存在しない事件
バスが走り去る音だけが残った。
悠はしばらく動かなかった。
ベンチは空っぽだった。
白いワンピースも、麦わら帽子も、もうどこにもない。
「悠?」
澪が不思議そうに覗き込む。
「誰かいた?」
悠はゆっくり首を横に振った。
「……いや。」
嘘だった。
玲奈がいた。
確かに見えた。
でも、それを口にしても伝わらない気がした。
ポケットの中の鈴だけが、まだほんのり温かかった。
◇
最寄りの町へ着いたのは昼前だった。
小さな駅前。
コンビニ。
古い喫茶店。
制服姿の高校生が自転車で通り過ぎていく。
何も知らない日常が流れていた。
悠はその景色をぼんやり眺める。
「……普通だ。」
あまりにも普通だった。
数時間前まで命を懸けていた世界とは思えない。
「一度、警察へ行きましょう。」
医師が言った。
誰も反対しなかった。
◇
交番は駅前にあった。
若い警察官が対応してくれる。
「どうされましたか?」
医師が深呼吸をして話し始めた。
「山の中に違法な研究施設がありました。」
警察官は一瞬だけ驚いた顔をした。
「研究施設、ですか?」
「子どもを監禁して実験を……」
「場所は分かりますか?」
「はい。」
地図を広げる。
山道を指差す。
「この辺りです。」
警察官は端末で地図を確認した。
数秒後、首を傾げる。
「ここは県有林ですね。」
「違います!」
澪が思わず声を上げた。
「建物があったんです!」
「申し訳ありません。」
警察官は困ったように笑う。
「この場所に建物の登録はありません。」
「登録じゃなくて!」
澪の声が震える。
「私たちはそこから逃げてきたんです!」
警察官は真剣な表情になった。
「何か事件に巻き込まれましたか?」
悠は黙っていた。
説明すればするほど、自分たちがおかしく聞こえる。
施設は消えた。
記録もない。
証拠もない。
ポケットの鈴だけが唯一の証拠なのに、それは誰にも見えない。
医師が静かに言った。
「失礼しました。」
交番を出るしかなかった。
◇
外へ出ると、澪が悔しそうに唇を噛んだ。
「信じてもらえなかった。」
「当然だよ。」
悠は苦く笑う。
「俺でも信じない。」
如月は腕を組んだまま空を見上げる。
「いや。」
「え?」
「一つだけ変だ。」
如月は駅前の大型掲示板を指差した。
そこには「地域の歴史展」のポスターが貼られていた。
古い写真が何枚も並んでいる。
その中の一枚を見た瞬間、悠の足が止まった。
山だった。
施設があった場所の写真。
撮影日は――十四年前。
写真には建物が写っていた。
白い三階建ての施設。
間違いない。
「……あった。」
悠が呟く。
澪も写真に駆け寄る。
「これ!」
医師も目を見開いた。
「鳳園研究所……。」
写真の下には説明文がある。
「旧・鳳園研究所(平成×年閉鎖)」
悠は息を呑んだ。
「閉鎖……?」
説明文を読む。
「児童福祉施設として建設されたが、閉鎖後に解体。」
児童福祉施設。
研究所。
どちらも書かれている。
だが、実験のことは一文字もない。
「隠されてる。」
澪が小さく言った。
その時、悠は写真の端に小さな人影を見つけた。
施設の前に並ぶ子どもたち。
一人だけ帽子を被った女の子がこちらを向いている。
玲奈だった。
悠は思わず写真へ手を伸ばす。
指先が触れた瞬間。
頭の中に強烈な映像が流れ込んだ。
施設の玄関。
たくさんの子どもたち。
笑って写真を撮る職員。
そして、その一番後ろ。
カメラを持っている人物。
シャッターを押す瞬間、その人が笑った。
「……黒瀬。」
悠の声が震えた。
写真を撮っていたのは黒瀬だった。
しかも、今よりずっと若い姿で。
「どうした?」
如月が尋ねる。
悠は写真から目を離せない。
「黒瀬は。」
ゆっくり言う。
「最初から職員としてここにいた。」
医師の表情が変わる。
「そんなはず……。」
「先生も知らなかったの?」
医師は青ざめて首を振る。
「黒瀬は途中から来た研究員だと聞かされていた。」
悠は写真を見つめ続ける。
違う。
黒瀬は最初からいた。
もっと前から。
もっと深く。
そして、その写真の裏に、小さく印刷された番号が目に入る。
No.000
悠の胸がざわつく。
R-01。
Y-17。
そして――No.000。
その番号だけが、他と違っていた。
ポケットの中で鈴が鳴る。
――チリン。
玲奈の声が聞こえる。
『お兄ちゃん。』
『黒瀬は、最後じゃない。』
悠の心臓が大きく鳴る。
『始まりなんだよ。』




