原型
「やっと会えたね」
その声が響いた瞬間、駅の空気が凍った。
人のざわめきも、電車の走行音も、すべてが遠ざかっていく。
悠は動かなかった。
いや――動けなかった。
玲奈の鈴から聞こえた声。
それは、玲奈のものではなかった。
もっと幼い。
少年の声だった。
「……誰だ」
ようやく絞り出した声は、自分でも驚くほど低かった。
返事はない。
ただ、駅構内に設置されたすべての時計が、同じ時刻を示していた。
十二時三分。
秒針さえも動いていない。
「悠……」
澪が不安そうに名前を呼ぶ。
悠は振り返った。
「大丈夫」
いつものように笑った。
「ちょっと、変な放送が流れただけだから」
笑えている。
ちゃんと。
口元も、声も、いつも通り。
けれど。
胸の奥では、何かがずっと叫んでいた。
――違う。
――あれは放送じゃない。
――俺を呼んでいる。
悠は首元の鈴を握った。
冷たい。
それなのに、触れた瞬間だけ熱を持ったように感じた。
「……玲奈?」
鈴は答えない。
代わりに。
また、声がした。
『玲奈じゃないよ』
悠の指が止まった。
『僕だよ』
「……お前は誰だ」
『知ってるくせに』
その言葉に、悠の背筋が冷たくなった。
知っている。
そんなはずはない。
記憶にない。
顔も知らない。
名前すら知らない。
それなのに。
なぜか――懐かしかった。
胸の奥に、古い記憶が触れたような感覚。
ほんの一瞬。
白い部屋が見えた。
小さな手。
白い壁。
黒い紐。
そして――
自分と同じ目。
「……っ」
悠は頭を押さえた。
「悠!?」
澪が駆け寄ってくる。
「大丈夫。平気……」
「平気じゃないでしょ」
「本当に平気だから」
笑う。
また笑う。
そうすれば、誰も怖がらない。
そうすれば――
昔の自分が、そうだったように。
「……笑うなよ」
突然。
鈴から声がした。
悠の笑顔が止まった。
『その笑い方、嫌いだ』
「……」
『だって、それ』
少年の声が、少しだけ震える。
『僕を隠すために覚えた笑い方だから』
悠の目が見開かれた。
「……何を言ってる」
『僕は、お前が笑う前から知ってる』
「やめろ」
『お前が泣いてたことも』
「やめろ」
『玲奈を失うのが怖かったことも』
「やめろ!」
駅中に、悠の声が響いた。
澪たちが息を呑む。
けれど、鈴の声は止まらなかった。
『それでも一番怖かったのは――』
一拍。
『自分が、誰なのか分からなくなることだった』
悠は何も言えなかった。
その言葉だけは。
知っていた。
ずっと昔から。
胸の奥に沈んでいた。
自分でも名前をつけられなかった恐怖。
「……お前は」
悠はゆっくり顔を上げた。
「俺の何なんだ」
初めて。
少年の声が、はっきりと笑った。
『僕は――』
駅の電光掲示板が、一斉に点灯した。
そこに表示された文字を見て、悠は息を止めた。
《No.000》
その下に、もう一つ。
《原型個体》
そして最後に。
《神代悠》
「……違う」
悠は首を振った。
「俺が、原型じゃない」
『うん』
「俺は俺だ」
『そうだね』
「じゃあ……原型っていうのは誰だ」
しばらく沈黙があった。
やがて。
鈴の向こうから、小さな声が聞こえた。
『僕』
悠の心臓が、大きく跳ねた。
『僕が、お前の原型だよ』
その瞬間。
駅のガラス窓に、悠ではない少年の姿が映った。
十歳にも満たない。
黒い紐を首に巻き。
同じ目をしている。
けれど、その目には――
今の悠にはないものがあった。
恐怖も。
悲しみも。
怒りも。
すべてを知っているような、静かな目。
少年はガラスの向こうで笑った。
「初めまして」
悠は息を呑んだ。
少年は続けた。
「僕が最初の神代悠」
そして。
「君は――」
少年の姿が、ゆっくりと消えていく。
「僕から作られたんだよ」
十二時三分。
止まっていた時計が。
一斉に動き始めた。
カチッ。
カチッ。
カチッ。
その音だけが、異様なほど大きく響いた。
悠は立ち尽くしていた。
自分が何者なのか。
今まで信じてきたものが、また一つ。
音もなく崩れていく。
それでも。
悠は笑った。
ほんの少しだけ。
「……じゃあ」
その笑顔には、もう以前のような無理はなかった。
「確かめに行こうか」
鈴を握りしめる。
「俺が誰なのか」
そして。
「お前が何者なのか」
遠くで、電車の発車ベルが鳴った。
その音に混じって。
少年の声が、最後に一度だけ聞こえた。
『待ってるよ』
――最初の僕が。
悠は歩き出した。




