抱えたままで
――残り六百秒。
無機質な機械音が、崩れ始めた部屋に響いていた。
天井から白い粉が降り続ける。
壁一面に並んでいたモニターは、一台、また一台と黒く消えていく。
けれど悠は動かなかった。
目の前には、自分と同じ顔をした少年が立っている。
伸ばされた右手。
その距離は、あと少しだった。
「お兄ちゃん!」
玲奈の叫びが耳に届く。
振り向けば、玲奈は泣いていた。
澪も、如月も、医師も、誰も悠に近づけない。
部屋の中央だけが、不自然に静まり返っていた。
悠はゆっくり口を開く。
「お前は……俺の罪悪感なんだな。」
黒い悠は頷いた。
「そう。」
「ずっと一人だった。」
「……ああ。」
「苦しかった。」
その言葉に、悠の胸が締め付けられた。
責める声ではなかった。
助けを求める声だった。
「俺を消したかった?」
悠が尋ねる。
黒い悠は少しだけ笑った。
「違う。」
一歩だけ近づく。
「お前が俺を消したかった。」
その言葉は刃のようだった。
悠は何も言い返せない。
図星だった。
誰かを見捨てようとした自分。
父を殺した自分。
憎しみを抱いた自分。
全部いなかったことにしたかった。
だから笑った。
だから忘れた。
だから閉じ込めた。
黒い悠は静かに続ける。
「でも。」
「俺は消えなかった。」
「……。」
「お前が毎日、自分を責め続けたから。」
悠は目を閉じた。
毎日。
理由もなく苦しかった。
何もない日に、自分が嫌いだった。
それは、この少年が一人で抱えていた痛みだったのかもしれない。
「ごめん。」
自然に言葉がこぼれた。
黒い悠の目が揺れる。
「遅い。」
「うん。」
「すごく遅い。」
「うん。」
悠はもう否定しなかった。
「本当にごめん。」
静かな沈黙が落ちる。
崩壊の音だけが遠くで鳴っていた。
やがて黒い悠が、小さく息を吐く。
「……ずるいな。」
「何が。」
「謝られたら。」
少しだけ口元が緩む。
「怒れなくなる。」
その笑顔は、初めて人間らしかった。
悠はゆっくり手を伸ばした。
怖かった。
この手を取れば、自分の中の全部を受け入れることになる。
もう「優しい自分」だけではいられない。
それでも。
逃げたくなかった。
指先が触れる。
温かかった。
黒い悠は驚いたように目を見開く。
「拒絶しないのか。」
「しない。」
悠はまっすぐ答えた。
「お前は俺だから。」
その瞬間。
白い部屋いっぱいに黒い光が広がった。
壁の亀裂が止まる。
崩れかけた床が、一瞬だけ静止する。
玲奈が息を呑む。
「……融合してる。」
黒い悠の身体が、少しずつ光になっていく。
「消えるのか?」
悠が思わず手を握る。
黒い悠は首を横に振った。
「違う。」
穏やかに笑う。
「帰るだけ。」
光は悠の胸へ流れ込む。
怒り。
後悔。
罪悪感。
胸が焼けるように痛い。
涙が止まらない。
けれど、不思議だった。
苦しいのに、どこか軽かった。
最後に黒い悠の声だけが聞こえる。
『もう、一人で抱えなくていい。』
光が消える。
部屋には悠だけが立っていた。
胸に手を当てる。
心臓の音が聞こえる。
今までより、少しだけ力強く。
「……いる。」
悠は小さく呟く。
「ちゃんといる。」
その瞬間だった。
施設全体が大きく揺れる。
今まで止まっていた崩壊が、一気に始まった。
『崩壊まで残り三百秒。』
警報が鳴り響く。
医師が叫ぶ。
「出口が塞がる!」
如月が奥の通路を見る。
「急げ!」
玲奈は悠の手を強く握った。
「お兄ちゃん!」
悠は頷く。
「帰ろう。」
その一言を口にした瞬間。
崩れ落ちる天井の向こうに、外の光が見えた。
長かった十二年前が、ようやく終わろうとしていた。




