いた。
「お前は、俺を助けたかったんだな」
少年は答えなかった。
「俺が壊れないように、嘘をついた」
『……そうだよ』
「じゃあ、もういい」
少年の目が見開かれた。
「え……?」
悠は、ゆっくりとモニターに手を伸ばした。
「助けようとしてくれたことは、分かった」
一拍。
「でも、これ以上は必要ない」
『待って』
少年の声が変わった。
初めて、焦りが滲んでいた。
『それ以上、思い出したら――』
「それでもいい」
『君は、自分を許せなくなる!』
悠の手が止まった。
画面の中の少年は、必死に叫んでいた。
『全部を知ったら、君は自分を嫌いになる!』
その声は、まるで泣いているようだった。
『だから、もうやめてよ……!』
悠は、しばらく黙っていた。
そして。
「……それでも」
静かに言った。
「俺は、自分のことを知らないまま生きたくない」
少年の表情が歪んだ。
「たとえ、俺が悪かったとしても」
悠は続けた。
「その事実まで、誰かに決めてもらいたくないんだ」
モニターの向こうで。
少年は、何も言わなくなった。
やがて、画面が暗くなる。
最後に一つだけ、文字が浮かび上がった。
《記憶管理者――接続を確認》
そして、その下に。
悠が知らない名前が表示された。
《管理者:神代玲奈》
悠は、息を呑んだ。
「……玲奈?」
首元の鈴が、鳴らなかった。
画面には、さらに短い文章が表示される。
《管理者本人による最終記録の封印を確認》
その瞬間。
悠は気づいた。
玲奈は、ただ実験に巻き込まれた被害者ではなかった。
彼女もまた、何かを知っていた。
そして。
自分が忘れてしまった真実を。
十二年間、ずっと守り続けていたのかもしれない。
悠は鈴を握りしめた。
「……玲奈」
返事はない。
ただ、手の中の鈴が。
一度だけ、小さく震えた。




