僕を殺して
「僕を殺して」
その言葉だけが、異様なほど鮮明に聞こえた。
警報が鳴り続けている。
赤い光が部屋を照らしている。
けれど悠には、それすら遠かった。
「……嫌だ」
小さく呟く。
少年は首を傾げた。
「どうして?」
「分からない」
「じゃあ、どうして嫌なの?」
「……分からない」
悠はガラスに手を押しつけた。
「でも……嫌なんだ」
少年は少しだけ笑った。
「そう」
まるで、それで十分だと言うように。
「なら、君はやっぱり僕じゃないね」
「……何?」
「僕なら、迷わず殺すから」
悠の眉が動いた。
「どういう意味だ」
「僕はそのために作られたから」
少年の声には、感情がなかった。
「君が生きるために、僕は死ぬ」
「そんなの――」
「ずっとそうだった」
少年は淡々と続ける。
「君が怒れないように、僕が怒った」
「……」
「君が泣かないように、僕が泣いた」
「……」
「君が怖がらないように、僕が全部怖がった」
少年の胸元に、黒い線のようなものが浮かび上がった。
それは身体の中を走る管ではない。
まるで。
感情そのものを縛っているようだった。
「そして最後に」
少年は悠を見た。
「君が生きるために、僕が全部忘れた」
悠の胸が痛んだ。
「……全部?」
「うん」
「何を忘れたんだ」
少年は答えなかった。
代わりに。
モニターが一斉に切り替わった。
古い映像が流れ始める。
白い部屋。
小さな悠。
そして、その隣にいる玲奈。
二人は床に座っていた。
『お兄ちゃん』
幼い玲奈の声。
『なに?』
『約束して』
『うん』
『絶対、私を置いていかないで』
幼い悠は笑っていた。
『約束する』
映像が乱れる。
次の場面。
白い服を着た大人たち。
その中央に、小さな悠が立っている。
『開始します』
『No.000、感情分離実験』
悠は怯えていた。
けれど。
その隣には少年がいた。
まだ幼い。
今、ガラスケースの中にいる少年と同じ顔。
『怖い?』
少年が聞く。
幼い悠は頷いた。
『じゃあ、僕が怖がるよ』
その言葉に。
現在の悠が息を止めた。
「……俺の代わりに?」
少年は頷いた。
「そう」
「ずっと?」
「ずっと」
「じゃあ……」
悠は震える声で尋ねた。
「玲奈のことも?」
少年は目を伏せた。
「……うん」
「玲奈を失ったときの悲しみも?」
「うん」
「父さんを殺したときの罪悪感も?」
「うん」
「鈴を失いそうになったときの怒りも?」
「うん」
悠の声が震える。
「全部……お前が?」
「そうだよ」
静かな返事だった。
「だから君は、笑えた」
悠は俯いた。
笑うことしかできなかった。
何も知らないふりをして。
何も感じないふりをして。
けれど本当は。
全部、自分の中にあった。
ただ。
誰かに押しつけていただけだった。
「……ごめん」
少年が顔を上げる。
「何で謝るの?」
「お前に全部押しつけてた」
「違うよ」
少年は首を横に振った。
「君は知らなかった」
「でも」
「知らなかったなら、君のせいじゃない」
「……」
「だから――」
少年はもう一度笑った。
「殺して」
悠は首を振った。
「嫌だ」
「どうして?」
「俺はもう――」
悠は目を閉じる。
そして。
はっきりと言った。
「自分の感情を誰かに押しつけるのは、やめるって決めた」
少年の目が大きく開く。
「だから」
悠はガラスを強く叩いた。
「お前を殺して、俺だけが生き残るなんて――」
ガラスに亀裂が走った。
「そんなの、絶対に認めない!」
亀裂が一気に広がる。
警報がさらに大きくなる。
『警告』
『統合条件が不成立』
『対象No.000――拒絶を確認』
悠の目が赤く光った。
「……拒絶?」
その言葉に。
悠は気づいた。
自分の能力が、何に反応しているのか。
「そうか」
悠は静かに笑った。
「俺が拒絶するのは、お前じゃない」
ガラスケースを見つめる。
「お前が死ななきゃ俺が完成しないっていう――」
右手を握る。
「そのルールだ」
世界が、一瞬だけ静止した。
「俺はもう」
悠は言った。
「誰かを犠牲にしない」
その瞬間。
ガラスケースが砕け散った。
そして。
少年の身体が、光の中へ落ちていった。




