生きていていい理由
光が弾けた。
砕け散ったガラスの破片が、音もなく床へ落ちていく。
その中心で、悠は手を伸ばしていた。
目の前にいた少年の身体が、ゆっくりと崩れていく。
「おい……!」
返事はない。
白い服が光に溶け、細い指先が透けていく。
まるで、最初から存在しなかったかのように。
「待てよ……!」
悠は少年の腕を掴もうとした。
けれど、指先は何も捉えなかった。
すり抜けた手が、虚空を握る。
「……なんでだよ」
自分でも驚くほど、弱々しい声だった。
「殺さないって言っただろ……!」
少年は顔を上げた。
消えかけた瞳が、悠を見つめる。
「うん」
「だったら、なんで消えるんだよ!」
「僕が、もう必要なくなったから」
「違う!」
悠は叫んだ。
「勝手に決めるな!」
少年は少し困ったように笑った。
「……君は変わったね」
「何がだよ」
「昔の君なら、僕が消えても何も言わなかった」
「……」
「むしろ、喜んだと思う」
その言葉に、悠は何も返せなかった。
確かに、そうだったのかもしれない。
自分の中にある苦しみを知らずに済むなら。
誰かが代わりに背負ってくれるなら。
自分が笑っていられるなら。
きっと、何も考えなかった。
けれど今は違う。
目の前の少年が消えていくことが、たまらなく怖かった。
「……俺は」
悠は唇を噛んだ。
「お前が誰なのか、まだ全部分かってない」
少年は黙って聞いていた。
「何をされたのかも、何を忘れたのかも、全部は分からない」
一歩、近づく。
「でも、お前が俺の一部なら」
悠は手を伸ばした。
「勝手にいなくなっていい理由にはならないだろ」
少年の目が揺れた。
初めて。
本当に、泣きそうな顔をした。
「……そんなこと」
「あるんだよ」
悠は笑った。
いつもの、誰かを安心させるための笑顔ではなかった。
泣きそうなのを誤魔化すような、不器用な笑顔だった。
「俺だって、まだ生きてる理由なんて分からない」
少年が目を見開く。
「明日になったら、また全部嫌になるかもしれない。自分のことが許せなくなるかもしれない」
悠は正直に言った。
「それでも、今はお前に消えてほしくない」
静寂が落ちた。
警報は止まっていた。
モニターの光も消え、部屋には二人の呼吸だけが残っていた。
やがて、少年が小さく口を開く。
「……僕も」
「え?」
「本当は、消えたくなかった」
その声は、ひどく幼かった。
「でも、僕がいなくならないと、君が苦しむと思ってた」
悠の胸が締めつけられた。
「……そうか」
「君が笑っていられるなら、それでいいって」
少年は俯いた。
「ずっと、そう思ってた」
悠は首を横に振った。
「もう、そんなこと考えなくていい」
「でも……」
「俺が苦しいなら、一緒に苦しめばいい」
言ってから、悠は少しだけ顔をしかめた。
「……いや、苦しみを分け合うって、言い方も変か」
こんなときなのに、妙な言葉を選んでしまった。
それでも。
「とにかく、一人で決めるなよ」
少年は、しばらく悠を見つめていた。
そして。
小さく頷いた。
「……うん」
その瞬間。
少年の身体から溢れていた光が、ぴたりと止まった。
消えかけていた輪郭が、少しずつ戻っていく。
「……え?」
悠が目を瞬かせる。
少年も、自分の手を見つめていた。
「消えない……?」
首元で、鈴が鳴った。
チリン。
玲奈の声が、優しく響く。
『悠は、もう拒絶していないから』
「玲奈……?」
『この子がいなくなることも、自分が苦しむことも。全部、受け入れようとしてる』
鈴の音が、静かに続く。
『だから、この子もここにいられるんだよ』
悠は少年を見た。
少年も、悠を見ていた。
「……じゃあ」
悠は恐る恐る尋ねた。
「お前、消えなくていいのか?」
少年は、自分の手を握った。
指が動く。
確かな感触がある。
やがて、少年は顔を上げた。
「……うん」
その目から、涙が零れた。
「僕、ここにいていいんだ」
「ああ」
悠は頷いた。
「いていいんだよ」
少年は泣いた。
声を上げて。
今までずっと我慢していたものを、ようやく吐き出すように。
悠は、その姿を黙って見つめていた。
自分の中に、こんなにも泣きたかった自分がいたことを。
今まで、知らなかった。
いや。
本当は、知っていたのかもしれない。
ただ、認められなかっただけで。
「……名前」
泣き止んだ少年が、ぽつりと言った。
「え?」
「僕、名前がないんだ」
悠は少し考えた。
鈴。
怒り。
罪悪感。
記憶。
自分から分かれた存在には、それぞれ意味があった。
けれど。
この少年に、どんな名前をつければいいのだろう。
「……今すぐ決めなくてもいいか」
悠が言うと、少年は不思議そうに首を傾げた。
「いいの?」
「名前って、そんな簡単に決めるもんじゃないだろ」
「でも、鈴は悠がつけたんでしょ?」
「……よく知ってるな」
「君の記憶だから」
少年は少しだけ笑った。
「僕も、君に決めてほしい」
悠は困ったように頭を掻いた。
「じゃあ、考えとく」
「うん」
そのとき。
部屋の奥で、低い音が響いた。
ゴウン。
悠たちが振り返る。
壁のモニターが、一台だけ点灯していた。
画面には、見覚えのない文字が表示されている。
《No.000――生存確認》
その下に。
新しい文字が浮かんだ。
《観測計画、最終段階へ移行》
悠の笑顔が消えた。
「……まだ終わってないのかよ」
少年が、ゆっくりと悠の服の裾を掴む。
「悠」
「ん?」
「僕、思い出したことがある」
その声は、震えていた。
「この実験を始めた人……」
少年はモニターを見つめる。
「僕たちを作った人は、父さんでも母さんでもない」
悠の喉が、小さく鳴った。
「……じゃあ、誰なんだ?」
少年は答えた。
その名前を。
悠は、知っていた。
知っているはずがないのに。
ずっと昔から、何度も聞かされていたような気がした。
「神代――」
少年が続ける。
「悠自身だよ」
悠は、息をすることさえ忘れた。




