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壊れた僕は、今日も笑う。  作者: ニィギンヤ


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外の世界

 朝日が眩しかった。


 悠は思わず目を細める。


 長い間、白い照明と赤い非常灯しか見ていなかった目には、本物の朝の光が痛いくらいだった。


 空は青かった。


 雲がゆっくり流れている。


 どこにでもある景色なのに、涙が出そうになる。


 施設の跡地から一歩離れると、湿った土の匂いがした。


 草が風に揺れる音が聞こえる。


 世界は何事もなかったように朝を迎えていた。


「……終わった。」


 悠がぽつりと呟く。


 その声に返事をしたのは澪だった。


「うん。」


 少し笑っている。


 でも、その目は赤かった。


 二人はしばらく黙って歩いた。


 誰も言葉を探せなかった。


 十二年という時間は、一言で終わらせられるほど短くなかった。


 如月が少し前を歩きながら振り返る。


「神代。」


「ん?」


「体は平気か。」


「……分からない。」


 正直な答えだった。


 疲れている。


 眠い。


 胸が痛い。


 でも、不思議なくらい呼吸は楽だった。


「頭の中が静かなんだ。」


 悠は自分でも驚きながら言う。


「ずっと何かが叫んでた感じがしてたのに。」


 如月は小さく頷いた。


「全部抱えたからだ。」


「全部?」


「逃げるのをやめた。」


 その言葉は短かった。


 でも、悠には十分だった。


 ◇


 山道を下り始めて三十分ほど経った頃だった。


 舗装された道路が見えてきた。


 古いガードレール。


 色あせたカーブミラー。


 人が生活している世界の景色だった。


 澪が立ち止まる。


「携帯。」


「え?」


「電波ある。」


 画面には圏外ではなく、アンテナが立っていた。


「繋がった……。」


 澪はすぐにどこかへ電話をかけようとして、指を止めた。


「どうした?」


「誰に電話すればいいか分からない。」


 その一言に、悠は言葉を失う。


 事件を説明する相手がいない。


 十二年前の施設なんて、存在すら知られていないかもしれない。


 医師の女性が静かに言う。


「まずは警察に。」


「……信じてもらえますか。」


 澪が尋ねる。


 女性は少し困ったように笑った。


「全部は無理でしょうね。」


「じゃあ。」


「でも。」


 女性は施設の方を振り返る。


「証拠は残っているはずだった。」


 その言葉に、悠も振り返る。


 山の中腹にあるはずの建物。


 巨大だった研究施設。


 そこには――何もなかった。


「……え。」


 全員が立ち止まる。


 崩れた瓦礫もない。


 煙もない。


 森が広がっているだけだった。


「施設が……。」


 澪の声が震える。


「ない。」


 悠は目を見開いた。


 ついさっきまで歩いていた場所だ。


 何百もの部屋を抜けてきた場所だ。


 それが跡形もなく消えている。


 医師の女性が青ざめる。


「そんな……。」


 如月は険しい顔で森を見る。


「消えたんじゃない。」


「え?」


「最初から存在しなかったことになっている。」


 悠の胸がざわつく。


 父親の言葉が蘇る。


 ――拒絶したものだけを世界から消す力。


「俺が……。」


 悠はかすれた声で呟く。


「施設を拒絶したから。」


 世界から消えた。


 誰も知らない場所になった。


 医師が震える手で地図アプリを開く。


「ここに建物の記録がない……。」


 衛星写真にも、ただ森が映っているだけだった。


 澪が悠を見る。


「悠。」


「うん。」


「私たちだけが覚えてるの?」


 悠は答えられなかった。


 その時だった。


 ポケットの中で、小さな振動を感じる。


 鈴だった。


 誰にも見えない鈴が、微かに温かくなる。


 ――チリン。


 玲奈の声が聞こえる。


『まだ終わってないよ。』


 悠の足が止まる。


「玲奈?」


 澪が振り返る。


「どうしたの?」


 悠はポケットを押さえた。


「今……。」


 声が聞こえた。


 確かに。


『後ろ。』


 悠は反射的に道路の反対側を見る。


 古びたバス停が一つだけ立っていた。


 誰もいないはずのベンチに、小さな女の子が座っている。


 白いワンピース。


 麦わら帽子。


 こちらを見て笑っていた。


 玲奈だった。


 悠が一歩踏み出した瞬間。


 バスが通り過ぎる。


 ほんの数秒。


 車体が視界を遮る。


 バスが通り過ぎた時には、ベンチは空だった。


 誰もいない。


 風だけが吹いている。


 悠は立ち尽くした。


 幻だったのか。


 そう思いかけた時。


 ポケットの中の鈴が、もう一度だけ鳴った。


 ――チリン。


『ちゃんと前を向いて。』


 優しい声だった。


 悠はゆっくり目を閉じる。


 そして、小さく頷いた。


「……うん。」


 その返事は、誰にも聞こえなかった。

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